由紀 13歳 秋

初手 中学生

 「カチカチカチ………ボゥッ! 」

 コンロの火を確認すると、エプロン姿の少女はフライパンを乗せ、まな板の方へ向かい、ベーコンとアスパラをザクザクと切り分けた。

 そして、フライパンの温度を確かめると、スプーン一杯のサラダ油を落し、広げると卵を二つ割って入れる。途端「じゅわわ~~」っと美味しそうな香りと音が台所を包んだ。


 「おはよう………由紀。」

 その言葉に、少女は「おはよう。お父さん。」と心が嬉しくなりそうなトーンで返答しながら振り向いた。

 その少女は、拳二つ程、背が伸び、パーマがかった髪も、首筋程まで伸びた、少し大人びた由紀の姿であった。


 「待っててね。朝ごはんとお弁当。一緒に作っちゃうから。ごめん、ご飯だけお弁当箱に詰めて、冷ましておいてくれると、嬉しいな。」


 父親は、二つ返事で承諾すると、小さな電気ジャーから、ご飯を弁当箱にとる。


 「チーン」電子レンジが由紀を呼ぶ。

 由紀は、コンロの火を切ると、フライパンをシンクの横に置いていた濡れ布巾の上に乗せて、皿を持ってレンジに向かう。

 「ひょいひょいひょい」っと中の冷凍食品を皿に盛ると、そのままフライパンの横にそれを置き、フライパンとフライ返しを器用に動かして、アスパラソテーと、ベーコンエッグを盛り付ける。

