10.太古の息吹
「シナ、イツジの図鑑で欲しいのがあると言っていたろう、今なら貰える」
イツジさんはぼく以上の図鑑フリークだ。その蔵書は凄まじい。増える一方だからだ。それをくれるというのである。
「まさか、今度は図鑑てこと」
琉球は頷く。イツジさんは固執妄想の持ち主だ。少し前までは酸素欠乏で、部屋を植物で満たしていた。
「なんでも、図鑑のなかの物が動くらしいよ」
「動く」
「浮世絵図鑑があっただろう、あのなかから白い女の手が伸びて首を絞める。植物図鑑からは蔓が伸びてきて首を絞める」
「それが今回の固執妄想」
「そういうこと」
「じゃあ、全部の図鑑ではないんだね」
「なんで」
「とにかく首を絞めるんだろう、鉱石には無理だ」
ぼくの欲しいのは鉱石図鑑だった。
「大丈夫、そのうち心臓にのしかかってくる、とか言いだすよ、イツジなら」
それに、と琉球は神妙な顔をつくった。
「避難させておかないと、きっとすべて失われることになるぜ」
「イツジさんのことだから?」
「そう、燃やしかねないと僕は思うね」
「まさか」
あんなに大事にしているのに、いくら何でも燃やしたりするものかとぼくは思うけれど、イツジさんとの付き合いは琉球のほうが圧倒的に長い。
「でも、妄想なんだろう」
「イツジにとっては現実だ」
そのうち彼はあれらが図鑑のなかから抜けだして実体化するんじゃないか、そう考えているらしい。そう聞いて、ならばぜひ、妄想を突きつめてほしいとぼくは思った。琉球曰く、イツジさんの妄想は「足りない」ので実体化しない。ぼくはイツジさんの部屋にある鉱石図鑑を頭に浮かべ、鉱石標本を夢想する。今ではどれも手に入らない鉱石ばかりを集めた図鑑なのだ。琉球ならどれがいいと訊くと、彼は絶滅種シリーズから卵図鑑を選んだ。虹色の卵がほしい、と琉球は例のデパ地下のペットショップに行っては店員を困らせている。
「卵が無理なら鳥でいい、つがいならね」
琉球は虹色卵でどんな夢想をしているのだろう。彼のことだからきっと一般的ではないだろうな、とぼくは複雑な思いを抱く。
「ねえ琉球、そもそも妄想が足りないって、どういうことかな」
「錯誤が足りないんだろう」
「錯誤」
「なんていうかこう、もっとぐちゃぐちゃな感じにならないといけないんだよ」
「それって、イツジさんはもう楽しめない域ってことじゃない」
「イツジはどうなったって楽しめるさ」
また琉球は適当なことを言っている。すると彼は「イツジの精神は振れ幅が広いから、大丈夫だ」という。
「イツジさんていつから固執妄想になったの」
「さあ、はじめからだった気もするな」
「はじめって、イツジさんのほうが後から入居したってこと」
年齢的に考えてぼくはてっきり琉球が後だと思っていた。
「ああ、今じゃ僕が一番の古株になっちゃったしね」
「琉球っていつからここに居るの」
「さあ、いつだったかな」
忘れた、と琉球は興味なさげだ。ぼくと琉球はイツジさんの部屋に向かった。部屋がどんな状態になっているのか、想像もつかない。扉を開けるなり、イツジさんは陰気な顔で琉球とぼくを見下ろした。
「図鑑か」
頷くと彼は小さく舌打ちした。イツジさんは感情に関係なく、舌打ちする癖がある。室内はがらんとしていた。ベッドと窓と扉を除いて壁は天井まで本棚で、それ以外には部屋の真ん中にぽつりと囲炉裏がある。もちろん、囲炉裏は前にはなかったものだ。図鑑を燃やすためのアイテムだろうか。イツジさんにとって固執妄想は現実なのだ。囲炉裏ではまだ図鑑が燃やされた形跡はない。今回の固執妄想が一刻も早く終わりを告げることをぼくは祈る。
