スカボローフェア

三角海域

スカボローフェア

 ずいぶん昔のことだ。

 夕暮れ、図書室、冬の面影を感じる秋の風。

 そこに交じる、きれいな歌声。

 図書室の奥。テスト前に使えるようにともうけられた勉強スペース。そこに彼女はいた。小さな歌声を響かせて。たまたま授業に使った書物を返しにこなければ、彼女を見つけることもなかったろう。

 窓の外をぼんやり見つめながら歌う横顔。とても綺麗な声だった。

 澄んだソプラノというのは、こういうことを指すのだろう。あの時一番最初に思ったのはそんなことだった。

 歌声に聞き惚れ、僕はその場で立ちすくんでしまった。そんな僕に気が付いたのか、歌声の主はこちらをちらりと見て、笑った。

 とても綺麗な人だった。

 そうして、また窓の外を見つめながら、歌を歌う。聞き覚えのある歌だった。確か、父が聞いていたような気がする。

 なんという歌なんですか? と訊けばよかったのかもしれない。でも、彼女は不思議な神々しさを放っていて、話しかけるのははばかられた。単純に、僕に勇気がなかっただけなのかもしれないけれど。

 目当ての本を借り、僕は図書室を後にした。

 名前や学年くらい訊いておけばよかったかなと、後悔したのを覚えている。

 でも、同じ学校なのだし、また会えるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、先ほど聞いたばかりのうろ覚えの歌を口ずさみながら、その場を後にした。

 ずいぶん昔のことだ。それでも、時折思い出すことがある。

 夕暮れ、図書室、歌を歌う少女。

 あの歌がスカボローフェアという曲だというのを、帰宅したあと父に聞いた。僕が知っていたのは、サイモン&ガーファンクルという音楽ユニットが歌っており、父がそのアルバム好んで聞いていたからだった。元はイギリスのバラードらしい。

 話のネタができた。そんな風に思ったのを覚えている。今度会ったら、それをネタに話しかけてみよう。

 だが、それは叶うことがなかった。

 学校中探しても、彼女の姿はどこにもなかった。タイの色から上級生であることは分かっていたのだけど、その姿を見つけることはできない。

 そんな無意味な日々を過ごしていたある時。彼女を初めて、最初で最後といった方がいいのだろうか。ともかく、彼女が座っていたあの席で、僕はあの時の彼女と同じように歌を歌った。もちろん、スカボローフェアを。

 父に曲が収録されているアルバムを借り、何度も聞いて覚えたのだ。

 季節は動き、もうあの時のような柔らかい橙色の夕日は見えず、乾いた空気と冬の冷たい風の中に赤々とした夕日が浮かんでいる。

「稲見さんの知り合い?」

 急に話しかけられ、顔をそちらに向けると、司書教諭が立っていた。

「稲見さん、よくそこの席で歌ってたから。注意しようかと思ったんだけど、奥のほうに座っていたから声もほとんど聞こえないし、なにより、あの子綺麗な声をしてて、むしろ聞き惚れちゃうくらいだったから」

 稲見。稲見さんというのか。僕はその時、初めて彼女の姓を知った。今までかけた時間が馬鹿らしくなるほど簡単に。

「転校してからしばらく経つけど、元気にしているのかしら」

 二つ目の事実もまた、唐突に知ることができた。彼女はもうこの学校にはいない。探しても見つかるはずはないのだ。いや、探し始めた当初はまだいたのだろう。上級生のクラスを片っ端からまわり、尋ねればよかったのかもしれない。だが、いまさらそれを悔やんだところでどうなるというのだ。

