"ベアトリーチェ"
帰宅するやいなや、制服から部屋着に着替え、そのままベッドに倒れ込んだ。
春休み中になまりきった身体にとって、久しぶりの学校での長期にわたる拘束時間は大きな負担となっていた。
そのまましばらく、無地の壁を無言で眺めていた。
(そっか、二年生なのか)
何の実感も湧いてこない。
教室が変わった。毎朝、四階まで階段を上がらなければならなかったが、三階までで済むようになった。後は、クラスメイトや担任の教師が変わったり、時間割が変わったりもした。
だが、結局はそれだけの話だ。環境は変化こそしたが、進展したとは思えない。学習の内容が進展しているのは、進学したからというわけではないのだから.
結局、人との関わりの中に溶け込むことの出来ない私にとって、過去の1年も、これからの1年も、何の色ももたないのだ。
諦めや達観ほどの感情はないにせよ、ただ漠然とした、不安ですらない、もっと曖昧な何かが胸いっぱいに広がった。
ごろん、と寝返りを打って、ため息を付いた。
突如、スマートフォンのヴァイブレーションが机を揺らした。
突然のことに――いつものことながら――思わず身体が跳ねてしまう。
もともと、メッセージのやりとりや通話をほとんどしない、ネットを見るためだけの端末に成り下がっているそれが鳴ることなど、あまりないことだった。
時々、アプリからの通知があるくらいだが、ニュース系のアプリの通知は切っている。
………迷惑メール? 訝しみながらもスマートフォンの電源ボタンを押し、ホーム画面を呼び出す。
そこには、一つの通知が来ていた。
「グループチャット……?」
グループチャットの招待。招待人は「ベアトリーチェ管理局」とあった。
オンラインゲームの広告? だが、こんなタイトルのものに応募した覚えはないし、そもそも、グループチャットに招待してくる広告なんて聞いたこともなかった。
まあ、チャットの招待自体は既にインストールされているアプリからのものだし、ウイルスなどに感染することはないだろう。
怪しげに思いながらも、私の指は承認をタップした。
4"いらっしゃい"
3"これで七人、ようやく揃いましたね”
7"やっほーこんばんわー♪"
5"こんばんわ"
入室直後、ものすごい勢いで挨拶のメッセージが飛んできた。
各々の名前にあたるであろうところには、名前の代わりに数字がついていた。ハンドルネーム、でもなさそうだ。
(どうしよう……とりあえず、返信しておけばいいのかな)
(こんばんわ、っと……)
フリック操作で文字を打ち込み、相槌を返す。
6"こんばんわ"
(私の名前は、6なんだ……)
この数字に何の意味があるのか。今のところ、皆目見当もつかない。
少なくとも8人がこのグループチャットに参加しているようだった。「1」「2」にあたる人物は発言していないが、他の面々の文体を見るに、個性派なメンツが揃っているようだ。
昔少しだけプレイしていた、オンラインゲームのチャットの雰囲気に似ているな、と思った。
管理局"全員、お集まりいただけたようですね"
数字以外の名前のアカウントからのメッセージだった。このグループチャットの招待者のようだ。
管理局"このアカウントは、戦斗少女変身アプリ「ベアトリーチェ」の管理局の公式アカウントです"
管理局"あなた達は、今年1年の影狩りの少女に選ばれました"
管理局"つきましては、簡単なシステムの説明と、参加同意の契約について、お話させていただこうと思います"
……何が何だか、分からない。
一切の事前説明なく、非日常的な用語が容赦なく織り交ぜられている。
戦斗少女? ベアトリーチェ? 影狩り? システム? 契約?
メッセージ履歴が残っていて幸いだったのかどうかは分からないが、これが口頭での説明であったなら私は完全に放心状態になっていたに違いない。
だがこの管理局というアカウントは、そんなことお構いなしと言わんばかりに、矢継ぎ早にメッセージを入力してくる。
管理局"とはいっても、システムは単純明快"
管理局"あなた達に与えられたアプリ「ベアトリーチェ」を用いて、人々に害をなす「シェイド」を片っ端から駆逐していくのみ"
管理局"アプリやデバイスの使用法、戦闘のノウハウ、そして報奨については、専属のパートナーが追って説明します"
管理局"我々があなた達に問うことは、たったひとつ"
雨のようなメッセージの列挙が、一拍だけ止まり
管理局"つまらない日常を、変えたくはありませんか?"
そんな、意味深な問いかけの後。メッセージの雨は止んだ。
◇ ◇ ◇
呆けた目でスマホの画面を眺めたまま、一分近く経過したか。
7"もしかして、これがウワサのアプリってやつ?"
