第二十六手 負ける事の意味
「そうじゃ。そうなんじゃ‼ まだ、十五そこらの子どもじゃが、わし相手に三べんも立て続けに勝ちやがったんよ。」
背広姿のその男は、まるで早口言葉の様に、何度も何度も語っていた。
「のう、頼むわ。兄ちゃん。そのガキを、
受話器の向こうで、その男と似た声が漏れる。
「相変わらずの、将棋馬鹿じゃのぉ、お前は。
まぁ、お前がそこまで言う位じゃけ、相当にその子は強いんじゃろうのぉ。」
窓から差す光が、その男を照らす。目にくまをつくっているが、それはあの金本であった。
「おう。あいつなら、ちゃんとした所で将棋を学んだら…………」
「父ちゃん。腹減った~」
金本の後方から、小さな影が二つ現れる。
「あ~、チビの飯の時間じゃ。じゃあ、兄ちゃん。そう言う事で。頼んだで? 」
そう言うと、壁掛けの黒電話に受話器を置いた。
「よし、ほいじゃあ、母ちゃん起こして、飯食いに行くか。」
「うん。」
―――――――
「そんで、さっきの話やが………あ? 連れはどした? 」
「厠や。」
それを聞いて「ふう」と、池谷は息を吐いた。
「あいつは、ええさかい。光吉の事を教えてくれ。」
机の前で、敬治は両手を組み、真直ぐ池谷を見た。
「おう。何の事は無いで。
まぁ、死んだ。言うても、病気やら、歳で安らかに死んだわけやない。
奴はそれでも不思議や無いくらい長ぉ生きとったが。」
「
敬治と光吉の共通点。それは、将棋によって関わっている組織。
「光吉ちゅう奴は、負けたんやな。将棋で。」
池谷が、真面目な目つきに戻る。
「ほか。やっぱり兄さんも、ヤクザの代指しか。」
もう、それを否定する気も無かった。敬治は、小さく頷く。
「なら、もう多くの説明はいらんやろ。
せや。光吉は、組の看板担いだ代指しで、負けたんや。
その落とし前で、やられたんや。
まぁ………何の不思議でもない話や。」
敬治は、目を離さず、池谷に問う。
「相手は、どんな奴なんや。知らんのか? 」
池谷は、首を横に振った。
「な~んも。原因の対局の種が、キタとの縄張り争いやったらしいから、恐らくは、キタの方の奴やろうけど。
そこで、ロックの焼酎をグイと飲み干す。
「つまり、新参者やろうな。誰かさんみたいに。」
「うひゃ~、あ~解放感、堪らんなぁ~」
その空気をぶち壊す様に、清川が腹を擦りながら席に着く。
「おっ、せや。光吉や光吉。死んだってどういうこっちゃ。」
しかし、清川の言葉には、返答も無く。
「しゃあないな。そう言う事なら、もうミナミに居る理由は無いわ。わいは神戸に発つ。」そう言って、伝票を取ると、清川に目で合図をする。
「世話になったな。」立ち上がって、池谷に背を向けた時。
彼が語る様に言った。
「兄さんなら、理解る事じゃが。
光吉は、その世界でジジイになるまで、勝ち続けた男や。
つまり、その生きた年齢が光吉が強かったっちゅう……証明や。
そんな男でも、いつかはこうして敗けて惨めに死ぬんや。
それが、勝負の世界っちゅうもんや。
兄さん。あんたも、生きとる内に……こげな世界……足、洗いなはれや。」
敬治は立ち止まって、その話を聞くと、目を閉じた。
「なんや? 何の事や? 」仲間外れにされた清川は、キョロキョロと二人を見て説明を求めている。
「池谷さん。無用な世話やで。」
「わいは、負けんさかいのぉ。」
窓から、二人の少年を見えなくなるまで、彼はずっと見守っていた。
面白い数日間だった。彼は、心からその余韻に浸り、その少年が奢ってくれた焼酎に口を付ける。
カランカランと、コップの氷が音色を鳴らすと同時に、池谷に近付く男が居た。
「おい、池谷。」