「あの子、将来は歌手になりたいって言ってたのよ」

 司書教諭は、窓の外を見つめながら言った。

「元気でやってるのかしら」

 僕もつられて窓の外を見る。開け放たれていた窓から、強い風が吹き込む。

 頬がぴりっとするような、冷たい風だった。

 もう、冬なのだ。

 その後、僕はなんとなくで学校生活を過ごし、専門学校に進んだ後テレビCMの企画制作会社に就職した。

 ずいぶん昔のことだ。

 そんな昔のことに、いまだ僕は縛られていた。



 季節は十一月。立冬を迎え、暦の上では冬。

 だが、ぞくに言う小春日和というやつで、日中は過ごしやすかった。

 カメラをセッティングしながら、欠伸をひとつ。時刻は午前四時。周りはまだ暗い。

「寒いっすね」

 一緒にカメラをセッティングしている後輩が言う。そう、小春日和とは言うものの、それは日中の話。日が沈めば寒い。

「日の出って六時くらいですよね? どうしてこんなに早く待機しなくちゃいけないんですか?」

「こういう画は一瞬の勝負なんだ。最高の瞬間をとらえることができるのはそれこそ数秒程度。その数秒を確実に撮るためにこうして準備するんだよ」

 後輩は「きついっすね」と肩を落としながら言った。そういうものだよ、映像プロダクションの仕事はと笑って言い、作業に戻る。

 吐き出す息が白い。高台ということもあるのか、より寒く感じた。

 三脚の脚元を楔でとめ、しっかり固定されていることを確認する。そうして、カメラを三脚の上にのせ、折り畳み式の椅子を置き、座る。身体を寄せ、覗き込んでみる。求められた画を撮るためのポジション。今はまだ暗いが、日が昇れば撮りたい画になるのはすでに確認済みだ。

 カメラのセッティングが終わり、並んで椅子に腰かけていると、後輩が質問をしてきた。

「先輩はどうしてこの仕事を選んだんですか?」

 こういう質問をする時というのは、大体は仕事に不満を抱えている時だ。この仕事に身を置いてから、この質問をポジティブな意味でされたことはなかった。

「なんとなく、かな」

 そうして、僕の答えもいつもきまっている。

「なんとなく?」

 後輩が怪訝な顔をして僕を見る。真面目に答えていないと思っているのかもしれない。

「そう、なんとなく。進路を決めるとき、専門学校で映像について学ぼうと思って、その後は流れでって感じかな」

 嘘ではない。実際、高校にいた時は興味のないジャンルだった。

「つらくないんですか?」

 後輩が続ける。

「つらいよ。朝早く行動して、夜遅くに帰るなんてのは当たり前。帰れない日もかなり多い。責任の重さの割にもらえるお金は少ない」

 じゃあ、なんでこの仕事続けてるんですか? と後輩が問う。

「探している人がいるんだ」

「探してる人?」

「そう」

「え? だったらほかに選びようがあったんじゃ……」

 その通り。自分でもそう思う。だけれど、なぜかこれが一番の近道だと思えたのだ。

「その人は、こうしてカメラ越しに探すのが一番な気がしてね」

 後輩は意味が分からないといった様子だ。

 夕暮れ、図書室、晩秋の綺麗な夕焼け、澄んだソプラノ、スカボローフェア。

 僕の中の彼女の面影は、そんな美しい画の中にある。彼女を探しているのか、あの父系を求めているのか、時々わからなくなる時もあるけれど、不思議な確信があるのは今でも変わらない。

 いつか、見つかるという確信だけは。



 後輩が仮眠をとるなか、僕はぼんやりと空を見つめていた。夜と朝の間。明け方の時間。

 空気が少しずつ変わっていくのを感じられるこの時間が嫌いではなかった。早起きはいまだになれないけれど、あわただしくカメラをセットし、温かいコーヒーを飲み、こうして明け方の空を見る。少しだけ、心が洗われる。

 稲見。結局、下の名は分からなかった。司書教諭に訊けばよかったのだろうが、知り合いだと思って話しかけられ、僕もなんとなくその流れにのってしまったこともあり、訊きにくくなってしまったのだ。

