第三十三手 圧倒的なその実力差
都内某所のホテルの一室。蠢く女性の隣で古葉はキセルに火をくべる。
テレビをリモコンで付けると、民間チャンネルから将棋大会の中継に合わせた。そして桃子が選択した戦法を見ると、にやりと口元をめ、桃子との出会いを思い出していた。
「孫娘を預かれ?冗談でしょう?私は結婚もしていません、法律上、養女はとれませんよ先生?」そう、古葉が話す相手は師匠の
「まぁ、そう言うな。君がやっている『棋神門』か、あそこの生徒として、住み込みでいれてやってくれたら構わんから。」その言葉に古葉は鼻で笑う。
「尊敬する師匠の大切な孫娘さんともなると、私には荷が重すぎますな。むしろ師匠の門下として入会させれば宜しいでしょう?」
その言葉に別当はいきむように唸り、表情を変えた。
「これが、非常に変わった子どもでな……考えとる事もよう理解らず、関われば関わるほど自分の孫とは思えんのじゃ……先日ついには娘が精神的に参ってしまっての。」
――なるほど、つまり自分たちから切り離したいが、世間体の手前、その事実が表沙汰にならないようにしたいという事か……まぁ、時代は終わったとはいえ、元名人。この先、棋界で利用できる事も多かろう。いいだろう、貸しをつくっておいてやる……――
「分かりました。私で力になれるなら……」
すると別当は明らかに安堵した表情を浮かべた。
その後、桃子と出逢った時その容姿に、古葉は初めて少女に欲情するほど興奮した。
棋士として生きて幾十年の勘が迅速に伝えた。「こいつは魔人だ」と。
直感は間もなく的中する。翌月からアマを卒業し、奨励会に入る予定だった外木場を桃子は入塾したその日、たった一局の指導指しの後、完膚なきまでに叩きのめした。
外木場が将棋界を去る時、古葉に懇願した事が。
「もう僕以外に、桃子の生贄をつくらないでください。」というものであった。
――理解っているよ。外木場。塾生たちは皆、俺の覇道の為の大切な糧であり血肉だ。育てるまでに誰かに喰わせるだなんて勿体無い事はもうしない……だかな、外木場、魔人を魔人のまま成長させるのは、やはり質の良い生贄は必要なんだよ。なぁ、外木場…養豚場のブタを太らせる為の餌で、鳥や魚を殺して食わせる事に、人は罪の意識を感じるか?感じないよな?大切なのは自分が食う時に如何に美味い肉を食うかなんだよ。俺が、魔人を越える『魔神』となる為には、多くの才能ある棋士達の血肉。そして中でも桃子の血肉は絶対に必要なんだ。そう、俺達が出逢ったのは運命だったんだよ――
古葉清澄、この男も間違いなく人ならざる者。
「いかがでしょうか?阿南名人。大将戦。意外な展開から始まりましたが、今の状況は一体どちらが有利なんでしょう?」聞き手の女流棋士が、会場に見やすいよう大きな見本盤を動かすと、阿南は、マグネットの大きな駒を使い予想をたてていく。
「相中飛車となると、普通後手は先手に一歩遅れてしまうんです。現在は未だそう言った限りでは、盤面に動きはありませんね。静かにお互い隙を狙っている状態です。」
「私には、若干後手有利に見えるんですが」と女流棋士が『棋神門』へのフォローを入れた。それを、愛想笑いで阿南が受け止める。
一縷の光もない漆黒の闇の中。音桃子は物事に集中した時、常にその世界に居た。いつからその世界を意識していたかと問われれば「生まれ落ちたその日から」と答える。
音桃子は産まれたその時から周囲に異端の目を向けられていた。真っ白い赤子をとりあげた産婦医は、産声を聞いた時、歓声を挙げるでもなく、ただ悲鳴を噛み殺していた。
しかし、桃子の両親は、自分たちに有る限りの愛情を持って、桃子を育てた。
その体質から、日光を浴びる事が出来ず、一般の子どもの様に外で遊ぶ事も出来無い事も影響し、その育児は困難を極めた。が、母親が元将棋名人、別当
ようやっとハイハイが出来るようになった運動能力の低さとは裏腹に、この時既に桃子は会話にて両親とコミュニケーションを取れるほどになっていたのである。
両親はそれを素直に喜びと捉えたが、祖父の別当を含め、他の大人たちはその余りにも自分たちの知る子どもの成長とは異端な経過を辿る桃子に、狂気にも似た奇怪な感情を抱き始めていた。
「うぐっ……これは……」
土生がモニターを見て、思わず声を漏らした。
「先鋒と副将の盤面が動きましたね。」それとほぼ同時に舞台上の阿南もそれに気づき、指摘を始めた。
「副将の達川さんは、まだまだ戦局の持ち直しが出来る位置をとっていますが、小早川さんの猛攻にかなり苦戦していますね。そして、先鋒の雑賀さんと長谷川さんですが……かなり長谷川さん苦しいです。穴熊に持っていこうとした所を雑賀さんに完全に読まれていましたね。素晴らしかったのは雑賀さんの機転です。即座に相手の型を崩しに掛かっており、長谷川さんは止む無く不完全な左美濃に変えざるを得なかった。この時点でほぼ、雑賀さんに戦局は傾いてしまいましたね。」
――まだ、指すかぁ?おらどの実力差が
否、長谷川は自分の窮地を充分理解していた。しかし、それを認めたからといって勝負を簡単に捨てる事は出来ない。
――実力が違いすぎるのは初めから分かってた‼でも、諦めない‼明日も明後日も、私たちのチームを続けていく為に。1%の可能性にでも、しがみついてみせるわ!――
必死の形相で指す長谷川を見つめる土生の瞳に、影が落ちた。
――クマちゃん……クマちゃん……その盤面は……もう………――
――流石、本戦に勝ち上がっただけはある…気迫だげわ一級品だぁ、仕方ね……息の根さ止めてやるべ……――
――ああ、こんな気持ち久しぶりだ………81マスの盤上が、限りなく広大に見える……嫌だなぁ……同年代の女子で、こんなに自分より強い奴が居たなんて……認めたくなかったなぁ…――
小早川が、徐々に達川を追い詰め、凛々しくも毅然とした視線を浴びせる。
――貴女ほどの棋力なら、この盤面の先が読めない訳がない……これ以上、盤面を汚すのは私も不本意だ……何故投了しない⁉――
一瞬芽生えたその、絶望に、達川は表情を引き締めた。
――駄目だ‼うちが諦めてどうするんだ‼
まだ必至も掛かってないじゃないか‼――
「………で………が銀を……し………そんで………」
―――………え?―――
右隣からぼそぼそと漏れる声が達川の耳に届く。
――か……ん……そうせん?絵美菜……………終った……の?――
小早川は、達川の瞳から輝きが失われたのを確認し目を伏せる。
隣から聴こえた、その静かに囁かれる言葉の間に入る鼻をすする音が、達川の心を折った。
ゆっくりと達川は手駒に手を当て、投了を宣言した。
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