ぶっ。っと酒を吐きそうになる程驚き、彼は声の先を見た。
「刑事はんやないですか。」
そこに居たのは、金本だった。
池谷を探していたのか、肩で息をしている。
「ど、どないしたんでっか? わしを探してはったんか? 」
池谷は、店員に水を頼む。それが届くと同時に、金本は一気に飲み干した。
「お前の賭場に居った、ガキ。あのまぁまぁ綺麗な着物を着たガキや‼
あいつ、お前どこ居るか、知らんか? 」
池谷は、今度は酒を吹き出した。
「な、なして、刑事はんが、そのガキを探しとるんですか⁉ 」
すると、金本はにんまりと豪快に笑う。
「あのガキな。わしに将棋で勝ちやがったんや。」
今度は、池谷は目を点にする。
「け、刑事はんをでっか⁉ 」
「おう。昨夜、保釈を賭けて指してのぉ……
最初敗けた時は信じられんで、そのまま三回勝負にしたが、全敗よ! 」
――信じられん。あの小僧、やはり只者やない……――
金本は、この時世で大学まで進学している秀才であり、将棋に関してもその知性を如何無く発揮し、将棋指しの間では名が知れている。横松など霞む程に。
「そ、それで………まさか、負けた仕返しでっか? 」
その言葉に、机を叩き、金本が怒鳴る。
「バカ言うな! 将棋の負けをそんな、おなごの腐った様な真似で返すかい! 」
「ほな、なんで……」
「あいつを、きちっとした、棋士の人の元に紹介したいんや。」
「‼ 」
池谷の驚いた表情を見て、金本は相手がこの探し人を知っている事を確信する。
「のう、頼むわ。池谷。教えてくれや。あんなガキ、このままこっちの世界に埋もれさすなんて、わしみたいな将棋馬鹿には、我慢ならんのじゃ。」
それは。
その意見は。
池谷も心の底から同意するものだった。
「帰りはりましたわ………神戸。言うてました。」
それを聞くと、金本は身体を起こした。
「出て行ったんいつや‼ 」
「は、半刻ほど前ですわ。」
「くそ、駅まで走っても、ギリギリやな。すまんの池谷。助かったわ。」
そう言うと同時に、慌ただしく金本は、茶店を飛び出した。
――なんともまぁ…………ホンマ………
おもろい事ばっか起こす小僧やで………――
「プアアアアアアアア‼ 」
煙突から、けたたましく黒煙が上がる。やがて「ゴトン。ゴトン……」と、車内が揺れ出した。
「しかし、神戸かぁ………どげなとこか。今からわくわくすんな。」言いながら、清川は買った弁当を汚らしく掻き込んでいる。
「おい‼ 」
その時、窓の向こうから、背広姿の男がこちらに叫んできた。
「げっ。」敬治は、背筋が伸びた。そこに居たのは、昨夜、しつこく将棋を指してきたあの警察官だったからだ。
「おい。小僧‼ 」
金本は、精一杯自分の頭の中に考えを張り巡らせた。
機関車は走り出している。今から、あの少年を引きずり下ろすのは、不可能だ。
ならば。
あの少年が、再び自分を訪ねてくる様にしなければいけない。
――どう言えばええんじゃ……? ――
しかし、悩んでいる時間も無い。
彼は、次の瞬間、叫んでいた。
「困った事があったら‼ わしを訪ねろ‼ わしは、金本じゃ‼ 」
ぎりぎり、その言葉は敬治の耳に届いた。
「なんや? あのおっさん、こっちの方になんやおらびょうたけど……」
もぐもぐと、口を動かしながら、呑気に清川は窓の向こうを眺める。
――なんやねんな。あのポリ。変なんに目ぇつけられてしもたで――
しかし、これより一年後。
彼はこの言葉を頼りにもう一度この地を訪れる事となる。
そんな事は、知る由もなく。
二人を乗せた機関車は神戸に向け、走り続けるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます