第三手 漆黒の欲望と善意の白菜

 東京某所。


 「清澄様。広島の者から、連絡が入っております。」

 その言葉に、まるで興味の欠片も無さそうに、古葉は大下の方を見る。


 「繋げ。」

 それは、表には出さないが、待ち焦がれていた朗報だと古葉は予見した。


 本当は、あの三年前の夏の大会以降、すぐにでも苫米地由紀獲得に、古葉は動きたかった。しかし、そこであの男が自分の行動を見張っているとの情報があり、なかなか行動に出れなかったのだ。


 その男とは。



 ――阿南のお蔭で、随分と手間取ったものだ………――



 「あ、もしもし。古葉先生。

 こちら、井生いおうです。頼まれていた少女ですが、確認しました。

 いやぁ、住んでいる所も以前の情報と違ったので、少し苦労しましたよ。」


 その言葉に、古葉は、大きく息を吐くと、とても好印象を与える明るいトーンで、話し始めた。


 「いえいえ、流石は井生興信所さんだ。依頼して、僅か一週間で、そこまで探って頂けるとは……約束の額に、私から少し。感謝の気持ちを加えておきますね。」


 それに続き、電話の向こうの男が喜ぶ様な感情を声に込めた。

 「それが……ですね?

  古葉先生。実はとても有益な情報も同時に掴む事が出来たんですよ。」

 古葉の眉間に深く亀裂が入った。


 「有益な………情報? 」古葉は、歯を食いしばる。


 少しの間の後、井生は笑う様に小さな声で語り掛けてくる。


 「はい………どうでしょう? こちらは別途。特別料金で………」



 「棋士を相手に、駆け引きとは………井生さんには敵いませんな。」


 表情は最早、毘沙門天の様になりながら、声にはそれを表さず、古葉は会話を続ける。

 「さて………こちらは、依頼内容とは違う情報ものですからねぇ。ただ。買い取って頂いて、絶対に損はしませんよ。お約束します。」


 ――ふん、今までその言葉、何度聴いた事か……まぁいい。――



 「解りました。お約束の口座に、倍額。振り込ませて頂きます。」


 「ありがとうございます。その情報なんですがね。

 古葉先生が言っていた

 『何故か、翌年以降の将棋全国大会に彼女が出場していなかった』

 の疑問をきっと、埋めるものとなりますよ。」


 そして、井生からこの三年間に起きた由紀の家庭事情を聞くと、古葉はここで、はじめて感情をはっきりと表した。


 「良い情報を頂きました。」そう言うと、相手がまだ何か言っていたが、電話をすぐに切った。


 「大下‼ 居るか⁉ 」

 その言葉に、老獪な紳士が、颯爽と姿を見せた。


 「既に、外出の準備は整えております。」

 その返事に、古葉が両手を叩いて喜んだ。


 「素晴らしい。頼んだぞ。大下。」


 「はい、必ずや。苫米地様をこちらに、お連れ致します。

 どうか、清澄様は、お仕事の方にご集中下さいませ。」



 真っ黒い欲望が。由紀の知らない所でゆっくりと、動き始めていた。





 ――――――


 「あら? 苫米地さんはどうしたの? 」

 朝のHR時に、空席に気付いた紀藤が、クラスにそう尋ねる。

 しかし、誰一人すぐには返事をしない。


 「お休みじゃないですかぁ? 」

 誰かが面倒そうにそう言うと、紀藤は首を横に振った。


 「朝、校門で会ったわ。誰か、苫米地さん、何処に行ったか知らないの? 」


 次の瞬間、遠藤が元気よく右手を挙げる。

 「あ、すいませーん。さっき苫米地さん。

 お腹痛いって、保健室に行ってたの見ましたー。」そして、同時にそう言った。


 「保健室⁉ 大変。大丈夫かしら………

 えっと………一時限目は理科だったわね……

 ごめん、遠藤さん。理科の先生に、苫米地さんの事伝えておいてもらえる? 」

 遠藤は、にっこりと微笑むと、頷いた。


 「はい! 勿論です! 」その反応に、紀藤も信頼した笑顔を見せた。

 「ありがとう。お願いね。」



 紀藤が、保健室に向かう途中。


 顔色を真っ青にした由紀が、反対側から向かってくるのが見えた。

 「苫米地さん! 」

 その声に由紀は、身体が倒れてしまいそうな程、驚いた。


 「大丈夫? 遠藤さんから保健室に行った。って、聞いたから。」

 心配そうに近づいてくる紀藤から、目を反らすと、由紀は愛想笑いを浮かべる。


 「あ、す、すいません………ご心配なく………

 も、もう……だ、大丈夫ですから……」

 その顔色は、明らかに言葉と矛盾したままである。


 「………本当に?

