第四手 ヒグラシの鳴く

 「学校はどうだい? 友達は出来た? 」

 食事中、不意に父親が放ったその言葉に、由紀は心臓を掴まれた様な気がした。


 「う………うん…………ど、どうして? 」


 「そうか。いや、ならいいんだ。ほら、由紀、学校の帰りとかも、家事で忙しいから、友達とかと遊べなくて、友達が出来ないんじゃないかって、思ってね。」


 そう言うと、父親は「うまいね。」と言って嬉しそうにロール白菜をパクついている。

 由紀は、ドキドキと鳴る胸をそっと擦った。



 その後、父親が入浴中、由紀は痛むお腹を擦りながら、後片付けを始める。


 『いい? 由紀。煮込み料理はね? 火加減が重要なの。特に、ロールキャベツは、包んだ中身が出ない様に、慎重に火加減を調整して煮込まなきゃ駄目よ? 』


 ――白菜だけど、上手に出来たよ。ママ………――


 水道の水と、別の水が「ぽとん」と、手に落ちた。思わず前腕で瞳を擦る。


 ――泣くな。パパに気付かれたら。いらない心配を掛けちゃう。――


 必死で、それを堪えると「ずずーー」と、上を向いて、思いっきり鼻を啜った。


 少し、間を空けて、落ち着いたらまた「カチャカチャ」とガラスの音をたてて洗い物を進行させる。





 「由紀。将棋しようか。」

 風呂からあがった父親が、リビングで宿題をしていた由紀に、ふとそんな誘いを投げかけた。

 「将棋? どうして? 」何となく、笑顔がぎこちない。


 

