第十一手 夏合宿開始

 ようやく、校長先生の一昔前の小説で、流行ったような有難いお言葉が終った。

 教室に戻ると、誰しも皆が夏休みという永遠の宝石を目前に、浮足立っていた。


 由紀も自分の体の半分以上の大きさの、朝顔の鉢を持ちながらその騒々しさに、心が躍っていた。

 今日は火曜日、将棋教室もないので『ヒメリンゴ』で夕方まで宿題をする。早速夏休みの宿題に取り掛かれる由紀はなんと賢い子であろうか。


 「由紀ちゃん。えらいね、もう夏休みの宿題取り掛かってるんだ?」

 『ヒメリンゴ』の担当教師は、3名の教師が曜日別でそれぞれ担当している。火曜日は最も若い1年生担任の女の先生、山崎やまさきであった。

 「最近、入来いりき先生も鶴田つるた先生も由紀ちゃんと会えなくて寂しがってるよ?たまには月曜と金曜にも顔を出してね?」


 由紀は、あの日から月水金土と将棋教室に通っている。両親も納得の上の事であったので由紀も心置きなく将棋に専念していたが『ヒメリンゴ』としては最上級生の二人が同時に居なくなってしまう事は寂しいものであった。実際に高木がよく遊んでいた下級生は、とても寂しがって、教師に反抗する子まで現れたほどだ。


 由紀は、今までお世話になった『ヒメリンゴ』の先生たちに申し訳ない気持ちになった。助かるのは、明日から夏休みで『ヒメリンゴ』も長い休みに入るという事だった。



―――――


 「明日から、由紀も暫くお泊りかー、パパ寂しいなー、そうだ‼今日は一緒にお風呂に入ろう?」

 「やだ。」にっこりと笑顔で由紀は即答した。


 「何で―何で―」と唇を尖らせる父親を背に、由紀はリュックサックに、着替えやら持っていく宿題の準備をしていた。勿論その中には、あの将棋盤とノートも入っている。

 「それと、由紀。先方さんにしっかりとよろしく伝えておいてね。」


 あの後、母親も達川の家に電話で挨拶をしたようだが、愛子が出たようで、どうやら家族への挨拶を遠慮したようだ。


 「それと、これ。困った時に使いなさい。」

 1000円札とテレホンカードの入った可愛い財布を由紀に手渡す。

 「ありがとうママ。」

 その晩、緊張していたが、由紀は自分でも驚くほどよく眠れた。

 初めての外泊が、緊張以上に由紀にとって楽しみだったのである。


 翌朝、両親はもう仕事に出ていた。由紀はテーブルに用意されていた朝食をとると、洗い物を済まして、ガス、電気の確認をし、着替えと準備を始めた。

 そして、家の鍵をかけると、足早に達川の神社へと向かうのであった。


 「おお、由紀ちゃん。おはよう!」

 もう、充分夏日と言ってもいい日差しに、重い荷物を背負って神社の階段を登ることは由紀にとって、考えたこともない苦行であった。

 汗だくになった表情で息絶えに「お、おはょぅござま……す」と言うのが精いっぱいだった。

 すぐに達川の爺さんに、風通しのいい日陰に案内され、冷たい麦茶をもらう。


 ――帽子、被ってきたらよかったな――

 汗で、ノースリーブの白いワンピースから覗く首筋が光っていた。



 「こりゃあああ‼愛子ぉぉぉおおお‼いつまで寝とんじゃあああ‼由紀ちゃん来とるぞーーー‼」家の壁が吹き飛ぶくらいの大音量であった。あんなに五月蠅かったセミの鳴声が一瞬止まったほどだ。


