こばなし
@sho-ri
繭
時子さんは眼鏡をかけて本を読もうとして、「老眼だわ」と眼鏡を外すが、ふつう老眼だから老眼鏡をかけるのだろう。すると時子さんは「これはふつうの眼鏡よ」と忌々しそうに言う。それから本を読むのを止めて、たましいの話をした。
「物心ついたときが、たましいの入ったとき、というわけじゃないのよ。あなたのばあい、ずいぶんと遅かったわ」
時子さんはそう言って、溜息を吐くように煙草の煙を吐いた。そのとき、自分が同年代の子に比べて、いろいろと遅いのはその所為かもしれない、と思った。
たましい、か。私はもっと知りたくなって、大学でそういうことを勉強しようかな、と言った。すると時子さんは、「なにか実験でもやってみたいの」と訊いた。私がただ知りたいだけだと答えると、「だったら必要ないじゃない。知りたいだけなら自分で考えればいいことよ。お金を払ってまで教えてもらう必要がどこにあるの」と言う。
「でも、人の意見も聞けるし」
「馬鹿ね、なにか売ろうってんじゃないんでしょう、だったら、人の意見なんて聞くことないじゃない」
なるほど、と私は思った。私の知りたい意見は時子さんが持っている。しかもタダである。ラッキーに生まれついたな、と私は時々思う。
高校を卒業して3年、私は3人の男の人と付き合った。
「あなた、暦なの」時子さんは言う。
「仕方ないよ、習性だもん」
年の瀬に一年を振り返り、新年に向けて取捨選択を行う。というのが、父の教えである。幼いころからその選択を繰り返しさせられたおかげで、癖づいてしまったのだ。
一年を振り返るとき、付き合っている相手のことを考える。新年を迎えるにあたって、彼がいない生活を想像する。3回とも、平気だった。その人の不在に胸が締めつけられることはなかった。つまり、その人は私の人生に必要のない人である。という結論だ。
時子さんが言うに、私の恋愛人生はまだ始まっていないのだ。
「いいんじゃない」
始まったら、もう止められないもの。
恋愛について話すとき、時子さんは少し、悲しげだった。
恋愛感情と言うものはね、長い月日をかけて擦り減り、失くなってしまうものなのよ。だから、「いい恋愛をしなさい」と繰り返し、時子さんは言う。その度に、いい恋愛ってどんな恋愛?と抱く疑問をまだ一度も私は時子さんにぶつけたことがない。
私の恋愛は未だその段階にすら至っていないのだ。人が変わっても同じことが繰り返されること、冬になれば人肌が恋しくなること。私が知っているのはそれくらいで、きっとまだこれは恋愛とは呼べないのだ、と私は思う。時子さんの擦り減って失くなってしまった恋愛感情、それはつまり、愛というものかもしれなくて、だから、時子さんのそれを私は愛と呼んでいる。私は私の未恋愛な恋愛がいつか恋愛に至るということよりも、時子さんの失くした愛について興味がある。
時子さんは私の伯母だ。父の妹で、一つ違いだと言うけれど、ずいぶん時子さんが若く見えるのか、ずいぶん父が老けて見えるのか、小さい頃はよく解らなかった。今では、父の為ではなく、前者であることがはっきり解る。つまりは、時子さんはずいぶんいい歳なのだ。しかし、結婚をしたことはなく、子供もいない。
あいつは、ほんぽうだから。と父は時子さんのことを表現するが、まさに時子さんはほんぽうな人である。
ある日、食事に誘われる。その人は多分、おじさんだ。時子さんくらいの年齢か、時子さんより年下のおじさん。そう私は思っている。おじさんはコンビニの常連さんで、だいたい毎日2回来る。一か月くらい前からだ。朝はコーヒー、夜は弁当とコーヒーと煙草。お酒は買わない。コンビニのバイトが終わって珈琲店のバイトに入っていると、カラン、と扉が鳴って、おじさんが入ってきた。あ、と私が思ったら、おじさんも、あれ、という顔をした。それからおじさんと一日3回顔を合わせることになった。そして、誘われたのだった。