「ねえイツジ、なにか実体化したの」
「ああ、今朝起きたら枕元に女が立ってた」
浮世絵辞典は燃やされていないから、囲炉裏は違う目的で設置されたのかもしれないと、ぼくは淡い期待を抱く。琉球は棚の図鑑から一冊を抜き取って、イツジさんに示した。それは先程、彼が欲しいと言っていた卵図鑑だった。
「この卵なんだけど」
「卵」
「ほら、これだよ」
もちろん、琉球が指しているのは虹色卵である。
「これが実体化したら、僕にくれないか」
「構わないが、孵るのか」
「別に孵らなくたっていいんだ、化石のようなものなんだから」
ふぅん、とイツジさんは興味なさそうに図鑑をめくっている。
「でも、イツジがもっと念じてくれたら、孵るかもしれないよね」
「成程。念で質が変わるってことか」
試す価値はあるな、とイツジさんは真剣だ。琉球はただ自分が欲しいものを手に入れるために、イツジさんの錯誤を後押ししようというのだ。欲しいものに対して彼は本当に容赦がない。図鑑を前にイツジさんは強く念じはじめた。ぼくは何だかいたたまれなくなって、部屋を出た。
「君はどうかしてる」
廊下に出てからぼくは琉球に言った。責めているぼくに対して、琉球は首を傾げる。
「どうして」
「だって、妄想を現実にしようだなんて、どうかしてるだろう」
「シナはほんとにおかしなことを言うよな」
「どこが」
「今現在イツジにとって妄想は現実なんだ。誰の目にも現実になったからって、何も問題はないじゃないか。むしろ、すっきりしていい」
「すっきり」
「大体において、イツジの妄想は人に迷惑をかけるような類じゃないんだ、構わないだろう」
そう言われれば、反論の余地はない。ぼくはイツジさんの妄想がイツジさんを不自由にしていると思っているけれど、琉球のいうように心底楽しんでいるのだとしたら、イツジさんの錯誤は錯誤ではないということになる。ならば確かに、それでいいのかもしれない。もう、よく解らなくなった。単に琉球に上手く言いくるめられている気もする。けれども彼の言っていることは、何も間違ってはいない。正しいかどうかは別にして。
「クレムリンはもうコウモリの姿になることはないの」
琉球の部屋でクレムリンを眺めながら、ぼくは訊いた。一度だけシロヘラコウモリになったクレムリンは、翌日にはカメレオンに戻り、それ以来ずっとカメレオンのままだった。ほかの姿になるのを見ていない。
「いや、時々なるよ」
「そうなの」
琉球はクレムリンがぼくに気を使っていると言っていた。本当だろうか。
「だから言ってるだろう、彼は君を気に入っているんだ」
「そうなのかな」
琉球の部屋ではクレムリンとクレムリンの背中でハナウミが、目を閉じている。どこからどうみてもカメレオンの親子である。ぼくがじっと見ていると、ハナウミが目を開けてじぃっとぼくを見た。それから右腕と左足、左腕と右足を一回ずつ、気の遠くなるような時間を用いて動かした。ハナウミはその二歩でクレムリンの頭に自分の顎下をペタリとくっつけて、再び目を閉じた。
「ねえ琉球、虹色卵が手に入ったら、どうするつもり」
彼は何をしようとしているのか。なぜこうも虹色卵を欲しがっているのか、ぼくはずっと気になっている。
「まちがっても、僕は標本にはしないぜ」
琉球は意地悪そうに笑う。
「あの卵が孵ると仮定したとするだろ、僕は断言できる」
「なにを」
「生まれるのは鳥じゃない」
「じゃあ、何が生まれてくるっていうのさ」
シナ、と琉球は憐れむような目をする。
「知らないから、楽しめるんだろう」
「君も知らないの」
