第三手 焦燥

 「ど……どうしちゃったんだろうねぇ?

 愛子ちゃん……随分ご機嫌斜めだったねぇ? 」

 達川が帰った教室で、由紀と長谷川が対局していると、周囲からそんな声が聞こえてきた。

 由紀も、達川が怒った理由が解らないが、やはり気持ちのいいものではない。長谷川との対局よりも、そっちの方が気になる。


 「由紀ちゃんは気にしなくていいよ。」

 長谷川が心情を察し、にこやかに由紀にそう話す。

 「ホント、よく解んないけど………

 教室入るまでは、全然由紀ちゃんと会うの楽しみにしてたしね……

 ………ホント………なに怒ってんだろね? 」

 「パチン」長谷川の王将が完全に穴に潜った。

















 その日の晩。

 「ただいま………」達川が家の扉を開ける。瞬間、身体がビクッと動いた。

 玄関先に爺さんが立っていたのだ。間違いなく、達川を待っていたのだ。

 「お帰り、愛子。

 なんじゃ、遅くなるなら、連絡をせい……心配するじゃろうが……」


 達川は、怒られると思い、目を落し、身体を硬直させる。

 「腹、へっとろうが……飯出来とるから……早う喰うど……」それだけ言うと、爺さんは台所へと向かう。

 「………? 」

 「ま、待てよ‼ ジジイ‼ 昼の事で怒ってんじゃないのかよ? 」

 その言葉で、爺さんは歩を止め、少しだけ首を後ろに向けた。

 「お前が、将棋を本当に大切に思い、そして何処を目指しているのか。そんな事わしは、百も承知じゃ。ただ、その焦りや不安を友達に当てると言うのは、間違いじゃな………まぁ、明日、ちゃんと謝っておくんじゃぞ……」

 「爺ちゃん‼ 」達川が幼子が祖父を呼ぶ様な声で続ける。

 「爺ちゃんはどう思う? 由紀の方がうちよりも、プロ棋士になる素質があると思う? 」その表情から悲痛な程の必死さが伝わる。


 「愛子…………お前は、金本さんに小さい小さい頃から将棋を習って……そして、今日まで毎日努力を続けてきた。その努力を、お前自身が信じなくて、どうするんじゃ? 」

 「…………解んないよ。」

 「だって、爺ちゃんも見ただろ? あいつの、夏の大会、音桃子との対局なんて、普通の小学生棋士の……いや、アマチュア棋士の指せる棋譜じゃなかったよ‼ 」


 「天国の………お祖父ちゃんや、お祖母ちゃん……お父ちゃんに、お母さん……皆に伝わる位、お祖父ちゃんが教えてくれた、大好きな将棋で………うちは有名になりたい‼ 女でも‼ 日本で一番になりたい‼ そう思って、毎日頑張ってた………でも………」

 「あんな、強烈な才能が、犇めく世界だなんて………」


 そう言って、俯く達川に爺さんが近づく。

 「愛子。」


 「将棋の世界にしても、何の世界にしても、確かに上に行く者は努力だけではなく、才能を持っている。とりわけて言うなら、由紀ちゃんや、あの時戦った東京の子らは、間違いなくそうじゃろう。」


 「じゃが、な?

 お前やクマちゃんも、限りない才能の可能性を秘めておると思うよ。」


 「大体、なんじゃ。十二年位しか生きとらんのに、毎日毎日頑張ったって。プロ棋士を目指しょうる奴らなんて、お前の倍、三倍も人生を賭けとる奴ばっかりじゃ。それでもなれん奴も居る世界なんじゃ。」

 爺さんが笑い、達川の肩をポンと叩く。


 「お前の才能が開花するのがいつなのか? そりゃあ、わからん。じゃが、わしが見た子たちは、そりゃあもう、皆凄い子ばっかりじゃと思っとるよ。わしが諦めたプロ棋士……女流棋士にも、きっとなれると、わしは信じて将棋を教えとるつもりじゃ。」

 「ねぇ、爺ちゃん。」

 「どうした? 」


 「うち………中学になったら、土生ちゃんの所に通いながら………

 プロ目指したい……」その言葉に、爺さんは一瞬驚く。


 「ほうか、解った。なら、黒田さんに連絡しとこう………」






―――――――――



 「はぁ………」溜息を吐きながらコロッケを口にする姿は、小学四年生にしては、ひどく老けて見え、由紀の両親も、その様子を見た後、思わず互いの顔を見合わたした。


 「ど………どうしたの? 由紀? 」母親が堪らず尋ねる。

 「………ママ………」

 「ん? 」


 「人間関係って………難しいね。」


 「はぁ………」


 両親は、再び互いの顔を見合わせた。

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