おじさんはおじさんだけれど、どことなくおじさんな感じがしなかった。なんとなく、時子さんみたいだと思った。おじさんはずいぶん背が高い。痩せているので、ひゅるっと縦に細長かった。細いけれども筋肉がついていて、力強そうな体つきをしている。背中が広い。顔は日本人にしては濃い顔をしている。目はきれいな二重で、唇はかわいかった。じっとおじさんの容姿を観察していると、おじさんはくすぐったそうに笑った。
「あられもない視線だね」
つづけておじさんは樹木の樹と言った。いつき。それがおじさんの名前だった。
「秋野です」
秋の野原。苗字みたいだけど、下の名前なんです。私がそう言うと、樹さんは「へぇ、かっこいいね」と優しい目をした。
「樹さんは若い女好きなんですか」
「いや、どちらかというと、僕は年上が好きだな」
私は思わず首を傾げた。けれど頭の隅で、僕、という樹さんの声が新鮮に響いていた。
「きみはいくつ?」
「21です」
「樹さんは?」
「42だよ」
「樹さんは、私とセックスがしたいんですか」
私は率直に訊いた。若い頃は感情から始まる、年を取るとセックスしたいかどうかから始まる。それが年齢による恋愛の変化だ。簡潔で、正直で、あたしは好きよ、と時子さんが言っていた。樹さんの年齢からすると、もう感情から始まる恋愛はとうに過ぎているはずである。
「いつも、そんなことを訊くの」
樹さんは驚いた顔で訊いた。
「誰にでもではないです」
よかった、と樹さんは言う。
「あんまり、言わないほうがいいような気がするよ」
「樹さんは、どうして私を誘ったんですか」
言葉を変えて訊くと、樹さんは少し迷ってから口をひらいた。
「きみと話してみたかったんだ」
「どうして」
また、樹さんは迷う。言いにくい理由なのだろうか。
「知っている人に、きみが似ているんだ。すごく」取ってつけたような理由だろ、と樹さんは照れくさそうに笑う。
「もっとも、その人の30代しか、僕は知らないんだけどね」
「じゃあ、9年後にわかるね」
「9年か」
「まだまだだけど」
「そうでもないよ。10年もあっという間だったし」
「10年て言うと、32歳から42歳、あっという間なの」
「きみの10年は、そんなことないのかな」
どうして、と訊くと、樹さんは左上を見て考え込む。それは思い出を探る仕草だ。
「男と女では時間の感じ方が違うのかもしれない、と、思ってさ」
「そうなのかな」
「女の人は何を考えてるのか、さっぱりだからね」
樹さんは伏し目がちになった。その顔が急に若い男の顔に見えて、少し近づいた気がした。
それから樹さんと私は時々ご飯を食べに行く。話題はもっぱら私にそっくりだという樹さんの元カノについてだ。話を聞くうちに、いつしかその女の人は私のなかで時子さんになっていった。本と映画が好きで、性格はニート。それから樹さんはこんなふうに言った。
「そうだなぁ、たとえば、10人が同じことを言うとするだろう、そうすると、じゃあそうじゃないんじゃない、って彼女は言う」
いよいよ時子さんである。聞けば聞くほど彼女は時子さんにそっくりだ。樹さんが話してくれることを、私は自分の知らない時子さんの話のようにして聞いていた。
樹さんは私のなかで、ちっともおじさんではなくなっていた。たぶん、私は少し、樹さんのことを好きになっている。彼の手先の動きが好きだ。たとえば、珈琲をかきまぜた後のスプーンを置くとき。大事なもののように優しく、丁寧に置かれるスプーン。もちろん、スプーンだけじゃない。樹さんの手は何もかもをそんなふうに扱う。きっと女の人に触れる時も、そうなんだろうと思った。優しく、丁寧に触れるのが容易に想像できた。
二人でよく行くお店は公園沿いにあった。いつも一番端の窓際の席に座る。公園の木々は紅葉して、風が吹くたびに乾いた葉が転がる。
