9.ルナの鳴き声
夜半過ぎになって扉がノックされた。琉球にしては控えめなノックである。扉を開けると夏野さんだった。
「ごめんなさい、シナくん」
訊きたいことがあって、と夏野さんは伏し目がちにいう。彼女がほかの部屋の扉をノックするなんて珍しいことだったので、ぼくは心配になる。
「おかしなことを言うよな、シナ」
夏野さんの訊きたいことを聞いたあと、ぼくは琉球の部屋を訪ねた。夏野さんの話を相談するためだ。
「なにが」
「自分の部屋の扉をノックすることなんてないんだから、その表現はおかしいと言ってるんだよ」
たしかにそうだけれど、問題は夏野さんが扉をノックした理由なのだ。
「それで」
「だから、月の話だよ、三日月の」
琉球は変なところにばかり気をかけて、人の話をよく聞いていないのだ。夏野さんから訊かれたのは、このあいだの三日月の影の欠片についてだった。次の三日月に直接返すことになっていた。ところが、あれから一度も三日月にならない、という話だった。言われてみれば、確かにぼくもあれから一度も三日月を見ていない。日数を数えてみると、二回三日月になっているはずだった。一巡しているはずなのだ。けれど、三日月を見た覚えはない。そこで、琉球に相談に来たのだった。
「そういえば、僕も見ていないな」
窓から月を見あげて、琉球が呟いた。今夜の月は半月を過ぎた下弦の月だ。
「今夜は新月のはずだよ」
琉球の腕時計で月齢を確かめて、ぼくたちは顔を見合わせた。月が狂っている。
「どういうことだろう」
琉球はぼくの問いには答えず、何度か月と月齢表とを見比べて、言った。
「三日月を飛び越えてるんだ」
「飛び越える?」
「言葉通りさ。三日月を飛び越えて新月になり、また三日月を飛び越えて満月に至る」
「どうして」
なぜそんなことになったのか、ぼくたちはすぐに思いついた。
「あの欠片」
「シナ、僕の推測は当たっていたかもしれない」
琉球の推測とは、三日月の影は三日月の修復に充てられているというものだった。欠片が足りないから三日月の修復がされず、月は三日月に成れないと琉球はいうのだ。夏野さんにそう話すと、彼女も納得する。これは一刻も早く欠片を返さなければならない。
「でも、三日月の夜が来なければ、門番も立たないだろう」
「とりあえず、行ってみるしかないな」
このままでは三日月は永遠に失われてしまうというのに、琉球は楽しげだ。その様子からも明らかなとおり、琉球は単に地下シェルターを探索したいだけなのだ。夏野さんが欠片を持って、ぼくたちは三日月公園へと向かう。
月明かりの下で公園の土は黒々と静まっている。あるのは街灯の気配くらいで、ぼくたちのほかには動くものもない。どうしたものかと地下シェルターの蓋の周りで立ち尽くしていた。いざとなったら思い切って蓋を開けてみようと考えていたけれど、その考えは試すまでもなかった。蓋には取っ手もなければボタンもないのだ。不意に夏野さんは欠片を蓋の前に置いた。
「やはり、現れませんね」
夏野さんは蓋が開いてシルクハットの紳士が出てくるのではと期待したようだけれど、蓋はピクリとも動く気配はない。
「ナツノ、最近シナの影響を受けてるんじゃない」
「そうでしょうか」
ぼくの影響とは何なのか解らないけれど、夏野さんは心なしか楽しそうに見えた。
「ねぇ、琉球、何か推測はないの」
門番について一番知っているのは琉球なのだ。ぼくは一度だけ、夏野さんに至ってはまだ彼らを見たこともないのだから。
「これを三日月の形に削ってみるとか」
「この欠片が足りなくて、三日月の修復がなされないんだろう」
