鳥のカタチに切り取られている、夜が何かをあたためる

@sho-ri

妖猫の段

 ある時、雌の老猫に出会った。老いてもまだ美しい猫は、若いころはさぞかし人目を惹いたと思われる。彼女は迷路町の空き家に居た。

 この界隈は黒い木塀に挟まれた道がつらつらと目印なくつづく、家屋も古い木造屋ばかりで、慣れぬものは必ずと言って迷うのが迷路町と呼ばれる所以である。町長は町の景観と保全に注力していて、空き家が出るとすぐさま引き取り手を見つけるべく、町づくりの一貫としてあの手この手を使うのだと区長さんが褒めていた。そんな町長の頭を長年に渡り悩ませていたのが、この空き家である。あの手この手を使ってもまだ見つからない。そこで僕が名乗りを上げたというイキサツである。

 僕の歳と同じ年数の空き家歴を持つ家は、造りがしっかりしているらしく、台風が来ても持ちそうな塩梅である。三十年越しの空き家を前に腕組みをして黙と立ち竦む僕の後ろで、町長も区長さんもそわそわした。引き取り手がなかったのには勿論、理由がある。それを彼らは黙っていた。実のところ、僕は端からそれを知っていたが、知らぬふりを決めていた。どこの町でも一軒はある幽霊屋敷の類。ことにこの家は化け猫が住むとまことしやかに囁かれていたのである。


 その日は改修の下見をするため、屋内を見て回っていた。そこへ雌の老猫である。成程、これが噂の主かと僕はすぐさま合点した。老猫で雌ときて更に美しいとなれば、如何にも化け猫らしいではないか。それで彼女がその猫の口から人間の言葉を放った瞬間も、僕はさほど驚かなかった。

 死が目前に迫っているのだろう、随分と弱っている。彼女の美しさのなかで際立って美しい瞳は、山の向こうに流れていく雲のその先までを見晴るかすよう。彼女の発した声は瞳によく似合う、凛とした響きを持っていた。彼女は訊いた。強烈な思いを抱いた恋をしたことがあるか、それを思い出せるかと。

「君はあるのかい」

 すると彼女はゆっくりと目を伏せた。

「本能に逆らう類の恋でした」

 それから彼女は、私は一族の最後の雌だったと言い、皆が自分に純潔の子を産むことを望んでいたこと、三十年前にこの家で失った恋について、訥々と話し出した。

 彼女は名をシオと名乗った。詩に魚と書いて、詩魚。彼女は人の姿で母親と暮らしていたのだという。


「初めて巽さんにお会いしたのは、私がまだ幼い時でした。私はずっとあの人を覚えていたけれど、巽さんが再び訪れたのはお母さまが死んだ後のこと。小百合伯母さまのたましいが私のところへ誘ってくだすったの。伯母さまは人間でしたけど、お母さまのお友達で、初めに巽さんがこの家に来たとき、あの人は伯母さまの後をついてきたようでした。きっと伯母さまが気がかりでこの世に残っていらしたのね。お母さまはきっと、あの時から私のことを諦めておしまいになったのでしょう。お母さまのように沢山の純潔を残すこと。ご自分が雄しか産めなかったことで、心底では私に期待していた筈なのに。伯母さまの悲しみをよく解っていらしたのね。二人は本当に仲の良い友人でしたから。子供のできなかった伯母さまは巽さんをわが子のように思っていらしたのよ。でも文於兄さまは今でも巽さんのことを恨んでいるの。一族を終焉させた元凶なのだから死人でなければ末代まで祟ってやるところだ、って。けれどね、兄さまは伯母さまのこと、好いていたのよ。伯母さまが訪ねてくるのを厭わなかったもの。伯母さまが死んでしまわれたとき、やはり人間は良くないものだ、と兄さまはおっしゃって、あの言葉の意味が私、最近ようやく解ってきたような気がするんです。人の言葉とは難しいものですね。あなた、お名前は?」

「楓」

「楓さんはきっと、巽さんのような人でしょうね。ほら、あれが見えるでしょう」

 彼女は庭を示す。黒い木塀に鳥のカタチの穴が開いている。そこから光る鳥が飛び出して、羽ばたいた。

「あれは?」

「鳥のたましい、あすこは通り道なのよ。人間のたましいも、本当はあんなふうに飛んでいくものかしら。巽さんはとうとう飛んで行ってしまったのかしら。もう随分戻らない。ねえ、楓さん、私もっと早く生まれたかったわ。長く生きられなくてもいいから、もっと早く、あの人が生きているときに生まれていたら、きっとあの人を死なせなかった」

「君は、死んだらどこかへ行くのかい」

「いいえ、楓さん、私たちはどこへも行かないのよ、ずっと居るの」

 詩魚の声は小さくなっていき、彼女は目を閉じる。光が失われても、どうやら彼女はずっとこの家にいるものらしい。

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