「当たり前だろう、知ってたら要らない」
「絶滅した鳥が蘇るほうが、ぼくはすてきだと思うけどな」
「シナ」
琉球は強い口調になる。
「クレムリンの前で、そんなこと考えるなよ」
「どうして」
「どうしてって、だから言っただろう、彼は君を気に入っているって」
「どういうこと」
ぼくが望むものが生まれてくるかもしれないとでも言うのだろうか。琉球はこれ以上答える気はないと言わんばかり、ベッドに寝転がって本をひらいた。水槽の本だ。
「琉球、君はクレムリンに何か吹きこもうとしてるの」
「何かって何を」
琉球は惚ける。あの卵のなかから何が生まれてくることを、彼は望んでいるのだろう。ぼくは琉球に気づかれないようにイツジさんの部屋に向かった。虹色卵を産む鳥について調べてみようと思ったのだ。
「なんだ、お前もそれに興味があるのか」
イツジさんはぼくに図鑑を差しだしながら、にやついた。彼の笑みはどこか凶悪さを秘めている。
「シナ、それ持って行っていいぞ」
「でも琉球が」
するとイツジさんの笑みが更に凶悪さを増した。
「大丈夫。俺の図鑑なんだから、どこにあろうと実体化するさ」
イツジさんはベッドに寝転がって図鑑ではない本を読んでいる。扉を閉める寸前に、ぼくはイツジさんに向かって伸びる蔓を目撃する。
「イツジさん」
彼はまたニヤリと笑って、ぼくを払う仕草をした。イツジさんに従って扉を閉める。左手に持った図鑑がずしりと重い。彼の妄想をぼくが目視したということは、イツジさんの妄想は「足りた」ということで、それは彼の錯誤が進行したことになる。立ち尽くしていたら、勢いよく扉がひらかれた。
「これも持って行けよ」
そういって渡されたのは鉱石図鑑である。ぼくが受け取ると同時に扉は音を立てて閉められた。とりあえず、命に別状はなさそうだ。
それが虹色卵を産む鳥の名だった。ツァイホンとルビが振ってある。彩虹とは虹のことだ。長い尾羽が虹色をしている鳥である。雄には風切り羽にも若干の虹色が入る。伝記によると、ほとんど飛ばずに生きるこの鳥は、卵を産む前には必ず羽ばたく。そして虹の根元に虹色の卵を産み落とすのだ。すでにこの星から失われてしまった鳥の姿を、ぼくは夢想する。彩虹の羽ばたきが虹をつくり、虹の根元で虹色の卵から産まれる鳥はどんな声で鳴いたのだろう。
「へえ、僕から横取りする気じゃないだろうね、シナ」
「琉球」
「きっと君は彩虹を見たいと思ってるんだろうな」
「琉球は違うの」
「僕が興味あるのは卵だけだよ」
「卵で何がしたいの」
「クレムリンにやるんだ」
「食べさせる気」
食べるかどうかは解らないけど、と琉球は顔を寄せてくる。
「もっと面白いことが起こりそうな気がするんだ」
「新種だから」
「そういうこと」
図鑑を閉じようとして、ぼくは手を止めた。ひらいた図鑑の上に、卵があった。立体の卵だ。隣で琉球が息を飲む。
「イツジの奴、成功したのか」
まさか、とぼくは鉱石図鑑を手に取った。持ちあげた途端、図鑑のなかからバラバラと鉱石が落ちた。図鑑をひらくと画像が白抜きになっている。完全な実体化だ。
「イツジの部屋へ」
虹色卵をしっかり手に持って、琉球が立ちあがる。
「イツジ」
琉球はノックもせずにいきなり扉を開けた。簡素だった部屋はごたまぜだ。図鑑から実体化した人や動物や物でぎゅうぎゅうである。イツジさんは囲炉裏の前に座り、火を焚いていた。煙がもうもうと上がっている。図鑑を燃やしているのだ。
「イツジさん、どうして図鑑を」
