カタロニアの私
カタロニアの地を踏みしめて、どこか寒いなと感じる。当然だ。カタロニアはスペインの地方のなかでも、特に気候が激しい。この激動が、あの人を育てあげたのだと、改めて感じる。コルクを抜いた音がした。それが銃声とわかったのは、ずっと後になってからだった。翌日、小動物が一命をとりとめたというニュースがテレビで流れていた。ネットで薬を買うつもりで、探していたら、ある宣伝文句に心が踊った。『素晴らしい世界を手に入れよう』そうだ、と私は思った。素晴らしい、つまり良い。この言葉こそが、私の今の状況を変える唯一の希望だった。良く、素晴らしい生活、素晴らしい体型…。本当にいろいろあるが、私にとっては、あまり意味のないものだ。悲しいかな、私の体は、かなり悪い。体の四肢の力が落ちていく病気だ。それでも、私は生きている。その喜びさえ、無残だ。「いいか!!」父は天国に行く前に私に語りかけた。「お前の価値を信じろ。誰にも何も言わせるな」父の言葉は力強かった。とても、今までの癌との闘病に疲れ切った男のものとは思われなかった。一時、女としても生きた父の生き様は、尊敬、軽蔑を繰り返しながら、得たものもあるのだろう。さっそく、広告に載っていた電話番号にかける。「ハッピービル3階でお待ちしています」電話を切るとき、受付らしい女性は言ったものだ。素晴らしい世界。確かにそうかもしれない。私の心は期待であふれている。翌日準備して、電車で30分かけてハッピービルにたどり着いたとき、ビルの一種美しい風貌に故郷の家(まだ、家が裕福だったころ)を思い出した。これは、良いな、と感じる。良いものは、良い。それだけだ。ありがたいものだ。こんな素晴らしい体験をさせてくれるなんて。私は、しばらくたたずんで、このまま、帰っても惜しくないと思い出した。それでも、父の言葉が思い出されて、進むことにした。この幸福は絶頂ではなく、さらなる高みがあるという確信に身をゆだねる。夕日が海を染める。「もう夕方か」つぶやき、眠りこける。もうずいぶん、待たされている。「どうぞ」感じの良い清潔な服装をした人が笑顔で声をかけてくれる。私は誘われるままに、動く。緩やかな動きだ。日が暮れると、いつも体は鈍くなる。一室というより、1つの巨大なフロアに机がひとつだけ置かれている。「ようこそ」椅子に座った男が、出迎える。笑顔というより、どこか奇妙な違和感。でも、その違和感は、良い方の予測を私にさせた。なぜなら男の胸には赤い羽が光っていたのだから。「すばらしい世界ですね?」女は言う。「はい」私は肯定する。それ以外の術はない。「自分のことを語ったことは?」今度は男が言う。「あまりないです」私はぼんやりと答える。すでに眠気がピークだ。男は組んでいた腕を崩して、指揮者のように腕を振りながら話しはじめる。「自分を語ること、そのことが、関係しているのか?あなたの疑問はもっともです。つまり、難しい問題に我々は足を踏み入れてしまったかのようです。しかし、物事は、単純明快なのです。自分というものをどれだけ知っているか?それをあなたはどの程度わかっているか?それというのは、自分ですよ。セルフです。1つ1つの動きを感じてみてください。あなたは、今自分の足で立っている。少し震えていますね?緊張ですか?それとも?大事なのは、自分が感じる、原則です。それにしても、私は原則という言葉が、かなり嫌いです。つまり、原則は他の可能性を狭めるからです。でも、原則をたてて、狭めて物事を見ないことには、人間の意識は拡散してしまいます。拡大しすぎると、ニュータイプになってしまいます。新人間ですね。私たちができることをお伝えさせていただきます。あなたは、我々の原則をもとに行動をはじめて、原則をこえでてほしい。あなたの個人的事情はわかりませんが、あなたは、今、または現在が、色あせたものに見えているはずです。そうでなくとも、もっと良いものを!!と求めておられる。いささか、間違えているならば、ここを去ってくださってかまいません。私たちは、いかなる科学装置も、体を刺激することもいたしません。ただ、言葉によって語りかけるのみです。わかりますね?””語りかけるのみ””なのです。あなたと私は1つの対話をはじめます。長い長い対話になるでしょう。私はあなたのはじまりを示しますが、他のことは示さないですし、あなたに何かを教える人間でもありません。あなたは、あなたの気付きを大事にしてください」その時、今度は、鳥の鳴き声が聞こえてくる。「鳥を飼っている会社があるのですよ。何でも核兵器の時代に生き残るために、とか。面白いでしょう?これが人間なのでしょうかね?」男の声はなめらかで、流暢だったが、一種の不器用さがあった。そのことが、逆に私を信用させた。女がスマートフォンを差し出した。「どうぞ。いつでも、連絡できます。ボタンひとつです」すぐにボタンをおしてみる。男の持っていたスマートフォンに似た何かが鳴り、男は電話をとった。
男『はい。カンパネルラです』
私『私は先に進めるでしょうか?』
男『進むには当たり前ですが、動き続けることです。つまり、何かをするのです』
私『進むことを進歩と考えていた時代もありました。本当にそうなのでしょうか?』
男『何かをするということは、何もしないということも含みます。言葉遊びではありませんよ。私たち人間は常に何かをしているのです』
私『よくわかりません』
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