きれいな人だった、と樹さんは窓越しに公園を眺めて呟いた。
「きれいなのに、性格はニート?」
「そう」
樹さんは顔をくしゃっとして笑う。似た人に一度も会ったことがない。きっとこれからもいないだろうな、と寂しそうな顔をする。
「私がなってあげるよ」
冗談で言ったけれど、樹さんは真面目な顔をした。
「秋ちゃんなら、なれるかも」
「ほんとにそう思う」
「思う思う。既に片鱗があるしね」
実は自信があった。だって、私には時子さんがいる。時子さんのようになれば、きっとずいぶん近づくと思う。そう思ってから、ふと私は気づいた。というより、思い出した。私は時子さんに似ているんだった。小さいころからずっと、今も言われる。親戚のおばちゃんなんか、「秋ちゃんは年をとっても今と変わらず美人なのは間違いないね、何と言ったって、生き証人がいるんだから」と、時子さんと私がどんなに似ているかを常々言われてきた。
「ねえ、樹さん、その人いくつ」
「えっと、僕より7歳上だったから、今は49だね」
時子さんと同じ歳。どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。時子さんが樹さんの想い人だ。ならば、樹さんは時子さんが失くした愛なのだ。
「どうして、その人と別れたの」
樹さんは俯き加減になった。後悔の顔。
「僕が逃げたから」
「逃げた?」
「別れてしばらくはね、捨てられたと思ってたんだ。でも、そうさせたのは僕だった」
なんだか大人の話だな、と思う。よくわからない。樹さんはつづけた。
「楽しければいいと思ってたんだよね。先のことなんて、何にも考えてなかった。9年も傍にいたのに」
「つまり、彼女は結婚したかったってこと?」
「いや、そんなことじゃない。うまく言えないけど、彼女はそういうことは考えてなかったと思う。ただ、先があるかないか。僕が考えなかったから、彼女はないと判断したんだろうね」
「でも、樹さんはずっと忘れられなかったんでしょう?10年も思っていられる人のこと、考えればよかったじゃない」
「考えたよ。別れてから1ヵ月して、彼女のところに行ったんだ。でも、もう居なかった。どこへ行ったのかも解らず、電話にも出ない。それが彼女の答えだ」
一度こうと決めたら駄目なんだ。そういう人だったからね。樹さんはそれきり黙り込んでしまった。次の日、一日休みだった私は、時子さんを訪ねた。時子さんの気持ちを探ってみなくてはと思った。勝手に樹さんに居所を知らせる訳にはいかない。
昼過ぎだと言うのに、時子さんはまだベッドの上にいた。普段は居間のソファかテラスで過ごすのが時子さん流なのに、珍しい。
「あら、ひさしぶりね」
声の調子はいつもと変わらず、時子さんらしい感じだった。けれど、顔色が悪い。もともと色白で、ほとんど日に当たらないから、病的な白さではある。近所の人なんかは時子さんのことを勝手に体の弱い人だと決めつけている。実際はとても健康な人だった。
「具合悪いの」
今日の時子さんは私から見ても体の弱い人に見えた。
「相変わらずの健康体よ。ちょっと怠いだけ」歳なのかしらねえ。なんて笑っているが、蒼白い。
「あなたこそ、あんまり気分良くはなさそうよ」
「そうかな」
「なぁに、スピード失恋でもしてきたの」
「得てもいないものを失うだなんて、無理だよ」
樹さんに会うまで、彼と会う時間は時子さんと過ごしていた時間だった。
「なんだ、とうとうあなたも恋愛人生に足を突っ込んだかと思ったのに」
それだけしゃべって時子さんは息切れした。
「お医者さん呼ぶ?」
「なによ、ご臨終なの、あたし」と言って、時子さんは悪戯な顔をする。