 「あーーーー‼爺ぃぃ‼なに勝手に部屋に入ってんだよーー‼このドスケベがーー‼」

 こちらもボリュームはやや小さいが、超音波の様な金切り声だ。負けていない。

 すると、門の方に人影が見えた。長谷川だ。大きな麦わら帽子に、赤いワンピースで肩から大きな鞄を掛けている。首からかけたタオルで汗を必死に拭っている。


 「長谷川さーん。」由紀が手を振って声をかけると、向こうも手を振り返してこちらに向かってきた。


 「あーー、おはよう由紀ちゃん。暑っついねー、あっ麦茶一口ちょうだーい。」


 由紀も挨拶を返すと「どうぞ」と半分ほど残った麦茶を手渡す。

 「ぷっはー、生き返ったーありがとう、由紀ちゃん。」


 すると、近くのドアが開き、中から頭を擦りながら、タンクトップとパンツという下着姿の達川が出てきた。二人は思わず「ギョッ」となった。


 「お、おーう、絵美菜、由紀ー悪いなぁ、ちょっと着替えてくるから、部屋入っててよ。」そう言うとまた中に入ってしまった。

 「だらしないなー愛ちゃん。」由紀はまだ胸がドキドキして声が出ない。



 達川の部屋は、想像と違って整理整頓が行き届いた部屋であった。

 「どーぉ?由紀ちゃん。愛ちゃんの部屋は?」

 「い……いえ、意外というか……あっ、失礼な感じですけど……」

 その言葉を聞いて「むふふ」と長谷川は口を押えて立ち上がり、手だけ動かし由紀を呼ぶ。目の前にはちょっと大きめの洋服タンスだ。すると、長谷川は一気にそれを開いてしまった。


 「え?ええええ?ちょっ、長谷川さん‼何…………をぉ?」

 引き出しの中に入っていたのは、服ではなく。なんと美少女ヒーローの漫画の人形や輪ゴムで止められた大量のカードであった。


 「こ……これは……なんと……強烈な……」


 由紀がそう言った瞬間、何かが弾けたように長谷川が「ブハッ」と色々なものを吹き出し、プルプルと笑いを噛み殺している。

 しかし、彼女は急に無表情になり、そして素早い動きを見せ、箪笥の棚を戻す。


 由紀は「??? 」と疑問符で頭がいっぱいになったが、直後意味を理解する。廊下に足音が聞こえていたのだ。

 二人は、顔を見合わせて頷くと、膝で「スイスイスイ」と音も出さずに元の位置に戻った。


 一瞬の間の後、引き戸が開かれ、髪がびしょびしょのままの達川が袖を捲ったTシャツと体操着の短パンを履いた姿で現れた。


 「いやー、お待たせお待たせ。」

 由紀は、その姿に驚愕し、思わず全身をなめるように眺めていた。

 「愛ちゃん……さっきの格好とあんま変わんないじゃん……てか、ブラしてないでしょ?チクビ見えるよ?」

 そう言われると、達川は右手を振りながら。

 「見られてもあんたたち二人だろ?夏場は暑いし蒸れるから嫌なんだよ。大体、着けててもしゃがんだ時とかに見えるからな。」


 それを聞いた長谷川が胸元を「サッ」と両手で隠した。

 「な、なんでそんなこと知ってんのよ?愛ちゃんまさか私のを時々……」

 「うちのの半分もないお前のを見て、何がしたいんだよ。」


 ゆっくりと、達川は由紀たちの所へ行き、座布団に座る。

 「さーて、まずはどうする?」達川が二人を見渡し、由紀の様子に気付く。

 「ん?何だ?由紀?」由紀が眼球をコロコロ動かし達川に「チラ観」を繰り返しているのだ。そして、それを指摘された途端、湯気が出るかの如く顔を赤面させた。


 長谷川がその様子を見て、わざとらしく腰を抜かせ、ガタガタ震えた。

 「由紀ちゃん……まっさか…女の人のカラダに……興味があるの⁉」

 由紀は立ち上がって、両手を振りながら「ち、違います。」と否定した。


 「こ……こんな……恰好の人……見た事……なかったから……」

 「ふ~ん」と達川が素っ気ない反応をする。

 「そんな事で恥ずかしいかね?」

 「うん、愛ちゃん。普通の12歳は恥ずかしがると思うよ。」


 ――すごい……2つしか齢…違わないのに……ママみたいだ……――

 また横目で達川の膨らみを見て、由紀をそんな事を考えていた。


 「よーーーしっ‼とりあえず‼将棋すっか⁉」

 大体の予想通りの言葉が、達川から発せられたが、二人は既に小型のちゃぶ台に、夏休みの宿題を広げ始めていた。


 「う……げ~~~絵美菜、由紀も?お前ら一体何をしてんだよ?」

 「何って?宿題でしょ?来週の月末から地方予選が始まるんだから、それまでに少しでも終わらせないと……夏休みあっという間に終わっちゃうよ?」


 達川は、頭をポリポリ掻くと机から、夏休みドリルを持ってきた。


 「しゃーない。さっさと終わらせるぞ。」

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