5.夜と昼の位置


 三号室の夏野なつのさんは、夜になると必ず散歩に出かけるけれど、昼間に彼女の姿を見ることはない。夏野さんはきっと昼が嫌いなのだと思う。ふだん、日付が変わってから散歩に出る夏野さんと出くわしたので、ぼくは少し驚く。夏野さんも「あれ」という顔をする。


「何時でしょう」

「二十三時を回ったところです」


 そう、と夏野さんは微かに首を傾げたようだった。


「どうかしたんですか」

「なんだかね、このところ割合がおかしくなっているみたい」

「割合」

「昼と夜って、大体決まっているでしょう、季節で変わるけど」


 いつもより早い時間に出てきたということは、夜の割合が長くなっているということだろうか。夏野さんは部屋に時計を置いていないのだ。一緒に散歩をすることがあって、歩きながら夏野さんは時々そういう話をした。


「冬の所為かな」


 夏野さんはとりあえず、そう思うことに決めたらしい。たしかに冬の夜は長いし、昼だって夜のような雰囲気をしていることがある。それが冬なのだ。いつもと違うことが起こっても不思議じゃない。


「今夜はウサギに寄ろうと思って」


 シナくんも行きますか、と遠慮がちに夏野さんは訊く。彼女は一人で人のいる場所に行くのが苦手だった。

 睡蓮荘の前の通りを横切って、三日月公園の前に出る。公園に沿って歩きながら、夏野さんは緊張している。

 夜の公園には仕切りがあるのだと前に夏野さんは言った。人が踏み入ってはいけない時間の仕切りだ。聖域のように張り詰めた空気が、夜の公園にはある。それを感じて夏野さんは緊張する。けれども、必ず通りを渡って公園沿いを歩くのだった。

 真摯な目で公園を見ながら歩いていた夏野さんは、不意に立ち止まった。


「夏野さん?」

「なにか、光りませんでしたか」


 ぼくも公園のなかに目を凝らす。キラリと何かが光った。


「なんだろう」


 夏野さんは逡巡した挙句、公園に踏みこんだ。ぼくも後を追う。砂場ではない土のところに、硝子の破片のような物が刺さっている。黒い硝子だ。指先で触れるとひんやりと冷たい。夏野さんに渡すと、彼女は頭を右に傾けたり左に傾けたりして、観察する。華奢な指につままれている硝子は、時折、思い出したように光る。街灯の明かりを反射しているのではなく、黒い硝子は自ら光るようだった。

 ぼくは急に思い出した。三日月公園が三日月公園である理由のこと。


「もしかしたら、それ、三日月の影かもしれない」

「三日月の影」


 当然、夏野さんは首を傾げる。ぼくは琉球と一緒に目撃した夜の話をした。


「じゃあ、これは三日月の影の欠片、ということですね」


 心なしか、夏野さんの目が輝いている。楽しそうな夏野さんを見るのは初めてのことだ。正体の見当がついたところで、ぼくたちは頭を悩ませた。地下シェルターの蓋のところに置いておくのが一番いいように思えたけれど、昼間は人が出入りすることを考えれば、危険じゃないかという結論に達した。次の三日月の夜に直接返すのが無難だろう。


「門番さんに返すまで、私が預かっていても構いませんか」


 もちろん、それがいいとぼくも思う。ただ、きっと琉球ルークは見たがるに違いないというと、夏野さんも頷いた。一旦、三日月の欠片を部屋に置いてから、ウサギに向かう。木の扉を引いて、奥のテーブルに着いた。運よくほかに客はいなかった。パンとスープが運ばれてきたあとに、夏野さんは声を潜めて言った。


