第三十五手 フタツノセカイ
「先ほどの音さんの香車の上りに対して、苫米地さんは、こう返しています。ただ、一見ここに銀を打つと、さらに効率よく防げそうに見えますよね? 」阿南の問いに女流棋士が「確かに」と答えた。
「あ………あーーーーー! 」土生が思わず椅子から立ち上がる。
その様子を見ながら阿南は「どうやら客席にも気付かれた人がいらっしゃったようですね」とフォローを入れ、マグネットの盤を動かしながら説明を続ける。「ところがここで銀を打ってしまうと……」そう言ってパチパチと駒を動かし、現れるその盤面に、観客と女流棋士は言葉を失う。
「と言うように、一手のミスで一気に十一手後に必至が掛かっていました。」
「つ……つまり相手の苫米地選手は……」震える声の女流棋士に阿南は頷く。
「ええ、これを読み切っていた事になります。」
ホテルの駐車場では、既に古葉の高級外車と老獪な運転手が主を待っていた。
「
広すぎる車内に、横暴に腰かけ、古葉は口角を上げ妖しい笑みをみせる。
――まさか『魔人』が二人居たとはな……――
土生が震えながらモニターを見つめる。
――由紀ちゃん……君は……入っているのか?
『ゾーン』に……音桃子と同じ世界に……!――
盤面だけを見つめる両者。
その姿は、解説者の舞台からも見えていた。
「将棋においても、何においても名勝負とは……」阿南の語りに、会場の全てが注目した。
「自分と相手、理屈には合いませんが、敵味方同士の二人が互いを高めあわなければ成立しません。一人の天才では、決着は呆気なくつくからです。それはまるで、二人で交互に解いていくパズルの様な物かもしれません……」阿南はそこで一呼吸開けた。
「彼女たちは私たちでは解けない解答に二人で挑んでいるのです。」
「ぐ、ふはははは。」それを車内の携帯テレビで聴いていた古葉が笑う。
――私『たち』だと?相変わらず貴様は嘘つきだな、阿南…――
『棋神門』の二人は、感想戦後は身動き一つとらず、瞑想に更けている。桃子の勝負に一閃の疑いもないからだ。対象に長谷川と達川は盤面を見つめる由紀を、見守り続けていた。対極の様子ながらそれは同じ『信頼』によるもの。
将棋盤しか存在ない漆黒の闇の中、桃子はその光景に疑問を持っていた。
――なんだ?ボクの解答に、悉く新しい問いを投げかけてくる者が居る……――
――生まれた時からボクしか居ないこの世界で――
――誰かがボクに問い掛けてきている――
その世界の桃子が、初めて前を向く。そこに見えるのは、小さな光。
――これは、何だ――
―――――――――――
「大丈夫なのか?しかし、生活費の面倒なら、わしが全部負担するのに、何故外で働こうなどと……」狼狽えながら別当は我が娘に、甘い提言を送っていた。
「パパ、有難う。でも大丈夫。私はあの子の母親だから。あの子を必ず、自分の力で育ててみせます。見て家計簿も自分でつけ始めたのよ? 」そう言うと、まるで幼子が書いた様な汚い字を並べたノートを見せて来た。
彼もそんな娘の強い決意に、その場は引くしかなかった。
しかし、桃子の母は、この時初めて自分が社会から『保護』されていたかを知った。
「ちょっと!別当さん!計算全然違ってるわよ!貴女!掛け算も出来ないの?一体その年まで何してたの? 」
「店長、別当さんと同じ班に組まれると、説明ばかりで仕事になりません。」
「す……すいません……」
「すみません………」
「ごめん……なさい…」
疲れ果てて帰宅する玄関。しかしそこは真っ暗な闇。
「ただいまぁ、桃子?帰ったわよぉ? 」返事はない。
二階の桃子の部屋に行くと、まるで気を逸したように、床に計算式を書き続ける桃子が居た。母親は、桃子を抱きしめた。
「ただいまぁ、桃子ぉ………ねぇ……おかえりって……言ってよぉ……」
桃子の母親は、大学を卒業するまでの人生二十二年間、計算など自分でした事も無かった。彼女は割り算すら満足にできない。
その二ヶ月後、事件は起きた。
その日、仕事先で合計額が合わない事から、勤務時間を大幅に越える確認作業を母親は強いられた。理由は最も間違っている『可能性』が高い人だから。であった。結局その誤差分は、店長の勘違いであった。
母親は身も心もすり減り、ボロボロの状態で帰宅した。玄関に電気が灯っていた事が唯一の救いだった。玄関に入ると、そこには桃子が居た。
「ただいまぁ、桃子! 」母は、精いっぱいの明るい声を出した。
「お帰り、お母さん。」その返事が母の心を喜びで満たそうとしたその時であった。
「家計簿、計算変だったから、直しといた。」
その言葉に、母親の何かが砕ける様に壊れた。
桃子を突き飛ばすと、髪を掻き毟りながら狂ったように叫び続けた。
「何で⁉何で私がそんなこと言われなきゃいけないの⁉私が何かした?何もしてないわよね⁈何で?何で⁉皆私を苦しめるの⁉誰の為にやってんの?アンタの為でしょう??アンタのせいでしょう?なんで、アンタまで、私を馬鹿にするの⁉アンタのせいで私の人生、狂いっぱなしよ⁈何でこんな目に私が合わなきゃいけないの?私が悪いの?いえ、あんたが悪いのよ! 」
その嵐の様な怒号を桃子は無表情でただ聞いていた。そして、最後の言葉。
「あんたなんか、産まなきゃよかった‼ 」
世界がスローモーションのように見える。まるで壊れた操り人形の様に、ゆっくりとその場に崩れ泣きじゃくる母親を、見て……桃子は………
――オカアサン、ジャアナンデアタシハイキテルノ?――
「ここが、今日からお前の住処だ。わしの昔の教え子が営んどる塾じゃから、何かあったら、遠慮なく、そいつに言いなさい。わしらに連絡がある時も、そいつを通すんじゃぞ。それと……別当の名字はもう名乗るな。父親の名字を名乗ってこれからは生きていくんじゃ……理由は、お前ほどの天才なら言わんでも理解るじゃろう? 」
――アタシハオカアサンノコドモジャアナクナッタノ?――
「おい、見ろよあいつ……気持ちわりい、真っ白じゃんよ。」
「馬鹿、先生の『特別』だぞ、言いつけられたらどうすんだよ。」
――イキテルッテナニ?シンデイクッテナニ?――
漆黒の世界で、目の前の光に桃子は語る。
「生の哲学者を知ろうとし。」
「死の哲学者を説こうとした。」
「だが、記されていた言の葉はどれも。」
「どれも生まれ落ちる事を許された者に用意された
「神よりもボクの生命を左右した、たった二人の人間に否定された。」
「そんな
「違うよ。」
小さな光から確かにそう聞こえた。
「違う。言葉だけを見て、感じ、何か形を得る事なんて、誰にも出来ない。」
「だけど今貴女は、確かに生きてる。確かに繋がっている。」
その瞬間、小さな光がまばゆい閃光を放ち、暗闇を照らしていく
「む、うううう。」桃子はその光に目を閉じる。
目を開けた時、いつも居たその世界はどこにもなかった。
まるで、クリームの様な柔らかい白の世界。そこには、少女が座って盤面を見ていた。
「君は誰。」
「大丈夫、すぐにわかるよ。」
その少女は、盤面に顔を伏せたまま、そう答える。
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