何か作ろうか、と言うと、食欲がないと言う。どうしたものかと思案していると、ふと、ベッド脇のチェストの上に置かれた財布が目についた。ずいぶん小汚い財布だ。この部屋には不似合いだった。それは時子さんに不似合いと言うことだ。私の視線に気づいた時子さんは、それを手に取る。
「すごいのよ、ずっと前に失くした財布なの」
「ずっと前って、どれくらい」
「19年くらい前」
時子さんがこの家に住みはじめたのは、たしか10年前だ。ということは、家のなかで失くしたわけではないのだろうか。
「当時住んでた家の近くのね、スーパーの駐車場で失くしたのよ」
「それがどうやってここに」
「さぁねえ、兄さんの所に送られてきたんだって」
ほら、と時子さんは財布のなかからポイントカードを取り出した。そこには実家の、つまりは私の家の住所が書かれていた。
「届けた人も良く届ける気になったね」
「これの所為かもね」と言って、時子さんはチェストの引き出しから一枚の写真を取り出した。ポラロイド写真だ。
「この人」
そこに移っているのは若い男の人だった。
「なによ、そんなに意外?」
それもあるが、私が驚いているのは、写真の人がほぼ間違いなく、樹さんだったからだ。やはり、樹さんの想い人は時子さんだったのである。
「この人、時子さんが失くした愛?」
「なによそれ、なんかの歌詞?」
時子さんの顔は笑っているが、目は笑っていない。悲しげだった。
「だって、恋愛感情は擦り減って失くなってしまうんでしょう」
時子さんは微かに首を傾げる。
「でも本当に失くなったのかな」
「秋?」
「時子さんのなかに、その想いはまだあるんじゃない?」
樹さんのなかにあるように。ずっと消えないで残っている。だから苦しい。きっと。時子さんも樹さんも。
「ね、秋」
時子さんは別の引き出しから何かを取り出した。白くて小さい。
「繭?」
「蚕の繭よ」
「かいこ」
「心のなかにね、こんなふうな繭があるとおもうの。あたしの繭は懐古の繭。ただ懐かしい思いが仕舞われてる」
「どういうこと」
「もう生きてはいないってことよ」
もう息づくことはない、思い出。ただ、消えることなく、大切に繭のなかに仕舞われている。懐かしむためだけに?
「そんなの嫌だな」なんだか、悲しい。
トン、と私の心臓のあたりに時子さんは指を当てた。
「あなたの繭はまだ平仮名かしらね。まだ、なににもなってない。やわらかで、真白い、未完成の繭」
素敵ね、と時子さんは微笑む。
「ねえ、時子さん、もし」
既に時子さんのなかで決心されたことなのに、訊かずにはおれない。
「もし、その人が現れて、今も時子さんのことを想っていると言ったら」ずっと想ってきたと言ったら、それでも変わらないのだろうか。
時子さんは手のひらの繭を見つめている。しばらくそうしていたが、写真のなかの樹さんに視線を移した。
「きっと、また一緒に居たくなるわね」
一拍置いて、時子さんはつづけた。
「だから、会いたくないわ」
きっぱりと、時子さんは言い切った。どうして、と訊きたかった。けれど、訊くべきじゃなかったし、訊いたところで私には解らないんだろう。もしかしたら、時子さん自身にも解らないのかもしれない。説明できない。それが恋愛なのだろうか。
「もし、あたしたちが一緒に居られる二人なら、どこかで偶然出会うんじゃないかしら」
人間は磁石だもの。そういって時子さんは笑った。
後日、樹さんにも同じ質問をしてみた。湯気を立てていたコーヒーがすっかり冷めてしまうまで、樹さんは身じろぎもしなかった。そして、「解らない」と呟いた。
「でも、僕たちがまだ終わっていないなら、いつか偶然会うんじゃないかな」
私は偶然を偶然でなくしてしまいたかった。涙が出そうだった。出ていたかもしれない。樹さんは「ありがとうね」と言って、優しく、丁寧に、私の頭を撫でた。
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