第二手 譲れない決意《もの》
「ハッ‼」
暗い自分の部屋の天井を見つめ、達川は乱れた自分の息を、必死で整えていた。
あの、夏の全国大会からはや四ヵ月。冬の冷たさを帯び始めたこの朝の空気は、達川に忘れられない悪夢を毎年思い出させる。
「くそ………またか………」こうなると、もう一度眠る気にはならない。達川はテレビを点けると、ビデオテープを物色して、その内の一つをデッキに差した。
可愛らしいアニメの映像が流れる。達川は、その暗闇を照らすテレビの前で、大きな体を小さく畳む様に体育座りした。
「…………お父ちゃん……お祖父ちゃん…………お祖母ちゃん………」小さいその呟きには様々な感情が混ざっていた。しかし。
もう、どんなに思っても、どんなに呼んでも。
会えぬという事を達川自身、痛いほどに理解していた。
矛盾を帯びた願いは、冷たく痛い。
――――――――
「こんにちはー‼ 達川のお祖父ちゃん‼ 」元気な挨拶が雨水将棋教室に響く。
「いらっしゃい。由紀ちゃん。」達川の爺さんは、優しく微笑むと、茶菓子の準備をする。
「愛子ちゃんとクマちゃん来てますか? 」
爺さんは、やかんを火に掛けると、由紀の方を向く。
「いんや。もうすぐ卒業じゃから色々となんやかんや、しようるみたいじゃの。最近、帰りが遅いわい。」
「そうですか……」由紀はしゅんと肩を落とした。
「ほいじゃ、由紀ちゃん。わしと指すかい? 」爺さんは、お盆に二つのお茶と、どら焼きを乗せて、由紀に微笑む。
「本当ですか? 」由紀の顔がパアッと明るくなった。
由紀が二人が居るかを訪ねたのは理由がある。
雨水将棋教室は、子どもが由紀達しか居らず、そのほとんどが憩いの時間を過ごす高齢者である。
将棋を始めて、約半年であるが。
由紀が手加減を加えなくて勝負になるのは、この将棋教室では、最早先の三人以外には居ないのだ。
「ほいじゃあ、角落ちくらいでいいかの? 」爺さんが盤上から角を落す。
「ううん、達川のお祖父ちゃん。平手でお願いします‼ 」
「ふむ。」爺さんは微笑む。
達川の爺さんの平手に、由紀は勝利した事が無い。しかし、勝とうが敗けようが、今の由紀には勝敗は関係なかった。全力で将棋を指す事により、面白い程の速さで自分が上達していく実感の方が大切なのだ。
二人が対局を始めると、周囲を囲むように観客が集まる。
「いやあ、由紀ちゃんはすごいな。
達川先生の平手を相手に、ちゃんと将棋に出来るんだから。」
「本当、佐竹君よりも、目まぐるしく成長しているね。
子どもで、ここまで強くなったのって、明君以来じゃないか? 」
「将来が楽しみだね。史上初の女性プロ棋士誕生かな? 」
「女流棋士を通り越してか? そりゃ、言いすぎじゃろう。」
「いや、わからんで? 東京の試合は、凄かった。
あんなん、プロでもよう見んわ。」
ははははは。と、老人たちは嬉しそうに、一斉に笑った。
「悪いけど、『
楽しそうな空気を破り抜く、ドスの効いた声に、老人たちはギクリと振り向く。
そこに居たのは、冬服に身を包み更に大人びた達川と、少し背が伸びた長谷川だ。
「お、おおお……愛ちゃんに、クマちゃんも、いらっしゃい。」老人の一人がにこやかにそう言う。
「はい‼ こんにちは。」長谷川が元気よく挨拶を返す。
「おい‼ 由紀‼ うちと指すぞ‼ 」その直後に達川は、そう喧嘩ごしの様に、由紀に向かって怒鳴る。これには流石に、由紀も周囲の人間も驚く。爺さんが対局を中断して、達川に近付いた。
「愛子。どういうつもりじゃ? 何でそがに怒っとる?
由紀ちゃんが何かしたか? 」
二人が睨み合ったまま近づくもんだから、爺さんを老人たちが。達川を長谷川が止める様な形で間に割って入る。由紀は、ただただおろおろと、将棋盤の前で狼狽えている。
「ちょっ、愛ちゃん⁉ どうしたの⁉ 今のさっきまで、すごい楽しみそうにしてたじゃん? 」親友の長谷川にも今の達川が、何を考えているのかが理解出来なかった。それほどまでに、突然の態度の変化だった。
皆が必死で止めに入っているが、二人は距離を縮めていく。正に、一触即発のその時であった。
「さ…………指しましょーーーー‼ 愛子ちゃん‼ 」
…………裏返り、奇声のようなそれに、全員が驚き、その方向を向く。
「あっ…………」一気に教室中の視線が集まった事で、由紀はみるみる内に顔を赤く染めていく。しかし、先程の緊張した空気は、嘘の様に消えていった。
教室に明るい笑い声が響く。
「ちっ。」達川は舌打ちすると、踵を返す。
「愛ちゃん? 」長谷川が慌てて、その後を追う。
「悪ぃ、今日はうち帰るわ。」彼女は振り返りもせず、その場を後にした。
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