 そのまま、お弁当箱の方に行って、皿の冷凍食品をおかずの空間に詰めると。


 「お父さん。朝ごはん、持ってってー」と父親を呼ぶ。


 「んー」父親が机のジャンプトースターに食パンを二斤差し込むと、台所に向かい、由紀から余った冷凍食品とベーコンエッグの盛り付けられた皿を受け取る。


 由紀は、その間に、フライパンを洗い、後片付けをして、エプロンを壁のフックに掛けた。


 そのまま、少し離れた小さなリビングの畳に腰掛けると、父親と一緒に手を合わせた。

 「頂きます。」


 あの冬から、一ヶ月後、由紀と父親は、住んでいたマンションの近くにあった古い2LDKの木造アパートに引っ越していた。


 由紀の両親は共働きだった為、母親の収入が途絶えてしまった以上、あの家に継続して住む事は難しかったのだ。

 父親は、由紀の生活費の為になるだけ節約を行う様になった。車も売り、趣向も止め、休日出勤も以前より行う様になった。


 その意味を、由紀自身もはっきりと理解出来ていた。初めは、コンロの火もろくに点けれなかった由紀だったが、必死で母親の真似をして。


 三年過ぎた今では、なんとか形也の家事がこなせるようになっていた。


 「由紀………勉強とかに支障がでそうなら、家事もお父さん、手伝うからな。いつでもしんどくなったら、言うんだぞ? 」

 「うん。大丈夫だよ、お父さん。」優しく、自分に気遣う父親を見つめ、由紀は微笑んだ。


 ――パパ、白髪……増えたな………――

 胸を覆いつくそうと『寂しさ』が込み上げてきたので、由紀は、首を振るってその感情を抑え込んだ。


 「じゃあ、行ってくるね。」

 父親が、スーツを羽織ると、洗い物をしている由紀に声を掛ける。


 「いってらっしゃい。お父さん。」

 由紀も、それを笑顔で迎えた。

 そして、父親が家を去った後。

 苦悶の表情を浮かべ、洗い物を終えた。


 「ん………」

 強烈な腹痛が襲う。由紀は、とたとたとリビングの棚に向かうと、救急箱を取り出し、いつもの腹痛薬を二錠、口に含む。


 そして、ゆっくりとお腹を擦る。

 ――うん…………大丈夫………――

 力強く顔を挙げると、部屋に戻り、紺色のセーラー服に着替え、昨夜用意した鞄を持ち、家を後にする。


 ――いってきます――


 楓の葉が山吹色に染まるのを眺めながら、その長い山道を登ると、由紀の通う中学校が見える。


 「おはよう、苫米地さん。」

 「あ、お、おはようございます。紀藤きとう先生。」

 今日校門に立っていたのは、担任の紀藤だった。彼女はとても若く活気に溢れた人だ。クラスの女子には勿論、外見も可愛らしく、男子にも隠れファンが居る程だ。


 だが、若い故に、彼女は学校の由紀、その本当の姿に気付いていない。



 教室に入ると一瞬、中に居た生徒が、喋るのを止める。


 「…………」

 瞳を落し、自席に向かうと、また至る所の雑談が再開される。


 「どんな、反応するかな? 」

 「し、静かに。バレるでしょ? 」


 ふと、そんな言葉が聴こえた。

 でも、由紀はそんな言葉を聞かない様に。いや、本当に聞こえない。と言ってもいい程の無反応で、席に着いた。


 そして、鞄を開いて、教科書を机に入れる時に、それに気付いた。

 「きゃああぁああ! 」

 腹の底から出た悲鳴だった。思わず、椅子を倒してしまい、大きな音が教室中に響いた。


 机の中から、見慣れない物が覗いていた。それは学校の机には入る訳の無い物。

 『ネズミの潰死骸』だったのだ。


 カチカチと、歯を鳴らして、涙目でそれを見ていた由紀の耳に信じられない言葉が聴こえてくる。


 「きゃははは。すご~い反応。」

 「ウケル~。」

 「ぐふふふふ、気の毒~。」


 気分不良を感じ、その場を離れようと振り返る。その時、後ろに居た誰かにぶつかった。


 「痛っ、も~、なぁにぃ? 苫米地さぁん? 」

 「え………遠藤………さん………」

 由紀の瞳に怯えが、はっきりと浮かんだ。


 「駄目でしょ? もーすぐ授業始まるのに、椅子は倒れてるし。机も汚れてるよ? ほらぁ、片付けなきゃ駄目でしょう? 」そう言うと、派手な色のアイシャドーを見せて、彼女は微笑んだ。


 その言葉に耳を疑う。


 ――片  付 ける?――


 「はい。」

 そう言うと、遠藤はボロボロの雑巾を由紀の胸に投げつけた。

 投げ渡されたそれを見つめ、カタカタと肩が震えた。


 「あぁ。ほらぁ、チャイムなってるよぉ~早く、片付けなきゃ。キャハハ。」


 由紀は、振り向くと、吐き気を抑えつつ、雑巾でネズミの死骸を持った。


 「うげぇ~~本当に持ちやがった~~」

 「やっぱり、猫の血を受け継いでいるから、ネズミが平気なのね~」


 クラスのそんな声も、嘲笑も。もう頭には入ってこない。気持ち悪さと、恐怖でおかしくなりそうな理性を必死で保ちながら、由紀はゴミ箱に向かう。

 そこで、一人の男子生徒が立ちふさがった。


 高い身長に、長い脚。整髪料で、ガッチガチに決めた髪型がまるでホストをイメージさせるようだった。


 「おい! ゴミ箱に、そんな汚い物入れるんじゃねぇよ! 」


 その胸に、それは深く、深く突き刺さる。ゴミ箱に入れる様な物でもない。それが入っていたのは……



 「~~~ッッ。」由紀は、必死で言いたい事を噛みしめると、走って教室を出て行った。

 同時に、後ろで教室中から笑い声が追って聞こえてきた。





 「はぁっはっ…………うぅ………」

 それを、外の雑木林に捨てた後、由紀は涙が止まらず、教室に戻れなかった。

 泣くと同時に、嗚咽を帯びる程の腹痛が襲ってきて、急いでトイレに向かう。



 あの、達川と長谷川の卒業式の日から、間もなく、由紀の家庭内の事情はすぐに周囲に広まっていた。

 丁度、五年生に上がるタイミングだったので、クラスのPTAなどを介して、同級生の親に広まったのが、そもそもの始まりだったのだろう。


 小学生の頃は、長く顔を知っていた者ばかりだったので、皆顔が見えている所では、そういった事は無かったが、由紀は知っていた。


 陰で自分の母親が『若い男に踊らされて夫と娘を捨てた雌猫』と言われていたのを。



 ――違う………でも………でも………――




 母親の気持ちが解らない。あの日。もし母親と会話が出来ていれば………由紀は、由紀は、ずっとあの日からそればかり思っていた。

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