第九回 俺、徳河家康!

 美しい女。

 築山こと瀬名を見て、俺はそう思った。

 美しい。だが、それだけだ。心は、面白いほど動かなかった。

 それは、俺が童貞を捨てたからだけではなく、瀬名のその後を知っているからではなく、俺が率いる武士団が、とても大切に思えてきたからであろう。

 瀬名が、人質交換によって岡崎に戻っていた。

 瀬名の横には、二人の子。四歳の竹千代と三歳の亀姫。竹千代は、後の信康である。

 俺は二人の子を抱け寄せたが、我が子という感情は毛ほどにも湧かなかった。

(瀬名と契ったのは、俺ではないのだから無理もないな)

 一方、瀬名は俺の顔を見るなり、今川を裏切った事と、織田と結んだ事をなじった。

 俺は本多重次に二人を任せると、瀬名を岡崎城の一室に招いた。

 瀬名はヒステリーに駆られていた。だが無理もない。俺の行動で、実父が腹を切ったのだ。恨むべきは、腹を切らせた今川氏真だろうが、そう思えないのが、この女の限界なのだ。

 俺は苦笑して、岡崎城外に御殿を与える事を告げた。

「おことには、もう会う事もあるまい」

 瀬名は絶叫を挙げたが、俺は無視した。

 瀬名を岡崎に呼べば、後は勝手に滅びへと歩んでくれる。

 哀しい女だ。だが、もう俺とこの家には、必要のない女である。




 俺は、元康から家康へと改名した。

 完全に今川と決別したの事への意思表示だった。瀬名は築山御殿で発狂したように怒り狂っているらしいが、俺は無視を続けた。

 俺を恨む瀬名に二人の子を預ける事を、酒井忠次が危惧して引き離すように進言したが、俺はそれを取り上げなかった。

 もしここで引き離せば、信康のイベントがどうなるか判らない。瀬名が俺に抱く憎しみを子守歌にして育ったからこそ、信康はああした最後を遂げたかもしれないのだ。

「殿、準備が整いました」

 夜。俺の居室に、本多正信が報告に現れた。

「一向宗が起つか」

酒井正親さかい まさちか菅沼定顕すがぬま さだあきには汚れ役になってもらいましたが」

 正親には、賊徒追討の名目で本願寺教団の拠点の一つである本證寺に乱入して荒らしまわってもらい、定顕にはこれも拠点の上宮寺付近に、まるで挑発するように砦を築かせたのだ。

「殿の手勢の中からも、半数とはいきませぬが、かなりの数が参加しております」

「ほほう」

「渡辺守綱や蜂屋貞次、夏目吉信らは既に一向宗の中枢に加わっております。おそらく指揮に於いては重要な役目を負わされるでしょう。ですが、内藤清長ないとう きよなが酒井忠尚さかい たななおなど本気で参加する者も出ております」

「まぁ、それは仕方あるまい」

 吉良義昭を筆頭に、松平昌久、松平忠正の加担も確認されたそうだ。

「殿、私もこれより参加いたします」

「お前もか?」

「ええ。戦にはどうせ役に立ちませんし、それよりあちら側の内部で働いた方が、殿の有利に運ぶかと思います。その為に、私は一向宗に帰依した振りをしておりました」

「そこまでするのか、お前は」

「殿は武者として前途を断たれた私に、生きる希望を与えて下さいましたので」

 と、正信は照れを隠すように笑った。

「死ぬではないぞ」

「……」




 三河一向一揆が勃発した。

 その勢いは、想像以上の猛烈さだった。

 一揆と言えば、百姓が竹槍を持ってというイメージがあるが、この時代は違う。百姓は兵士でもあるのだ。つまり、相手はプロだった。

 開戦当初、俺は出陣をせずに家臣に任せた。すると松平軍は一揆軍の猛攻を受け、岡崎城へずるずると押された。

「よし。忠次、家成。儂が出るぞ」

 俺は鞍上に身を移し、〔厭離穢土欣求浄土〕の馬印を掲げた。

 それを見た一揆軍が、算を乱して後退していく。内部からの情報によれば、俺と戦いたくないという者もいるらしいが、一揆軍に加わった家臣が、そう指揮しているそうだった。

 こうした押し合いは暫く続き、捕らえた者を俺は尽く許した。

 そうした恩赦が、一揆軍の士気を大いに揺らがせた。渡辺守綱や蜂屋貞次、夏目吉信も順に降伏し、それに釣られるようにして、その他の者も従った。そして頑強に俺に反抗した松平忠正も、遂に帰順と忠誠を申し出た。そうすると、一揆軍の崩壊はあっけないもので、百姓も武器を捨て畑へと次々に帰った。

 しかし俺は、無条件で寛大ではなかった。内藤清長は蟄居、松平昌久は所領没収の上、放逐。逃亡した吉良義昭・酒井忠尚には追討を発した。許さない所は、必ず決める。それが肝要だと、忠吉から教えられたのだ。

 そうして三河一向一揆は収束し、俺は三河平定を完成に近付けた。しかし、第一の功労者である正信は帰還しなかった。

「まさか、死んだのではあるまいな!」

 俺は帰順した者にも聞いたが、誰も正信の生死は知らず、その行方はようとして知れなかった。




 そして、永禄九年。

 三河支配を完成した俺は、朝廷から従五位下三河守の叙任を受けた。

 そして、いよいよ改姓イベントである。

「これより、儂は松平から徳川へと改姓いたす。つまり、これより徳川三河守家康じゃ!」

 俺は家臣団を前にして、その字が記された紙を掲げた。

 ドヤ顔である。決まった。そう思った。しかし、鳥居忠吉が、そっと手を挙げた。

「殿。徳川もよろしゅうございますが、これから更に飛躍する為に、〔川〕よりも大きな〔河〕とすべきでござる」

「え?」

「川を河となさりませ」

「いや、徳河って変だろう、常識的に考えて」

 すると、石川数正がおもむろに筆を取り、

〔徳河三河守家康〕

 と、書いた。

「殿、意外と悪くないですぞ」

「ふむ。川より大河の河の方が、雄大でいいな」

「忠次、お前まで言うか!」

 そう言うと、方々から賛成の声が聞こえてくる。

「殿は器が大きいですからな。徳河がよろしゅうござる」

「ちょ、作左!」

 俺は縋るように、仏高力こと高力清長に訊いた。こいつならば、俺の意を汲んで皆を納得させてくれる。

「私も徳河がよろしいかと。字面じづら的に」

「……」

 それから他の家臣も忠吉案に賛成し、それに気圧された俺は同意してしまった。

 徳河家康の誕生。

(歴史を変えてしまった……)

 俺は、それから三日間も寝込んでしまった。

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