 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。

「羊の角、革の鎌、それから……」

 浅い眠りが頭をぼやけさせる。僕はアラームを一時間後にセットして、眠りについた。



 アラームの音に目を覚まし、起きる気配のない後輩の肩を揺さぶる。

「おはようございます」

 いまだ覚醒せずという感じで言う後輩にコーヒーを差し出す。持参したポットのコーヒーはまだ温かい。

「そろそろ日の出ですか」

 目が覚めてきたのか、後輩は周りを見ながら言う。

 ここにきた当初から空気がだいぶ変わっていた。風は暖かさを増し、鳥の鳴き声も聞こえる。空も白みがかった青に変わっている。

「あと三十分くらいですね」

 そう言う後輩の声には緊張が滲んでいた。

「準備しよう」

 操作をするのは僕。後輩は予期せぬトラブルがあったときのサポート係だが、実際の仕事を見せて覚えさせるというのが一番の目的だ。

 ルーペを覗き、日の出を待つ。

 白みがかった青がその濃さを増していく。

 いまだ。

 シャッターを押し、カメラを回す。

 日がゆっくりと昇り始める。

 朝の青を染め上げ、淡い明け方の空は、早朝の青空へと転じていく。

 カメラはぶれずに、じっとのぼりゆく太陽をとらえている。

光が周りを照らしはじめる。柔らかい光。

少し、あの時の夕日に似ているように感じた。

「よし」

 完璧、かどうかは上司たちの反応をみなければわからないが、少なくとも自分では納得のいくものが撮れた。

 カメラから身体を離し、大きく息を吐く。

「先輩はこの仕事向いてると思いますよ」

 唐突に後輩が言った。

「だって、先輩、今すごく楽しそうです」



 あの撮影から数か月後、後輩は会社を辞めた。最後の挨拶の際、僕に「ありがとうございました」と言った彼の表情はとても明るかった。

「あの時」

 挨拶を済ませ、場を後にしようとしていた後輩を呼び止めた。

「僕はあの時、どんな顔をしていた?」

 そう問うと、後輩は優しく微笑み、「先輩が言ったことは間違ってなかったんじゃないかって思える。そんな顔です。探している人、見つかるといいですね」そう言って、もう一度頭を下げると、後輩は会社を去っていった。


 後輩が会社を去ってから数か月。変わらぬ日々を過ごしていたある日、上司に呼び出された。ほめられるようなことも怒られるようなこともしていない(はず)なので、なんのための呼び出しなのかと少し心配になったが、会議室に入り、上司の話を聞いていると、怒られた方がマシともいえる提案をされた。

「地方のPR映画?」

「ああ。ウチに依頼がきていてね。だが、今主要なメンバーはみな撮影に追われている。そこで、君にこの企画を担当してもらいたい。プロデューサーにはもう話をつけてあるから。どうだろう。やってくれないか?」

 プロデューサーに話をつけているのなら、断るなんて選択肢はないではないかと内心思いつつ、僕はその申し出をうけた。

 渡された企画意図やこうしてほしいという注文などをまとめた資料を受け取り、デスクに戻る。

 自然をアピールしつつ、アート映画のような映像に誰しもが楽しめるエンタメ作品。それがクライアントの願いらしい。無茶苦茶だ。

 資料と睨めっこしているとだんだん頭痛がしてきた。外の空気でも吸って落ち着こうと、会社の外へ。構想を練ってくると言ったら、許可はすぐに出た。

 会社から少し離れたファミレスに入り、コーヒーとサンドイッチを注文する。運ばれてきたそれらを口に運ぶと、少し頭がさえてきた。

 手帳を取り出し、あれこれと考えてはみるものの。どれもしっくりこない。携帯でその地方を画像検索してみる。広大な畑のある田舎風景。思いつくイメージはどれも使い古されたものばかりで、手帳にイメージを書き出してみると、それはPR映画というより旅番組のようなものになってしまった。

