第七回 俺、見出す!
木下藤吉郎秀吉。
猿と鼠を掛け合わせたような、珍妙な顔立ちだった。そして極端な出っ歯で、文献通り右手の親指が二本ある。
異形。俺がまず、秀吉に感じたのはそれだった。
だがこの男が、後の天下人となる。
未曾有の戦乱を、ひとまず治めた男。その秀吉が今、目の前にいる。それだけで、俺の四肢には力が入った。
しかし、相手は未だ織田家の一部将に過ぎない身。
俺は丹田に力を込めて、秀吉を見据えた。
岡崎城の土蔵。忠吉は秀吉をそこに引き連れ、忠次と家成を含めた四人で秀吉と面会した。
秀吉は野良着だった。隠密の使者なので、わざとこうした恰好をしたそうだ。
「我が主は、松平様との連合を模索しております」
秀吉は、そう言い放った。
(来たか!)
俺は喜色を必死に抑え、
「尾張殿が、儂と連合を……」
と、呟いた。
最近、俺は〔儂〕という言葉を使っている。何だか年寄り臭く感じるが、忠次曰く、
「殿に足りない威厳を多少は感じ申す」
らしい。俺は忠次の肩を笑って小突いたが、最近こうした口調が妙に気に入っている。
「この連合は、互いにとって利しかございませぬ」
「例えば?」
「我が主が言うには、『俺は西に、松平殿は東に股を広げた女が待っている故、お互い間男が来ぬように背中を預けようではないか』との事」
そう言って、秀吉は軽く口の端を緩めた。
しかし、そこで顔を赤くしたのは忠次だった。
「我が殿の
その怒声に秀吉は肩を竦めてみせ、俺は半立ちになった忠次を止めた。
「控えよ。お前も無粋な男だな。股を広げた女が待つとは、意気な言い回しではないか。のう、忠吉」
「御意」
最長老の忠吉には頭が上がらぬ忠次は、決まりが悪そうに再び座した。
「秀吉よ。この話に興味がある。前向きに考えたいが、一つだけどうしても尾張殿にお伝えして欲しい事がある」
「何なりと」
「儂はな、今川と手切れをした。やっと自由の身になった今、毎日が非常に清々しい。その理由を考えた時、儂の上に誰もいないからだと判った」
「それは?」
「おそらく尾張殿もそうだろうが、儂は誰にも臣従せぬ。つまり、対等の連合でなければ儂はこの話に乗らぬという事だ」
「なるほど。確かに松平様のお顔は、誰かに臣従する者の顔ではございませぬな。そこは、御懸念無用。この秀吉が責任を持ってお伝えいたします」
俺は頷くと、秀吉は歯を剥き出して
「では、拙者はこれにて。おそらく正式な使者がいずれ参りましょうから、差し当たり無用な小競り合いはさけましょうぞ」
秀吉が去ると、忠次と家成が渋い顔を見せた。
「この話、中々難しゅうございますぞ」
「忠次、どうしてじゃ?」
「殿も存じておりましょう。松平と織田は仇敵。しかも、最近では織田の猛将・佐久間盛重を討ち取っておりますれば」
「まぁ判るが。家成はどうだ?」
「頭では連合の利を判っていても、感情的には許せぬ者が多ございましょう。特に我ら三河武士は」
「ふむ」
俺は忠吉を一瞥したが、軽く頭を振るだけだった。
清州同盟への手応えを感じぬまま、時は幾らか過ぎた。
その間、頑強に抵抗していた
義昭は俺の前で震えていた。そして、許しを乞いた。どうやら、吉良の勇猛を支えていたのは、この男ではないらしい。今目の前にいるのは、名門である事を鼻に付けただけの無能者。すなわち、かつての自分だった。
「許す。これよりは、儂の為に忠勤に励め」
義昭がその後どうなるのか、俺は当然知っている。知っていてなお、許さねばならない。その苦悩と孤独が、俺に重く圧し掛かった。
俺は暫く三河で働く今川方の残党駆逐に追われ、久し振りの休暇は秀吉に会った二十日後だった。
昼下がり。岡崎城内を散歩していると、片足を引き摺りながら歩く男を見つけた。
男は蛇のような、嫌味な顔をしている。
(見ぬ顔だな……)
男は柿の木の前で止まると、その樹を眺めだした。
「おい、何をしている?」
俺は興味本位で声を掛けた。
「これは殿」
男が片膝を付こうとし、俺はそれを制した。
「何をしておったのだ?」
「何も」
「何も?」
「ええ。私は丸根砦の合戦で膝に怪我を負い、見ての通り自由に動けぬ身になってしまいました。それでも働けぬかと忠次殿にお聞きした所、何もするなと申されたので、仕方なく散歩しているのです」
「ほう。うちには穀潰しがいたか」
俺は笑うと、男は目を伏せた。
「ですが、こうして毎日散歩していると、見えてくるものもありまして」
「興味あるな。で、何が見えた?」
「殿が妙に丸くなられたという事」
「ほう」
「殿は血気に逸る性分でございましたが、大高城に入った頃からどうも丸くおなりになったようで」
「まぁ、人は成長し変わる。それが生きるという事だ」
そういう事にしていた。幸いにも、桶狭間という変わる契機があった。それで皆が今の所納得している。
「あと一つ」
「申してみよ」
「殿に対して、叛乱を企てようとする者の顔も見えまする」
「なんと」
俺は、辺りを見回した。誰もいない。歩哨は遠く、聞かれる心配もなさそうだ。
「それは?」
「吉良義昭殿、
俺は頷いた。義昭は兎も角、昌久も忠正も宗家と俺を何かと目の敵にしている。それにしても、義昭は
「ですが、今一歩踏み出せません。腰抜け揃いなのですよ」
「しかし、このまま捨てては置けんな」
「いかにも。このまま支配を確立する為には、大掃除が必要でしょう。しかし、殿は東西に今川と織田という敵を抱えておられます」
「お前はどうしたらいいと思う?」
男は、蛇のような顔を俺に向けた。
「まずは織田と連合。少なくとも、西の心配は取り除けます。今川は斜陽です。この際、考えなくても結構でしょう」
「それで?」
「吉良殿達に決起させます。それも家中と領内の反対勢力を一緒くたに糾合させて」
「しかし、腰抜けなのだろう?」
そう訊くと、男の目が一瞬だけ光った。
「そこで、私に銭と身分をお与えください。家中を二分させるような混乱になるやもしれませんが、決起するだけの火種はございます。ただし、成功すれば三河支配は安泰でございます」
俺は顎に手をやった。
(こんなイベントはあっただろうか……)
いや、待て。もしや――。
「おい、お前名は?」
「
その名を聞き、俺は苦笑していた。まさか。まさか、あの重大イベントが、この男の策謀とは思いもしなかった。
「よかろう。銭も自由に動ける身分も与えよう。これより、お前は儂の祐筆筆頭だ。よいか?」
「ありがたく」
「あと一つ。この件、忠次と家成そして忠吉の三人には伝えるがよいか?」
「構いませぬ」
「ふむ。期待しておる。何としても成功させろよ」
俺はそう言って、正信に背を向けた。
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