4"何? ウワサって"
7"田舎特有の都市伝説っていうの? 知らないかなぁ?"
4"7さんは情報通みたいだねぇ。何か教えてくれない?"
7"えー? どうしよっかな~?"
この「4」と「7」は、かなり喋り好きなようだ。入力速度も、私より早い。
7"やっぱりヒミツ! どうしても知りたかったら……リアルの私に聞いてみて"
リアルの、私。
そうだ。
ここにあるメッセージは、誰か生身の人間が入力したメッセージなのだ。
ネット上の文字のみのやり取りは、時にそのコミュニケーションの中に生身の人間が介在していることを忘れさせる。それが、余計な軋轢を生んだりすることも多々あるのだが。
4"それじゃ、探してみるとするよ。じゃあせめてヒント頂戴"
7"しょうがないなぁ。っていうか、みんなおんなじところにいるんでしょう?"
おんなじ、ところ?
7"私は、今年一年生だよ。よろしくね、センパイたち♪"
もしかして、ここの参加メンバーは
「全員……私と、同じ高校にいるの?」
◇ ◇ ◇
気付いたら、右手がメッセージを入力していた。
もしかしてあなた達は、水無瀬川学院の生徒なの? と。
途中まで入力してから、冷静になってメッセージを削除した。
……そもそも、私はここの全員の素性を知らない。更に言えば、集められた目的も、管理局とかいうアカウントの発したメッセージの真意も。
これがオカルトであれ、手の込んだいたずらであれ、組織的な犯罪であれ。
個人情報を明かすのは、明らかにまずいこと――インターネットの基本ではあるのだが――だと感じたのだ。
「………」
その後も、「4」と「7」の会話は続いていたが、取り留めのない世間話のようであった。時折「5」が会話に混ざっていたが、明らかに「4」「7」が喋りすぎだ。
「1」「2」は、最後までメッセージを発することはなかった。
私はホームボタンを押して、チャット画面を追いやった。通知は切ってある。
ホーム画面に見慣れないアイコンがあった。
インストールした覚えのないアイコン。デフォルメされた……これは、蛇、なのだろうか。マスコットのような可愛らしいアイコン。名前は――
「ベアトリーチェ……」
戦斗少女変身アプリ「ベアトリーチェ」
……響きだけを聞くと、まるで戦隊モノの玩具だ。いや、まるでどころか、玩具そのものだ。
戦いだの契約だの。普通の日常に似つかわしくない言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
――つまらない日常を、変えたくはありませんか?
最後のメッセージを、心のなかで反芻する。
確かに、日常は退屈だと思う。だからといって、それが嫌いというわけではない。
退屈ということは平和ということでもある。刺激のある日常は、夢想こそするが、それが実際に起きることを望んでいるわけではない。
平穏に生き、平穏に死ぬ。それで、私は構わない。
そう、思っていたはずなのに。
この、手の込んだいたずらのようなアプリに、ほんの少し。ほんの少しだけ、奇跡を期待して。
私は、人差し指でそのアイコンに触れた。
――君が、僕の契約相手になるのかな。
脳内に直接語りかけるような声。
まるで、子供向けのアトラクションの案内人のような。そんな声だと思った。
スマホの画面には、アイコンのイラストまんまの、デフォルメされた可愛らしい蛇のCGが、ぷるぷると震えていた。
――僕の名はリヴァイアサン。このアプリ「ベアトリーチェ」を使う、君のサポート用のAIだよ。
「AI?」
――そう。シェイドを狩る戦いをサポートする役目を持ったAIだよ。
「えっと……」
――この声は、君の脳内に直接送り込んでいる、という認識で間違いないよ。でも、君は普通に声に出して喋ってくれればいい。
「だとしたら、それって独り言喋ってるように見えるんじゃ……」
――今この部屋には君しかいないし、不都合はないでしょ? それに、同じ契約者同士ならば声は聞こえるよ。
契約者。
同じ高校に、あと六人。
このアプリが送り込まれ、そして今まさに、こうやってよくわからない存在と、よくわからない会話をしているとでも言うのだろうか?
――意外と動じないんだね、君。
「……そう」
確かに、驚くべき要素は多々ある。
正体不明のアプリがどうやってインストールされたのか。そもそもあのグループチャットは何なのか。脳内に直接語りかけるような技術は現代技術の枠内なのか。人工知能と言う割には随分と流暢に喋るではないかとか。
突っ込みどころが多すぎて、処理能力を超えた結果、私の脳が静かにオーバーヒートした結果、慌てず騒がず、流されているのだ。
――まあ、いいや。それで、このアプリを起動したということは、契約に了承したということでいいのかな?
