紫黒の段

 黒い木塀でできた迷路の町に住みはじめて早半年。区長さんが毎月様子を見にやってくる。化け猫の家と町内でも有名な空き家だったこの家に住人が欲しかった町長と区長さんは、念願かなったというのに心配の気は絶えないらしく、月に一度は無事を確認しに来るという訳である。緊張にこわばった顔で、しかし門から玄関先まで。区長さんは決して屋内に入ろうとはしない。梅雨の雨が蝙蝠傘のうえで可愛らしい音を奏でるのを聴きながら、湿度を含んだこの家は普段にも増しておどろおどろして見えるのだろうと、頭の端で思う。玄関越しに挨拶をすると、区長さんの額にあるしわが深くなった。戸を閉めてほしいのだろうな、と思いながら僕は気づかぬふりで戸を開け放ったまま、区長さんに相対する。化け猫が住むと噂されていた家は今や、化け猫の家に住む僕の噂の方が上回っているようだ。


「ねえ、楓先生」

 葵は茶の間から縁側を眺めている。七歳になったばかりの少年は、体が弱いため、許されている外出先は少ない。この家はその数少ないうちの一つである。少年の両親はある意味、疎い人たちで、噂も化け猫も気にしない。平気で隣の家に住んでいるくらいだ。葵に至っては、誰か越してくるらしいと解ったときから、僕の登場を心待ちにしていたらしい。挨拶に伺おうとした矢先、彼は庭に忍び込んでいた。

 少年の見つめている先は、少し前に雌の老猫が死んだ場所である。化け猫の噂の元は詩魚という名の年老いた妖猫だった。死んだ後もどこへも行かないと言っていた彼女は、姿を現すことこそないが、どうやら本当にそこに居るのかもしれない。葵はそういう性質の少年で、時折、おかしなものを拾ってきたりする。


「ここは化け猫の家だから、忍びこんではいけないって、いつも菖蒲あやめ姉さんが言っていたけど、きっとほんとうだね」

「どうして」

「だって紫黒しこくもここには入りたがらないんだ」

 紫黒というのは彼の飼っている雄猫の名である。艶やかな黒猫で非常に目が利く。もっとも、紫黒と呼ぶのは葵だけで、家族は柊と呼ぶ。それは葵と共に産まれてくるはずだった双子の片割れの名であるらしい。あら、ひぃちゃん、なんて母さんの呼ぶのが嫌なんだ、と葵は言う。


「それで紫黒はどうするの」

 紫黒は葵のボディガードを気取っているものか、葵が敷地内から出ようとすると、テレポートでもするかの如く少年の足元に現れる。

「きっと家に戻るんだよ」

 けれども僕が帰るときには門の外に待っているから、ふしぎなんだ。そういって葵は目を大きくした。葵はいつも玄関を使わない。門をくぐった後、庭を通って縁側から上がる。帰りも同じ経路だ。かすかな音に紫黒が耳をそばだてている姿を想像すれば、微笑ましい思いもするが、それはつまり僕がまだ受け入れられていないことを意味してもいる。初めて葵の家を訪れたとき、紫黒にじっくりと値踏みされたのを思い出す。


「そうだ」

 葵はズボンのポケットをゴソゴソとやってから、小さな手をひらいて見せた。手のひらにあるのは鳥を象った木片である。黒い木塀と同じ黒色。見覚えのある鳥だ。

「この庭のところの塀だよ。誰かが絵を描いたのかと思って、触ったら外れたんだ」

 木塀を見ると確かにあの日見た「通り道」は、鳥のカタチにくりぬかれているけれど、それが誰の目にも同じように見えるのか、残念ながら僕には判断できない。葵もまた僕と同じ類なのだ。


「あら、犯人はあなたでしたか」

 不意に聞こえた声は聞き覚えのある声だった。凛とした少女の声。

詩魚しお

「只今帰りました、楓さん」

 鮮やかな紅い着物を纏って、詩魚は当たり前のようにそんなことを言う。

「帰ったって、どこかへ行っていたのかい」

 詩魚は伏し目がちになって、少しばかり探し物を、と消え入りそうな声で言った。それから葵の手にある鳥の木片を見つめる。

「元に戻した方がよろしいですよ、鳥姫とりひめは随分お怒りのご様子でしたから」

「とりひめ?」

 葵が首を傾げる。その目は真っ直ぐに詩魚を見ている。

「それは沢山鳥が死んだときにだけ、外される蓋ですから」

「蓋なのかい」

「ええ、渋滞を起こしてしまいますでしょう?」

 鳥のたましいが、ということらしい。

「ねえ、お姉さん、とりひめってなに」

「鳥姫は紫陽花の姫ですよ。水色の紫陽花に、この時分には座っていらっしゃるの」

 随分小さい姫であるらしい。戻さなければどうなるの、と葵が訊く。気に入ったのだろう。詩魚は微笑んで「無下に鳥が死ぬんですよ」と言った。とりあえず、葵を説き伏せて蓋を戻すことになった。藍に白い花を散りばめた唐傘を葵にさしかけると、唐傘は凛とした雨音を奏でた。小さく細い指で葵は鳥のカタチをした蓋を、同じカタチの穴へと近づける。蓋は吸いつくように嵌まった。けれども、僕の目には先程と変わらなく見える。

「不用心に蓋が外されていると、鳥の命を吸ってしまうのですよ」

 詩魚が説明するが、葵は名残惜しそうに鳥のカタチを見つめている。そこへ不意に、隣家から紫黒の鳴き声が聞こえてきた。


「まぁ、随分と口の悪い子でしたのね、あなた、葵くんというの、帰って来いと怒っていますよ」

 あの子はずっと私のことを警戒しているから、仕方がありませんね。と言って詩魚はコトコトと笑う。

「紫黒と会ったことがあるの」

「ええ、何度か」

 母親のような慈悲深い笑みを詩魚は隣家に向けた。途端に紫黒の声は止むが、彼の鋭い視線が雨の間を縫ってこちらに注がれているのが肌に感じられた。

「紫黒のことばがわかるの」

 葵は目を煌めかせて詩魚を見上げる。

「ええ、勿論」

「あなたを怖がっている?」

「大抵の猫たちは私を恐れますよ」

「じゃあ、怖がることないって、紫黒に言っておくよ」

 門まで出ると、そこにはしっかりと紫黒の姿があった。彼は警戒を解く気はないらしく、若干距離を取っていたが、葵の足元に吸いつくようにして歩き出した。後姿を見送っていると、門をくぐる前に紫黒が僕を見た。その目は最初に値踏みしたときよりも疑い深く、厳しい。

「彼はまだしばらく、訪ねてきそうにはないね」

 あら、と詩魚は小首をかしげる。艶やかな黒髪が揺れるのを見て、僕は疑問を口にする。

「黒髪なんだね」

 あの日見た彼女は純白の猫だった。詩魚はにこりと微笑んで、「着物に合わせたんですけど、おかしいですか」と、一瞬にしてその髪を白くした。どちらも似合っているよと言うと、少女は嬉しそうに髪先を触る。僕は彼女の死が、人と同じような意味の死であるのか、ぼんやりと考える。

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鳥のカタチに切り取られている、夜が何かをあたためる @sho-ri

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