 すごく顔色が悪いわ。無理はしちゃ駄目よ。

 ご両親に連絡して、迎えに来てもらう? 」

 その紀藤の言葉に、由紀は目が零れる程見開くと、首がもげてしまいそうな程、首を振るう。


 「も、もう、だ、大丈夫です! あ、あ、ありがとうございました! 」



 「あっ、待って! 」

 しかし、その言葉は虚しく。由紀はあっという間に教室の方へと走り去っていった。



 理科の教科書とノートを持って、理科室に入ると、一片に部屋の視線が集まった。朝の食事が喉まで上がってくるのを必死で抑えると、理科教師に遅れた説明と謝罪を行った。


 「ほいじゃあ、これから微生物を顕微鏡で見る実験をするから、好きなとこに入れてもらって参加しなさい。」


 「え………」由紀が席の方を見ると。確かに、いつもの班割りではない。

 これには弱った。由紀は、俯くと居場所を無くし、固まってしまう。


 「苫米地さーーん。ここおいでよーーー」

 ギクリと、身体が揺れる。


 顔を挙げると、遠藤と、いつもの顔がニヤニヤしながら手招きをしている。


 「早く、席付けよー。」理科教師が、焦らせる様に、由紀に声を掛ける。

 「ゴクリ………ゴクリ……」二度、生唾を呑み、額に冷たい汗をかきながら、由紀は、ゆっくりとその集まりの席へと進んでいく。


 「よーし。じゃあ、班の誰か、爪楊枝で口の中をつつけぇ。

 それをプレパラートに乗せて………」

 理科教師の声が、遠くから聴こえる。


 椅子に座っているのに、足から力が抜けない。由紀は、そんな気分を味わっていた。


 「苫米地さーん。じゃ、誰の口の細胞見るか、じゃんけんしよー。」

 遠藤の声に、意識が戻る。


 「う…………うん…………」

 由紀の表情を見ると、遠藤は満足した様に説明を始める。


 「じゃあ、一人もんが負けよ。ねー。

 はい、ひーとりもんが、まーけーーー。っよ。」


 班の面子が一斉に手を前に出す。無論、由紀もだ。

 「あ…………」

 たった、一回で決着がついた。由紀以外の五人がまるで、示し合わせた様に『パー』を出していた。

 「あらら、苫米地さん、ツイてなかったねー。はい。じゃあよろしく。」

 そう言うと、爪楊枝を手渡してくる。

 「はい…………」それを受け取ると、理科教師の説明を聞き、由紀は口の内頬を軽くそれで撫でた。


 撫でた瞬間。

 「きゃーーー」と、班の女子達が騒ぎ始めた。

 「ドクン」みぞおちから、全身に嫌な鼓動が流れる。

 その騒ぎ立てる意味は知らない。いや、由紀は心の底から『知りたくない』と思った。


 「ごめーーーん、苫米地さん。それ、河野君が使った後のやつだった~~。」

 河野とは、以前に由紀の体操着を入れられていた男子だ。


 「よかったねー。河野ー。女子と間接キスになったよー。」


 由紀は、立ちくらみを覚えた。

 もう嫌だ。と叫ぶ気にもならなかった。

 何が、この人達は、そんなに面白いのだろうか。と、そのくだらなさで、気分が悪くなったのだ。

 由紀は、何も言わず。じっと席に着いた。


 「うっわー。細胞キモぉ………」

 「どっちの細胞だろうねー。」

 「そら、二人の愛の結晶でしょ。」

 「流石。母親の手の速さはしっかりと受け継いでいる訳ね。」


 女子達が、嘲笑を含め、聴こえる様にそんな事を言っている。


