解読

「なにをなさっているんです?」

 上司である彼は、このところ、休憩時間になるたびに、小説を読んでいた。薄い本である。べらぼうに小さい活字で構成されているのでなければ、とうに読み終わっていておかしくはない。しかし、彼は小難しい顔で本をひらいては、休憩時間のたびに、ひらいた本のあいだに顔をうずめるようにして、読んでいる。たしか、視力は良いと自慢していたはずだ。「僕の視力は小学生のころから、2.0を維持しているんだ」と、子供みたいなことを言っていた。


「なにって、解いているんだよ」

 彼は本に顔をうずめるようにした状態のまま、気のない感じで答えた。読み解く、という意味だろうか。そんなに難しい本ではないはずだけれど。


「では、一応は読み終わったんですね?」

 そう訊くと、ハッとしたように顔を上げて、言った。

「勿論だよ、とうの昔に読み終わったよ」

 当然だ、といわんばかりの顔である。

「なにが、解らないんです?」

「なにもだよ」

「なにも?」

 彼はまた渋い顔を本に沈める。なにも、というのは信じがたいけれど、まあ、たしかに彼には苦手な方面ではあるだろう。


「なんだって急にそんなジャンルに手を伸ばしたんです?」

 数日前、その本を彼が鞄から出して机の上に置いたとき、私は内心驚いていた。読むといえばミステリーやらホラーやら、時には訳のわからない学術書なんか読んでいるような人だった。それが何を思い立ったものか、このような類に手を出すとは。なにかしら、彼に変化が起こっているのではなかろうかと、おかげでこのところ、落ち着かない。その表情の変化を見逃すまいと注視していると、彼は渋い顔をなお渋くして言った。


「急ではないよ、こないだ君にも見せただろう」

 私がこないだ彼に見せてもらった本とは、暗号解読の本だった。転置式だとか換字式だとかシーザーがどうとか、私が覚えているのはそれくらいだけれど、とにかく、それだった。


「あれとこの本になにか関係性が?」

「あるんだよ」

 眉間にしわを寄せて、彼は呟くけれど、何を言っているのだろう。

「暗号解読の本と、恋愛小説に」

 しかもこの本はごりごりの恋愛小説で、私なんかは読みながら体が痒くなるような随分な思いをした類の恋愛小説なのだ。しっかりと説明してもらわなくては、納得がいかない。


「隠されているらしいんだよ、この本のなかに」

「まさか」

 私はもうなんだか自分の顔色が悪くなっている気がした。

「そう、暗号だよ。恋愛小説と見せかけて、実はそれとは関係のない暗号が隠されているらしいんだ」

「らしい?」

 大真面目な顔の彼を、おそらくは既に蒼白いであろう顔で凝視している私の背中で、うへへっとおかしな音がした。振り返ると同僚の梶が作成したばかりの資料で顔を隠している。肩が揺れていた。


「梶くん、君、まさかと思うけど、僕を担いだのかい」

「いや、先輩もいい加減、ねえ」

 いい歳なんてとうに過ぎてるんだから、そろそろ免疫をつけないと。などと梶は涼しい顔で言う。

「ね、多田さん」

 笑顔で同意を求める同僚をどうしてやろうかと、笑顔を返しながら私は考える。

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