彼は無言で浮世絵図鑑を火にくべた。図鑑に火が移り燃えはじめると、浮世絵の女人たちはすぅと動き、扉の前にいた琉球とぼくを避けて外へ出て行く。琉球は小さく息を吐いた。
「窓くらい開けろよ」
物や動物を避けつつ、窓まで辿り着いた琉球が、ガラリと窓を開ける。天井へ立ち上っていた煙が一斉に窓の外へ流れはじめる。すべての図鑑をくべ終わったイツジさんは、琉球の手のなかにある卵に気づいた。
「琉球、それを失いたくないなら、図鑑を持って来いよ」
琉球は虹色卵を見つめてから、呟く。
「そういうことか」
慌てて外へ出て行くと二冊の図鑑を手に戻ってきた。卵図鑑をイツジさんに渡すと、ぼくに鉱物図鑑を差しだして、どうする、と訊く。動物たちが窓を飛び越えて去っていくのを見て、ぼくもようやく納得する。図鑑から実体化した者たちは、図鑑がなくなれば、帰る場所を失って現実に残される。消えないのだ。ぼくはもちろん図鑑をイツジさんに渡した。
囲炉裏の火が消えたのを確かめてから、イツジさんは天井を見あげて溜息を吐いた。黒い煤で天井は汚れていた。イツジさんは琉球とぼくを交互に見て「お前ら、手伝うだろう」と、相変わらず凶悪な顔で笑う。
三人なら徹夜しなくても済むかもしれないと、ぼくはわずかな希望を持つ。琉球は卵を部屋に置きに行った。クレムリンにやるのだ。ようやく掃除を終えたときには夜が明けていた。くたくたでベッドに倒れこみたかったけれど、卵が気になって琉球の部屋に行く。
バナナの木ではハナウミが眠っている。クレムリンの姿はなく、枝に吊り下げた籠に虹色卵が置いてあった。卵は虹色に光っている。眠っているときのクレムリンのように、虹色が瞬く。
「琉球、これは一体」
琉球は目を見開いて卵を覗きこむ。その目がゆらゆらと虹色を反射している。
「クレムリンはどこ」
問いながらその答えを知っていることにぼくは気づいている。けれども訊いてしまう。琉球の口から聞きたかった。彼はそっと卵を撫でて、輝く瞳をぼくに向ける。
「彼はここから産まれてくる」
「鳥として?」
「さあね」
琉球は新たな種が産まれてくることを望んでいるのだろうか。けれどその疑問を彼は否定する。
「シナ、僕は太古の息吹が見たいんだ」
きっとクレムリンならそれを連れてきてくれる、と琉球は夢見る眼差しで虹色に瞬く卵を見つめる。
「太古の息吹」
この星には太古が二つある。生まれなおしてからの太古と、終焉前の太古。彩虹は新たな太古が始まる前の、狭間に生きていたと言われる鳥だ。
「僕はね、僕の識る太古以前の太古を知りたいんだ」
琉球の瞳が不可思議な色に波打つ。その目はとても遠い場所を見ている気がして、ぼくは不安になる。彼が識っているという太古は、ぼくが文献で知っている太古とは違う意味合いを含んでいる感じがする。僕と同い年の少年である琉球は、年齢と身体とが一致する、間違いなく古式である。けれど、この睡蓮荘で最も古株であるという。ときおり、不可思議な色に煌めく琉球の瞳。
「シナ、どうかした」
琉球の目はいつもと同じ目に戻って、心配そうにぼくの顔を覗きこんでいる。
「ぼくがカメレオンの姿を願ったら、彼は元の姿のまま産まれてくるかな」
途端に琉球は眉を寄せて不満を口にした。それから、「せめて、産まれた後に願ってくれよ」と笑う。琉球が望むように、この卵のなかから太古の息吹が産まれるのか、そう上手くはいかない気がする。卵から出てくるのがカメレオンのクレムリンだったら、きっと琉球はしばらくご機嫌斜めになるんだろうと、ぼくは小さく溜息を吐いた。
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