 ――あと、六時間……授業。出たら………

 おうちに……帰れる………今晩は……パパに……何……作ってあげよう? ――


 いつからだろう。

 彼女も、初めは考えていた。何故、彼女達は自分にこんな事をするんだろうと。

 それは由紀程の。

 非凡な。

 そのロジックを解く力を以てしても。結論が出なかった。

 自分の存在も、自分の行動も。彼女達にとっては、何の迷惑にも思いつかなかったからだ。


 だから、彼女は辛くなったら、その日が『終わる』事をひたすらに考える事にした。

 学校が終るその時間が。今の由紀にとって、一番嬉しい事だった。



 ―――――――



 帰りのHRが終ると、由紀は急いで教室を出て行こうとする。

 「待って。苫米地さん。」

 そう、彼女を引き留めたのは、赤いジャージが更に若々しさを外見に醸し出す。紀藤であった。


 「今日は、大丈夫だったの? あの後も、何だか元気が無い様に見えたわ。」

 その言葉に、由紀は笑おうとした。いや、彼女本人は笑った『つもり』だった。


 「大丈夫です。家の事がありますので、し、失礼します………」

 その彼女の表情に、紀藤は思わず伸ばした手を引いた。


 それは、あまりにも。

 それは、あまりにも中学生が浮かべる様な表情では無かったからだ。


 彼女の家庭環境の事は、担任になった時に知った。

 だからこそ、紀藤はこの時、こう考えたのだ。


 ――学問と、お家の事と両立に苦しんでいるのかしら――

 元気なく、出て行ったその後姿を、ずっと見守っていた。




 家に帰る途中にある業務用スーパー。ここは、同級生の高木の両親が経営するスーパーだ。


 「あら、いらっしゃい。由紀ちゃん。」

 カートを押して、野菜コーナーを見ていると、聞き覚えのある声に呼ばれる。


 「こんばんわ、おばさん。」

 由紀が挨拶をすると、その女性は微笑んで、シールを由紀がカゴに入れていた野菜に貼ってくれる。


 『半額』


 「い、いいんですか? 」

 由紀の慌てる声に、手を思いっきり振るって彼女は笑った。


 「いいのいいの。色々大変だろうけど、頑張ってね。」

 その言葉に、涙が出そうになった。じっと見つめる由紀に、彼女は目を丸くした。


 「どうしたの? 由紀ちゃん。」

 その言葉で、我に返る。

 「い、いえ。ごめんなさい。ありがとうございました。おばさん。」

 甘えたくなった感情を拭い去る様に、由紀はその場を後にした。


 「ただいま。」

 夕方6時。まだ、外は明るさを持っている頃に父親が帰宅する。


 「お帰り。お父さん。」

 部屋で宿題をしていた由紀は、その帰宅を確認して、途中まで仕上げていた夕食の仕上げに入る。


 「………おお。今日は何か煮込み料理かい? 」

 鼻を動かしながら、父親が由紀に尋ねた。

 由紀は、嬉しそうに答える。

 「うん。白菜を安くしてもらったから、ロール白菜にしたよ。」

 父親は、その笑顔に負けない笑顔で応える。

 「わかった。じゃあすぐにスーツを掛けてくるよ。」

 そう言って、部屋に入って行く。



 「手も、洗ってね。お父さん。」

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