それが琉球の推測なのに、削ったりしたら修復不可能になるのでは。すると琉球はそうだったな、と呟く。適当な思いつきを口にする琉球に文句を言っていると、黒猫が歩いてきて、公園を横切っていく。途中で足を止め、僕たちのほうをちらりと見た。月光に緑の目が光る。
「門番の猫かも」と琉球が小声で囁いた。
「どうしてです」と夏野さんも小声で訊く。
「黒いからなんて言うなよ、琉球」
図星だったらしく、彼はにやりとした。緑目の黒猫は欠片を見て目を見開いたように見えた。けれどそのまま悠々と歩き去っていく。気のせいだったろうかと思っていると、夏野さんが同じことを言った。琉球も同意する。
「ああ、確かにあいつ、この欠片を見たよ」
ここは追いかけてみるべきだと三人の意見が一致した。公園を出た黒猫は、通りを横切って細い路地へ入っていく。
「急ごう」
琉球が先頭を切って駆けだす。ぼくと夏野さんも慌てて後を追った。細い路地は緩く湾曲していて、その先に黒猫の姿が隠れるまで見守りながら、気づかれずに猫を尾行するなんて無理ではないだろうかと、ぼくは頭の隅で思う。
黒いしっぽが消えようとしたところで、ぼくたちはギリギリまで距離をつめる。気づかれていないようで、黒猫は変わらず悠々と歩いている。路地を通り抜けると、睡蓮荘の面した通りとは逆側の広い通りに出る。黒猫はこの通りも横切った。また細い路地に入るのかと思いきや、今度は通り沿いに歩いていく。
ぼくたちは街灯やダストボックス、郵便ポストなどに隠れながら、調子よく尾行をつづけていた。猫はまた、細い路地に入りこんだ。最初の路地とは逆向きに湾曲している。その先で、不意に、黒猫は塀に飛び乗り姿を消した。塀はぼくの身長の倍はある、高い塀だった。うつくしい猫の跳躍に見惚れたぼくは、塀に沿って走りだした琉球の後を慌てて追う。夏野さんもぼくの後を走るが、彼女はもう大分疲れているようだ。
「しまったな」
琉球が呟いた。見失ってしまったのである。
「やっぱり、猫を尾行するなんて、無理があったね」
「いや、あいつはわざと尾行させたのかもしれない」
最初から気づいていて、ここまでつけさせたんじゃないかと、ぼくと違って、あっという間に息を整えた琉球は、一息にそう言った。
「じゃあ、ここに何か、あるっていうの」
ぼくの問いを夏野さんが否定する。
「もしかしたら、私たち、遊ばれてしまったんじゃ、ないでしょうか」
夏野さんもまだ息が上がっていて、切れ切れに言った。忌々しそうに舌打ちする琉球を横目に、夏野さんは声のトーンを落として、「ここ、どこでしょう」と不安な眼差しで辺りを見回した。
ぼくと琉球もあたりを見回すけれど、実のところ、方向音痴の気があることをぼくは自覚している。夏野さんは散歩のルートをほとんど変えない。頼みは琉球だけだった。
「あれ、宇宙屋上じゃないか」
琉球が遥か上空を指さす。その先には細い塔が天に延びているのが見える。そこから視線を動かしていくと、さらに太めに塔が伸びているのも見えた。
「まちがいない」
ぼくたちは宇宙屋上を目印に睡蓮荘まで辿り着いた。三日月公園に変化はない。公園の水飲み場で水を飲んで、ベンチに座りこむ。
「ナツノ、欠片、失くしたりしてないよね」
琉球が思いだしたように訊いた。夏野さんは「大丈夫です」とハンカチに包んだ欠片をポケットから取りだしてみせる。欠片は天の月と交信するかのように、不規則に光る。
「あの猫、この光を不思議に思っただけだったのかも」
ぼくたちは疲れ果てて途方に暮れていた。ぼくはなんだか、もうどうでもいいような気にさえなっていた。夏野さんも同じかもしれない。とても疲れた顔をしている。もう帰ろうと声を掛けようとしたとき、琉球がハッと顔を上げた。猫のような敏感な反応だ。