「門番さんたちはどうして三日月の影を集めるんでしょう」

「琉球の推測によると、三日月が擦り減るせいじゃないかって」

「擦り減るって、どういうことでしょう」

「視線で」

「見られることで三日月が擦り減ると」

「琉球は自信ありげに言ってましたけどね」

「なるほど」

「なるほど、ですか」


 琉球の突飛な考えに夏野さんが同意を示したので、ぼくは驚く。


「見た目には解らないけれど、実は月だってそうかもしれない」


 人間だって精神が擦り減っても解らないでしょう、と夏野さんは言った。ぼくは夏野さんの精神は、以前にたくさん擦り減ってしまったのだろうと思った。


「でも、琉球の推測は破綻しているんですよ」

「どうして」

「視線で擦り減るのなら、満月のほうがよっぽどのはずでしょう、なのに、琉球は三日月に限って彼らは集めていると言うんです」


 夏野さんはしばらく宙を見て考える。


「その言い分はまんざらでもないように思います」

「どうしてです?」

「きっと、満月は強いんです」


 いわれてみると、なるほどと思う。けれど、琉球がそこまで考えたかは疑問だ。彼はもっぱら思いつきを反射的に口に出すことが多い。

 翌朝、欠片のことを琉球に話すと、彼はすぐさま夏野さんの部屋へ向かった。


「ちょっと琉球、夜まで待ったら」

「シナ、今何時だと思ってる」

「九時だけど」

「十時間以上も、僕が待てると思うのか」


 思わない。けれど、夏野さんに申し訳ない。夜になるのを待ってから話すつもりだったのに、琉球は昨夜、ぼくと夏野さんが公園にいるのを見ていたのだ。何をしていたのかと詰め寄られた。琉球には野生動物的な嗅覚がある。


「夏野さん、きっと眠ってるよ」

「それなら、出てこないから諦める」


 琉球は興味のあることに対して、容赦がない。ノックをするとすぐに扉がひらいた。


「すみません、起きて」

「ナツノ、欠片は?」


 琉球はぼくの言葉を遮って、夏野さんを急かす。


「どうぞ」


 夏野さんはいつもの無表情な顔でぼくたちを迎え入れた。無表情だけれど、目には優しさが含まれている。室内は遮光カーテンがきっちりと引かれて、薄暗かった。明かりは昼光色ではないところが夏野さんらしい。


「起きてたんですか」

「きっと朝のうちに尋ねてくるんじゃないかと、そう思って」と小声で言った。琉球の性格をお見通しなのだ。

「見ろよ、シナ、真っ黒じゃないんだ」


 琉球は明かりを背にして欠片を調べている。三日月の影の欠片は、公園で光ったようには光らなかったけれど、光の余韻を残しているのか、黒はざらざらと光の粒を含んでいた。欠片に夢中になっている琉球に反して、ぼくは天井に気を奪われていた。夏野さんの天井では睡蓮がひらいていた。瑞々しく咲く睡蓮はとても大きかった。


「シナ、植物図鑑で食虫植物のある?」


 廊下に出たところで、琉球が言った。今度、植物園に行きたいんだと彼はいう。ぼくはてっきりクレムリンに関することかと思ったら、近くの植物園が夜間営業をはじめたというのが理由だった。「リサーチは必要だろ」と琉球は笑うけれど、それなら食虫植物だけじゃなくほかの図鑑も見るべきだ。そういったところで、琉球は自分の興味が触れたもの以外は眼中にないから、いうだけ無駄だった。


「ねえ、琉球、クレムリンはいつ起きるの」


 琉球が驚喜した「新種」クレムリンは、今日もまた目を閉じていた。ぼくは一度も彼が目を開けた姿を見ていない。死んでるんじゃないかと疑ったが、時々ピクリと動く。図鑑に夢中になっている琉球は「さあ」と気のない返事をする。


「ねえ琉球、夏野さんの部屋だけど」


 ぼくは夏野さんの睡蓮が気になっていた。


「ずいぶん、大きな睡蓮だったね」


 言及していいか迷いながら、ぼくは結局、口にしてしまった。琉球はちらっとぼくに視線を向けて、また図鑑に見入る。


「ナツノは睡蓮を撃たないからな」


 さらりと琉球が言った。睡蓮を撃たなければどうなるのか、ぼくに説明してくれたのは琉球なのに。


「まったく?」

「たぶんね」

「覆われちゃうんでしょう、撃たないと」

「撃つも撃たないも住人の勝手だろう」

「でも」


 ぼくのしつこさに観念したのか、パタリ、と琉球は図鑑を閉じる。「あのね、シナ」と琉球はしょうがない奴だなという目をする。


「ナツノが銃で睡蓮を撃つ姿なんて、想像できるか」


 問われて、想像してみる。できなかった。いや、正確にはできたけれど、想像のなかの夏野さんは、違う夏野さんに見えた。


「そういうことだよ」


 琉球は幼い子供を諭す口調でいう。睡蓮に覆われて、もし消えてしまうのだとしても、夏野さんはそれを受け入れる。たぶん、受け入れてしまったのだろう。夜に生まれる睡蓮に、自分を重ねてしまったのかもしれない。

 夜と昼の位置を体で感じながら、夏野さんは暮らしている。それが冬には少し狂うことを、昨夜ぼくは知った。きっとまだ睡蓮はただ天井に咲いているだけで、夏野さんを覆ったりはしない気がした。

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