 「え? い、いや。前、あんなにしてたじゃないか。全国大会にまで行った娘に、ちょっと教わろうかなーなんて……」

 父親が、気を遣ってくれているのが解った。しかし。


 「駄目だよ。時間が掛かるもの………宿題が済まないよ。」

 「うん。そうか。」

 寂しそうに、そう言うと、父親もリビングでノートパソコンを開いて仕事を始めた。


 あの日から、由紀は雨水将棋教室には、通っていない。

 一度、長谷川に謝ろうと立ち寄ったが、結局入る事が出来なかった。

 父親が自分の為に、生活を大きく変えて頑張ってくれているのだ。自分だけが好きな事を続ける事に、彼女は引け目を感じたのだ。


 いや、それだけじゃない。

 思い出してしまうのだ。

 楽しかった日々を。


 だからこそ、彼女は宝物の様に大事に毎日使っていた、あの安物の折り畳み将棋盤も勉強机の奥深くにひっそりと隠した。


 母の事を想うと。三年経った今も、涙が溢れてくる。そんな姿を。父親に見せたくなかった。心配させたくなかった。

 その気持ちが。

 由紀に『我慢』をさせていたのだ。

 この時、彼女が学校で受けている出来事を話せていたのなら。

 或いは。未来が。

 或いは、運命が。

 変わっていたのではないだろうか………しかし、それは誰にも想定わからない事であった。



 翌日、由紀は瞼に当たる陽の明かりで飛び起きた。


 ――寝過ごした‼ ――


 その焦りの思考と同時に、今日が土曜日だと思い出した。

 ホッと、胸を撫で下ろすと、すっかり冴えてしまった為、顔を洗いに部屋を出る。


 「おはよう、由紀。」

 見ると、玄関に父親が立っていた。

 「お父さん。今日もお仕事だったの? 」

 焦って由紀が駆け寄る。


 「ごめんなさい。朝ご飯とお弁当は? 」

 その言葉を、父親は「ははは」と笑い飛ばす。

 「うん、ご飯が残ってたから、卵かけて食べたよ。昼は適当に買って食べるさ。由紀も、学校が休みの日くらいはゆっくりしなさい。」


 そう言うと、手を振って出て行った。


 ――失敗しちゃったなぁ……――

 仕方がないので、顔を洗うと、彼女も軽い朝食を済ませる。

 部屋をひとしきり掃除すると、昼前になった。


 『休みの日くらいはゆっくりしなさい』


 父親の言葉を思い出しながら、窓をぼーっと眺めていた由紀は、決心する。


 ――気分転換に、外に出てみようかな。――

 部屋に戻ると、久しぶりに外用の服に着替え、髪の毛をドライヤーで整える。


 ――ちょっとだけ………――

 おまけ程度に軽く、ファンデーションとチークをつけた。彼女もお年頃なのだ。


 「行ってきます。」誰も居ない我が家の戸を閉めた時。





 「うわぁ…………」

 肺いっぱいに、その空気を吸い込んだ。

 心地よい。彼女は、確かにその気持ちでいっぱいだった。学校が休みという事が、ストレスを一つ消し去っていたのだ。


 自転車で近所を廻るだけ。ただそれだけなのに、由紀は笑みが零れた。

 何も考えずに、行動する事なんて。本当に久しぶりだ。


 ふと、見慣れた道に出てしまった。


 則末公民館。今日は、土曜日。きっと中はあの日の様に、ゆったりとした空間の中で駒の音が聴こえるのだろう。


 しばし、感慨深く、由紀はそこに立ち止まる。

 その時だった。


 「由紀ちゃん? 」

 後ろから声を掛けられ、由紀は驚いた様に振り向いた。


 「あ………お祖父ちゃん。」

 達川の爺さんが、優しそうな笑みを浮かべてそこに立っていた。


 「ほほ、大きくなって。すっかり女の子らしくなったの………いや、由紀ちゃんは前から落ち着いていて、女の子らしかったか。」


 何だか、少し痩せたみたいだ。と由紀は思ったが、自分も身長が伸びて、見方が変わったのかもしれない。とあまり気に留めなかった。それよりも。


 「ごめんなさい………挨拶も無しに教室を辞めてしまって………」

 その言葉を真剣な表情で受け止めると、達川の爺さんは微笑んだ。


 「いやいや、あれはわしの趣味でやりょうるようなもんじゃけ、退会とか、入会とかは無いよ? 時間があれば、いつでもおいで………あ………でも、もう今は火曜の夕方しかやってないんよ。」

 

 「え? 」由紀は驚きを見せた。いや、確かに。そもそも彼が今、この時間に公民館の外に居る事が変なのだ。

 「どうして? 」率直に問いが出る事は、動揺の証拠だ。


 達川の爺さんは、由紀の様子を見ながら、なるべく明るく言った。

 「最近の子達は、やっぱり将棋とかよりもテレビゲームとかの方が人気での、ほれあれじゃよ。ポケモン? あれ、由紀ちゃんもやっとる? 」


 由紀は、悲しそうに笑って、首を振った。

 「クマ………長谷川さんは? 」

 由紀のその言葉に、達川の爺さんは「んんぅ……」と唸った。


 「やっぱり、同年代の子が居らんと、来辛かったみたいでの? あ、でもこの間挨拶に来てくれたよ。テニス部に入ったって。ほほ、クマちゃんに、よう似合っとるよの。」

 この間。というのは、恐らく由紀が来なくなって間もなくの事。つまり三年程前の話だろう。

 


 「………あたしの………せいだ………」

 由紀が口元を抑えて、顔を俯かせた。

 達川の爺さんは微笑むと、由紀の頭を撫でる。


 「そりゃ、違う。由紀ちゃん。これは誰のせいでもない。物事には流行り廃りがあって、そのサイクルは何にでも当てはまるんじゃよ。」


 しかし、そこで由紀は声を挙げて泣き出してしまった。達川の爺さんは周囲を見渡すと、由紀の肩をそっと抱いて、公民館横の裏口に誘導した。彼女の泣き顔を晒させる訳にはいかなかった。


 「由紀ちゃん、君が泣く必要は本当に無いんじゃよ? そもそも、今まで子どもが居た事が珍しい事じゃった。明が来てから、由紀ちゃんまで続いた事が、奇跡の様なものなんじゃ。それに、今まで将棋教室で借りてた日は、ダンスやら、パソコン教室が入って、また子ども達が来て賑わっとる。むしろ、この方が良かったんじゃ。」

 

 それは、心の底からの本音だった。

 しかし、由紀の心は、興奮状態に陥ってしまっている。もう、達川の爺さんの声は聞こえない。


 彼は、困った様に頬を掻き、由紀をずっと見守っていた。すると、ふと思い立った様にポケットから、甘いフルーツ味の、のど飴を出す。

 「由紀ちゃん。」彼は、優しく声を掛け、俯いた泣き顔を挙げる由紀の口に、それを放り込んだ。

 「! ? ? 」

 口の中が、しょっぱい鼻水の味から桃の甘い香りへと変わる。

 カラカラ。と、飴が歯に当たる音と、その甘さに。気付けば泣き止んでいた。


 「ふ~よかった。大分昔に、お養父さんのお孫さんが、泣き止まんでなぁ。ははは、こうやると、その子もよう泣き止みょうたんよ。何事も経験じゃねぇ。」

 由紀の様子を見て、彼は嬉しそうにそう言った。


 由紀は、興奮が冷めると、同時にとても恥ずかしくなった。久しぶりに会った、友人の保護者の人に、突然泣きついてしまったのだ。


 これでは、まるで幼児ではないか。どう、次の言葉を切り出せばいいのか、解らない。


そんな由紀の様子をまるで、解りきっているかの様に。

 達川の爺さんは、由紀の頭を撫でた。


 「落ち着いたかい? 由紀ちゃん。」


 とても、優しい顔だった。

 由紀は、疑問に思う程だった。


 ――なんで、この人は………こんなに優しいんだろう………――


 「ご、ご迷惑……お掛けしました。」

 その言葉に、彼はふふ。と笑った。


 「迷惑じゃなんて。久しぶりに由紀ちゃんと話せて、むしろ嬉しかったよ。

 何かあったら、また、将棋。指しにおいで。」


 それは、ヒグラシの鳴く、秋のはじめの事だった。

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