琉球が眉を寄せて見ている先を振り返ると、そこにはもぎりの青年がいた。咄嗟に夏野さんは欠片をハンカチで包むと、手のなかに握りしめた。青年はゆっくりと近づいてくる。その顔は少し驚いているようだった。
「あなたも散歩?」
琉球が訝しげに青年を見る。
「いや、探し物をしていたんだけれどね」
君たちだったか、と青年は月明かりでなお蒼白く見える顔を緩ませる。そして細長い人差し指で夏野さんの持つハンカチを「それ」と指した。
「これが何か、あなたには解るのか」
琉球は玩具を取りあげられまいとする子供なのだ。きっと青年もそのことに気づいているのだろう。諭すような目で琉球を見つめる。
「君たちも気づいているんだろう、三日月がないこと」
「あなたはその理由を知っていると言うの」
琉球は食い下がる。
「新人がポカをやらかしたらしくてね」
「新人」
その言葉にぼくは琉球の話を思いだしていた。初めて会ったときに彼が話していたことだ。門番のところにやってきた男が地下シェルターに入って行ったという。きっとそれが新人だろう。
「気づいて回収に来た時には、もう無かった」
この辺りの猫を調べて回ったんだけど、どうも誰も見ていないと言うし。と青年は肩をすくめる。
「猫が」
「そう、彼ら以外に見えるものがあるとはね。でも、君たちなら納得だ」
睡蓮荘の住人ならね、と彼は意味深な発言をする。
「まさか、教えに来たのは緑目の猫?」
青年は可笑しそうに笑って「撒くのに苦労したとぼやいていたよ」と言った。もぎりの青年と初めて会う夏野さんは、欠片を渡していいものか迷っている。
「大丈夫だよ、ナツノ。どうやらそれは彼の家業らしいから」
「家業?」
「そう、いろんな家業をやっているんだ」
琉球の声に含まれる嫌味に青年は苦笑いを返す。
「意外に、根はひとつなんだよ」
「へぇ」
ハンカチから露になった欠片を、夏野さんは青年に差しだした。
「ありがとう」
欠片を受け取った青年がどうするのかと見ていると、彼は地下シェルターの蓋のところまで歩いていき、手を触れた。
「今回は急いでいるから、今度ご招待するよ」
いいながら蓋を開け、シェルターへと姿を消した。彼がどうやって開けたのか調べるが何も変化はない。蓋には取っ手もボタンもないままだ。
「まるで取っ手があるみたいに開けたのにね」
蓋の表面に触れてみるけれど、のっぺりとして凹凸すら一切ない。
「きっとマジックだよ」
琉球は真面目な顔でいう。
「この下で、紳士たちがマジックの練習をしているのかもね」
そのさまを想像したのか、夏野さんは目をキラキラとさせる。これで三日月が戻るね、と月を見あげると、月はほどけていた。糸がほどかれていくように、月はどんどん細くなっていく。糸を引いて光る粉が、はらはらと月から零れおちる。
「月が泣いているみたい」
夏野さんはうっとりとその光景に呟く。
月のなみだはしばらくつづき、ほどけきって新月になった。途端に星の光が強くなる。どうやら、青年は修復を終えたようだ。睡蓮荘へ帰るため通りを横切っていると、通りの真ん中あたりで、夏野さんが立ちどまった。彼女は手に持っていたハンカチをひらいた。
「へぇ、誰からのお礼かな」
「青年だろう」
当然そうだろうと思ったけれど、琉球はどうかな、と目を光らせる。
「誰でもかまいません、すてきだもの」
うっとりと眺めてから、夏野さんはそっとハンカチで包んで、ポケットに仕舞った。月のない暗い夜、夏野さんのポケットからは微かに光が漏れている。
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