第三十六手 対話

 現実の世界では、着々と盤面が動いている。


 その時会場入り口の扉が開いたのだが、殆どの観客がモニターに目を奪われていた為、その人物を確認出来たのは、舞台に立っていた司会の二人。


 ――阿南…――


 ――古葉先生……――


 古葉は入り口に身体を寄りかかるように陣取りモニターの動きを見張る。



 会場の空気が異様な雰囲気に包まれる。

 「せ、先輩。この大会って持ち時間30分ですよね?なんか長くないすか? 」

 カメラマンがもう一人の記者にそう尋ねる。


 「動きと思考が異常に早いんだ。一度も長考せず、しかし最善手のみを二人とも追いかけている。まるで生きるための総べての機能が、盤面のみに集中しているようだ…」

 記者になり将棋を、様々な棋士を追って7年。

 彼は、その二人に心と目を奪われていた。それを自分の娘くらいの少女が行っているという事実が。彼の心中に、期待と興奮を生み出す。


 周囲の驚きを尻目に二人の指し手は、更に速度を増す。

 阿南の説明もそれに合わせて、速度を早めていく。


 説明の詳細も、どんどんと省かれていき、由紀たちの一手の意味を理解できる者は観客には殆ど居なかった。追い付けているのは古葉、土生、そして達川の爺さん。


 ――何という対局だ――

 佐竹はその光景に嫉妬に近い感情を覚える。


 ――この対局、僕には指せない。いや、地区予選の頃の彼女もここまでの強さではなかった‼――


 古葉は、その対局に、興奮を隠しきれない。しかし、同様に何故か苛立ちを感じる。

 ――何故だ?この小娘の指し筋……どこか気に入らん――



 暗闇の世界を壊し、自分の辿り着いた死生観を否定したこの目の前の少女。桃子の心中に宿ったものは決して穏やかなものではない。

 それは焦りにも似た怒り。


 ――ボクだけが唯一存在出来る世界を……返せ‼――

 ――ここから……出て行け‼‼――


 「……どうやら音さんが、攻めのリズムを再び変えたようですね。」


 「それは、一体どういった事に繋がるのでしょうか?名人……」


 「恐らくは、苫米地さんの読みに対して、揺さぶりを掛けているのだと思います。二人とも、長考が無いとはいえ、もう一時間近い対局をこなしていますから、持ち時間を使い切ったところで一気に仕掛けてくるでしょう。」


 ――ボクは誰とも繋がっていない。いや、繋がってはいけないんだ。知らない内に他人を傷つけるから。生まれてこなかった方がいい人間だから――


 ――そうやって、逃げるの?――


 ――…………逃げる?――


 ――そう、皆がそうだと決めつけて、誰にも心を開かないで――

 ――それを『他人を傷つける』からで納得しようとしている――

 ――本当は誰かに……――


 ――やめろ……――

 ――止めろ止めろ止めろ止めろ――


 ――あまり他人と話をしなくなったのは

 両親を特別だと固辞したかったから――


 ――家計簿を手伝ったのは、早くお母さんに休んでほしかったから――


 ――本当に欲しかったのは、この世界の色の様に

 甘く優しいあたたかい言葉――


 ――大丈夫、恐れないで――

 ――あたしには、わかるから!――


 ――幻だ。幻想だ。ここまで対局を長引かせたのは古葉先生以外に居ない――

 ――あの時みたいにきっと、脳内の血糖低下による精神的肉体的疲労が見せる幻、早く消す、いつも通り。この指し合いを終わらせる。そうすれば、ボクの中でまたボクを正当化できる。ボクの世界に居れる。ボクだけの……優しい世界?――



 ――もう少しだね?――



 ――ボクハナゼコノコトオナジヒョウゲンヲシタンダ?――


 ――おいで、こっちに。そこは『自分にしか優しくない世界』なんだよ?居心地はとてもいいけど、きっとそこには無いものが多すぎるんだ……――


 ――嘘だ。ボクはここで、様々な事を解いた。間もなく、この将棋という概念もボクは終わらせて、新たな計算生き方を始めるんだ――


 ――終わらないよ、将棋はこれからもずっと誰かを繋げていくの。

 あたし達の様に――


 ――……最早、語る事は無い……

 そこまで言うならここに居るボクに勝ってみろ

 証明しろ。して見せろ‼繋がりの先にあるその一手とやらを――




 二人は瞑想に更けながらも、その経過時間に疑念しか抱いていない。心中は雑念で乱れに乱れていた。


 ――不可解おかしい……

 30分の持ち時間で桃子が持ち時間いっぱいになるまで仕留められないなんて、先生との対局以外で見た事が無い。一体大将戦はどうなっている――


 堪えられず、小早川は瞑想を中断する。掌が、じっとりと汗ばんでいた。

 隣から視線を感じる。雑賀のものであることはすぐに分かったが、それに反応する余裕もなかった。大将戦を争う二人の方を見た時、小早川は呼吸すら忘れた。


 そこに居る二人は、全く同じ姿勢で、盤面だけをただ見つめている。


 ――桃子のカウントも始まっている?時間をいっぱいに使って指しているのか?そこまで読まないと……君がそこまで読まないと駄目なのか⁉あの桃子が……あんなに、前傾姿勢で盤面を読んでいる姿なんて見た事が無いぞ!――







 ――一手……!間に合った。ボクの方が一手早かったぞ!――

 ――お前の戯言も……嘘偽うそいつわりも。打ち破ったぞ!――



 「香車打ですね。」阿南がそう言うと、会場の者はその説明を求めるが、阿南は、眼鏡を光らせ、その盤面を見つめ黙ってしまった。流石にその雰囲気を察して、助手の女流棋士が、予想を立てていく。


 「この香車には、恐らく歩打ちが定跡ですね。そうすると、音選手はこの間に5九に飛車を成らせて……そうすると、王将を上方向に逃がして、桂馬を打って……必至ですね。音選手の勝利が…大分近づいた一手でしょうか?」

 女流棋士が阿南の意見も求めるが、彼は依然、盤面だけをただ見つめている。


 「ぐ……うううう」土生も、達川の爺さんも、達川と、長谷川でさえ、由紀の敗北を、その現実を受けいれようとしていた。


 古葉は由紀の指し筋に、若干の苛立ちを感じながらも、桃子の勝利を確信しながら試合とは全く違う事を考えていた。それは由紀をどう自分の手中に入れようかというもの、そればかりに集中していたのだ。


 だからこそ、将棋界の高みに居たこの二人の見解が違った。


 その一人の様子に気が付いたのは、一番傍に居た者。その盤面を見続けるその男には先ほどよりも明らかな異変があった。


 「阿南名人?」その問い掛けに数名の観客もその様子に気付く。それに一番反応したのは先ほどから盤面よりも別の事を考えていた男。


 「手の震えあの癖だと⁉」その阿南の様子に呟くように、しかし汗が噴き出るほど驚愕する。そのままモニターに目を向け盤面を読みなおす。

 ――何だ?阿南、貴様この盤面に何を見出したというのだ――




 ――由紀ちゃん……遂に手が止まってしまった……究極の集中状態『ゾーン』で、手が止まるという事は……それは……もう…――

 土生が、その光景に目を伏せた時。


 その瞬間が訪れたのだ。

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