第十三手 教師の心
そこは、つい最近入室した場所だった。
狭い、ひっそりと佇む部屋。生徒指導室。
窓も無いそこは、少し冷える空気にも、カビの臭気を残した。
まさか、この短期間で二度もここに入るとは、由紀は予想だにもしていなかった事だろう。
不快感を感じる部屋。だが、由紀にはそれを気にする余裕もない。
「お願いします…………お願いします………
お父さんには……………お父さんだけには…………
この事を言わないで下さい……」
部屋には、紀藤だけ。流石に長谷川を交える訳にはいかず、彼女は紀藤によって下校を促された。
「苫米地さん…………
どうして、そこまでお父さんにこの事を知られたくないの?
……………‼ 」
紀藤の頭の中でその答えが推定される。
「今回の件の原因は、苫米地さんの家庭の事情が関係しているのね? 」
その推定は、正しく的を射る。
由紀が、光の無い瞳を落したまま、肩を一度大きくビクつかせた。
その反応が、解答の全てを示していた。
紀藤の中で、今回の件のロジックが組み上がっていく。
黒塗りの答えは、一つ。
「誰? 」
部屋の中には紀藤の声だけがハキハキと響く。
「苫米地さんをいじめているのは……クラスの特定の子なの? 」
真一文字に閉じた、その蕾の様な唇を見て、紀藤は返答と捉える。
しかし、沈黙は続き、そのまま数分。
紀藤は待った。由紀が話してくれるのを。そのままずっと待っても良かったが、生徒を遅くまで学校に残すのは、教員のマニュアルに反する。
この沈黙に先に動いたのは、紀藤だった。
「わかった。苫米地さん。お父さんには、苫米地さんのご家族には、絶対に言わない。約束する。先生が水面下で問題を解決する。」
由紀の瞳がきょろきょろと足元を這った。
由紀の息遣いが、大きな音をたてはじめる。
由紀の顔色が、蒼白に変わっていく。
「わ………あたしが………あたしが……我慢すれば……いいんです。」
動いてみては、たった数分の事だった。だが、岩の様に動かなかった由紀から、遂に紀藤は反応を得た。
「我慢? 何を我慢してるのかな? 」
その、顔を出した小さな心を、怯えさせない様。紀藤の声に優しさと慈愛が混じる。
「あたしが、皆に………遠藤さん達に、迷惑を掛けるから。」
――遠藤……⁉ ――
突如、漏れた個人名。それは、紀藤が予測もしていない、人物だった。
確かに、遠藤は外見こそ派手に彩っており、第一印象は良くないかもしれないが、担任教師として、彼女の内面を知れば、それは誤解だと思っていた。
遠藤は、授業も真面目に受けるし、外でも、これと言った問題を起こす訳でもない。
むしろ、女子内でリーダーシップを発揮し、何度も行事では助けられたほどだ。
紀藤は、その事を由紀に悟られぬ様、声に注意して、更に追求した。
「遠藤さん達に……? どんな迷惑を掛けたの? 」
「…………日直の仕事を忘れ………たり………
体調崩して………勝手に保健室に行った事で………先生に説明してもらったり……」
「それで、教科書に落書きを? 」
由紀の言った事は根拠としておかしい。
彼女が何かを隠している事を、紀藤は読み取る。
いじめの、始まりの理由は証言とは恐らく違うもの。
そして、それは、事前の会話から、明らかになっている。
由紀は話の脈絡から、それを遠ざけようとしている。無意識に。
由紀にとってそれ程に隠したい事なのだ。
紀藤は、本当の理由を尋ねるのを止める事にした。
「わかった。苫米地さん。先生が遠藤さん達とも話してみる。」
由紀が顔を挙げる。その表情はあまりにも悲痛さが漂う。
「大丈夫。約束したでしょう? 先生がちゃんと解決する。
ただ、遠藤さん達の話も聞かなきゃ本当の解決には近づけないと思うの。
だから、今度、皆で話そう?
苫米地さん。
これはね、我慢なんてしなくていい事なの。」
そう言うと、紀藤は立ち上がり、由紀の鞄を持つ。
「今日は、遅くなってしまったわ。これで終わりにしましょう。」
由紀は、その鞄を受け取ると、もう一度懇願する様な眼差しで、口を開く。
「お父さんには……」
「言わない、心配しないで。絶対に言わないわ。」
にっこりと笑う。安心感を与える、心強い笑顔だ。
部屋を出て行く由紀の背中を見つめ、紀藤は頭を両手で抱えた。
香りを残したセミショートの髪がクシャクシャと指間からはみ出る。
――しっかりしろ。――
自分の受け持ちクラスで、いじめなど起きるはずが無いと考えていた。
甘い考えだと同僚や、他者は笑う事だろう。
だが、紀藤は心底から生徒達を信じていたのだ。
それは、あの教科書を見ても、どこか心の片隅に残っていた、紀藤の教師としての心だったのかもしれない。
『由紀ちゃんも、先生の生徒でしょう⁉ 』
長谷川の声が耳元で木霊する。
紀藤はもう一度、頭を抱え、少しの間、そこから動く事も出来なかった。
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