「契約書もなければ、事前説明もないのに? まるで、詐欺の手法みたい」
――そうだね。勝手に有料サイトに登録するなんて、前時代的な詐欺だとは思うけど。
超常的存在の割には、現世の詐欺事情にも詳しいのか。
――でも、どれだけ長い契約書を一字一句細かく説明しようとも、君の選択は変わらなかったと思うよ。
「……どういうこと」
――君は退屈している。いいや……
――君は、妬んでいる。
その言葉を聞いた瞬間、心の奥底に閉じ込めていた何かが、ぞわり、と音を立てて逆立った。
「妬み……?」
思わず、声が震えた。
――そう。世の中には数多の成功者がいる。スポーツのスター、大人気のアイドル、売れっ子の作家、国を代表する指導者……
――君は、そのどれにもなれないと思っているから。取り立てて何もない、劣等種だと思っているから。この世界が、退屈なものだと感じているんだ。
「………」
――だが、それは人間にとって重要な感情。人間を人間たらしめる、本質的な要素だ。
――妬み僻み、怒り、欲望……一般には負の感情と呼ばれるこれらも、君たち人類種にとってはとても重要な感情なんだよ?
――人類の歴史は戦争の歴史。だが、その戦争はありとあらゆる技術に革新を齎し、現代の生活を支えている。楽をしたいという欲求が、文明進化の後押しをしたことも事実だ。
まるで、人間の心など簡単に見透かせるんだ、と言わんばかりに、次々と言葉を並べてくる。
人間の負の側面に触れながらも、むしろ自己を肯定するかのような論理の組み立て。
ああ。まさに、悪魔が人間を堕落させるための話の組み立て方ではないか。
――それに「嫉妬」という感情は、人類種の進化において大いなる意味を持っている。
――競争を生み出すんだよ。競争は発展を産み、進化を産み、革命を生み出す。そもそも、生産的行為の根源には、往々にして「嫉妬」は含まれているものだよ。
――自己承認欲求は傲慢さの為せる業。だが、これは「持てるもの」の業。
――君の背負う業は「持たざるもの」の業だ。
軽快な語り口調でありながら、語る内容は悪魔の囁きそのものだった。
理性で押し込めた心の奥の激情に息吹を与え、黒く揺らめく炎を燃え上がらせようとする、悪魔の囁きだ。
――君がベアトリーチェに求めたものは、その嫉妬を満たすに値する力だろう?
――歓ぶといい。このベアトリーチェには、君を満足させるに足るだけのスペックが備わっている。
悪魔は淡々と呟く。
――ただし、一つだけ、忠告しておくよ。
――ベアトリーチェのこと。そして、シェイドのことについて、あまり触れ回らないほうがいい。
――そう。この力は偉大な力だ。誰かに誇れる、自慢できる、君の願いを満たせる力だ。
――だが、その末路は悲惨なものだ。一時的な優越感には浸れるだろうけど、後で確実に後悔する。
――学園生活を穏やかに送りたいのであれば、ベアトリーチェの事は、必要以上に吹聴しないことだ。
――それに、嫉妬の炎を燻らせないためには、君には飢えを忘れてもらうわけには行かないのだから。
散々、好き勝手に心をかき乱して、蛇は画面から姿を消した。
◇ ◇ ◇
気がついたら床に就いていた。
畳み掛けるような超自然現象の連続で疲弊しきった脳には、夕食の味や、お風呂の暖かさの記憶など刻み込む隙間がなかった。
幸い、明日提出するような宿題はなかったし、特に用意しなければならないものもない、はず。
予習の一つでもしておいたほうがいいのだろうが、今この状況で、何かの情報が頭に入ってくるとは思えない。
必然、早めに寝てしまって、脳を整理したほうが合理的なのだ。と、自分に言い聞かせて、部屋の明かりを消す。
なんて、なんて質の悪いおとぎ話なのだろう。
だが、それでもあの契約を拒むことが出来ず、アプリを削除――できるのかは不明だが――しようとしなかったのは、私がそれを望んでいるからなのか?
平穏に飽いた私にやってきた、平穏を引き裂く契約。
違う。
平穏にしか生きることの出来ない私にやってきた、運命を変える力。
……だが、それらは本当に真実なのか? やはり、手の込んだ詐欺なのではないか?
力を与えると言い出して、ある時いきなり多額の請求が発生したりするのではないか?
「……ああ、もう」
ただでさえ疲れている脳が、更にカロリーを浪費していく。
何も考えないように努めても、その努力がまた脳を加熱させる。
布団の中で、何度も寝返りを繰り返す。眠気は、なかなかやってこなかった。
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