第六手 因の予兆
――いけない。将棋の勉強をしすぎちゃった――
暗くなった部屋の電気を点けると、由紀はリビングに向かい、自分の役目である、洗濯物の片づけの為、ベランダに出る。
「あ、ママ。」
ふと、マンションの入り口で、車に背を向け、話し込んでいる後姿が見えた。
エントランスの灯りで見えづらかったが、由紀はそれが母であると確信していた。
「…………」
由紀は、洗濯物を取り入れる手を止めて、その女性を見つめていた。
僅かな時間であったが、由紀は抑えきれない気持ちを抱く。
それは、嫉妬。
――その人は、由紀のママだよ‼ ――
「ママーーーーーーーーーーーお帰りーーーーーーー‼ 」
同時に驚く、その女性と、由紀。高層マンションの中階層からも聞こえたその大声。
その女性は、振り向き、こちらの部屋の方を見ている。部屋の明かりで、きっと自分の顔を確認出来ただろう。そして、その女性が間違いなく母親であった事に、由紀は胸を撫で下ろした。
「ただいま。由紀ぃ? 洗濯物入れてくれてたの? ありがとう。」
丁度、洗濯物を全て入れ終った頃。母親が帰ってきた。由紀は、少し足早に玄関へ迎えに行く。
「お帰り。ママ。」
母親は、ずいっと、人差し指を由紀の顔に当てる。
「でも、あんな大声出したら駄目よ。前も言ったでしょ? お母さんも驚くし、ご近所にも迷惑になっちゃう。」
「…………」由紀は納得いかない目で、母親を見る。
母親がその眼に、少し後ずさると同時に、由紀は母親に抱き付く。
「ママ。」
「もう、もうすぐ5年生でしょ? しっかりしなさい。」
―――――
「おっしゃーーーー‼ 王手ぇええぇ‼ 因みに、即詰みぃいいぃ‼ 」
「うう‼ 」
愛子と、土生の盤が置いてあるテーブルから、賑やかに土生の叫び声が挙がる。
「……………」
「え~~~~~~~~ん。」
「こりゃあ‼ 明ぁ‼ お前、また愛ちゃんを泣かせたんかい‼ 観とけ‼ 愛ちゃん‼ わしが敵をとっちゃるけんの‼ 」
「はっぁっはぁっ‼ 先日遂に、俺に平手で敗けた事をお忘れかな? 達川先生‼ 」
「ならば、こっちじゃ。」
目にも止まらぬ速度で、達川は土生に小手返しを仕掛け、見事に土生は一回転して倒れる。
「ぐはぁっ‼ まさかの暴力ですか?? 」
愛子は、その光景に、泣いていた事も忘れ、気付けば笑っていた。
「ふん、自分が将棋で弱く、負ければ泣くのか。女子はこれだから嫌いだ。」
そんな愛子に、厳しい言葉を投げかけたのは、佐竹である。
「………佐竹君って、すごい意地悪やね。」愛子は、目を細めてそう返す。
「ふ‼ ふん。君だって、やはりウソ泣きか‼ そんな事で、プロの将棋指しになろうなんて、甘いんじゃないか⁉ 」
「何よ‼ 佐竹君には二枚落ちで、勝ったじゃない‼ 」
「二枚落ちの僕に勝って、何をそんなに誇らしいか⁉ 」
う~~~~っと、二人はまるで子犬のケンカの様におでこを擦り合う。
「おいおい、二人とも。イチャイチャするんなら、外でやりな。」
土生の言葉に、佐竹が素早く反応した。
「なっ⁉ イチャイチャ?? 」
「だって、チューしようとしてんじゃん。」
「わしゃあ、佐竹君になら、愛ちゃんを任せてもええと、思うとるよ。」
見る見るうちに、佐竹が顔を紅潮させた。
「なぁっ⁉ た、達川先生まで?? 」
アハハハハ、と明るい笑い声が、教室に響いた。
――――――――
「なんですってぇ⁉ 年明けに、うちがスポンサーをする大会に、あのにっくき雨水将棋教室の達川愛子と御チビが、出場するですって⁉ 」
漆畑は、佐竹からの報告に、唾をまき散らしながら驚く。
「やれやれ。」佐竹は、眼鏡を外すと、丁寧にハンカチで眼鏡を拭いた。
「き、きっさま‼ 佐竹⁉ 紅お嬢様の唾液の付いたそのハンカチをどうする気だ⁉食うのか? 食うんだな⁉ 食うんだ⁉ 」高月が、興奮した様子でハァハァ息を荒げる。
「おだまり‼ 竜太郎‼ 」漆畑の凛とした声に、高月は「ハイッ」といい返事をして正座する。
「漆畑さん………言った様に彼女たちは三人とも出場するよ。あの二人に執着するのはいいけど。長谷川さんも、相当に腕を上げているんじゃないかな? なんせ、夏の団体戦でうちを打ち負かした一角は彼女だよ。」
「ふん‼ わかってるわ‼ 佐竹‼
「さて、では、ここに前もってエントリー表を貰ってきている。勿論。三枚ね。」
「気が利くじゃない‼ 佐竹。褒めて遣わすわ‼さぁ、夏の借りは冬の内に返すわよ‼ 棋王会‼ 」
揺らした金色の髪が、蛍光灯の光を弾いて、眩く輝いた。
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