 どん詰まり。まったく浮かんでこない。

 フェミレスを出て、駅の方まで歩く。

 昼頃でも町は混雑していて落ち着きがない。

 僕はホームのベンチに座り、かるく首を回しながら息を吐いた。

「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」

 なんとなく口にするのは、あの時の歌。

 羊の角、革の鎌、そして……。

「ヒースのロープでまとめる」

 不意に声がした。僕に隣に座っていた女性が発した声。いや、歌。

 まさか、まさか……。

「稲見……」

 その名を呼ぶ。だが、隣に座る女性は困惑した様子で「あ、すいません、突然」と恥ずかしそうにあやまるだけだった。

 稲見ではない。一目で分かった。

 彼女は、見るからに外国人だったからだ。

「懐かしい歌が聞こえてきたから、つい」

 スカボローフェアを懐かしむということは。

「イギリスの方ですか?」

「はい」

 流暢な日本語を話す。日本での暮らしが長いのだろう。

「不思議な歌ですよね」

 なぜか話を切り上げることをせず、僕はつづけた。

「そうですね。でも、本当は単純なんだと思います」

「単純?」

「ええ。もちろん、示唆に富んだ歌ですけど、もっと単純な恋の歌でもあると思うんです。無理難題を言い合ってじゃれあう恋人たちのラブソングのような。歌われているのはそうした感情ですから。今では反戦歌としてのイメージが強くなってますけどね」

 女性は歌の一節を口ずさむ。

「ヒースは荒地という意味です。でも、その人や動物を拒絶するような場所にはエリカ属の植物が生え、荒地に舞う砂や埃を抑えています。ジャノメエリカなんかがそうですね。その花のことも、荒地と同じくヒースと呼ぶんです。荒地も、そこに咲いて砂や埃を抑える花も同じ呼び方。呪われた土地のような言い方をされているヒースですけど、なんだかロマンチックに感じてしまうんですよね」

そう言って、女性は笑った。

荒地、花。あの時の風景、夕暮れ、図書室、晩秋の風と夕焼け、そして。

「スカボローフェア……」

 イメージが、ふっとわいてきた。

「ありがとうございます」

 僕は女性に礼を言い、ちょうどやってきた電車に飛び乗った。

 手帳を広げ、車内でイメージを書き込んでいく。

 あやうく降りる駅を見過ごすほど集中していた。会社に戻り、パソコンを開いてイメージをまとめていく。

 のどかな風景。晩秋の小春日和の中、ひとりの少年が自転車で駆けている。

 畑のそばを駆け抜け、学校へ向かう。

 校庭の中に自転車を滑り込ませ、駐輪場へ自転車を引いているとき、どこからか歌が聞こえてくる。それがきになりつつも、少年は校舎の中へ入っていく。

 補習か、部活か何かだろうか。ともかく、夕暮れまで少年は学校で過ごす。

 そうして、自転車を取りに行った時、またあの歌が聞こえてくる。

 ずっと歌い続けていたのか? 少年はきになり、その歌が聞こえてくる場所を探す。

 どうやら、歌は図書室から聞こえてくるらしい。

 戸を開け、少年は図書室へ。

 そこで、少年は一人の少女と出会う。

 少女の名は。

 そこで指がとまった。ふっと笑みが漏れる。

 少女の名は、稲見エリカ。



 企画書は無事通った。

 というより、思った以上にウケがよく、がっつり脚本にも絡むことになった。

 自分の妄想の類が形になるというのは気恥ずかしい。書いている時はそんなこと気にならなかったのだが、落ち着いてみると赤面ものである。

 脚本作業もかなり進み、役者のオーディションも開催された。それにも誘われたが、辞退した。僕の中の稲見エリカは、あの時の彼女だけなのだ。

 広大な荒地がある。そこに、エリカ属の植物が砂や埃を風と共にうけながら揺れている。

 そこに聞こえてくるスカボローフェア。

 そこには、彼女が立っている。

 遠い遠い、僕の思い出。

 一度しか見たことのない、僕のあこがれの人。

 ずいぶん昔のことだ。

 そして、僕にとっては「今」の出来事でもある。

 今もこうして、彼女への憧れは変わらず存在しているのだから。

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