恥物語 ~日下部朝彦編~

 日下部ひかべ家は封術師の一族だ。

 故に日下部家で封術を扱えない者は自然と爪弾きにされる。魔術全般において才能がなければ疎遠になるだけで済むが、逆にその他の才能が飛び抜けていた場合は畏怖の対象として見られてしまう。

 片親が違うのではないかと疑われたこともあった。

 妹が封術の才に恵まれていたのだ。そう思われても仕方がないだろう。

 恐れられ、怖れられ、畏れられて子供時代を過ごしてきた。親にもだ。自分に対しての祝い事なんて一切なく、他の才能を利用されるだけの『物』扱い。

 苦痛だった――とは思わない。

 それが当然だと理解していたし、唯一親しく接してくれる妹がいたからだ。

 家族、信頼、居場所。それ以外にも様々なものを妹は与えてくれた。日下部家の宗主になることはできないが、直に宗主になる妹を守り続けることはできる。

 その日々は実に充実していて幸福だったが――


 できれば、あの日のことだけは思い出したくない。


        ∞


 高校三年の二学期が終業した。

 終業式後の休み時間。大学受験や就職で切羽詰るこの時期だが、今だけは来る冬休みに向けてクラス中が羽休め状態となっていた。

 クリスマスは誰と過ごすか? どんなプレゼントを用意するか? またはもらいたいか? 紅白は見るのか? 初詣には行くのか? おせちは手作りか? 食べ過ぎて太らないか? などと多種雑多な話題が飛び交っている。

 ――くだらない。

 クラスメイトたちが浮き足立っている中でただ一人、日下部朝彦ひかべあさひこはどこのグループにも加わることなく窓の外を眺めていた。

 すると一組の男女が朝彦に近づいてくる。

「ねえ、今クラスのみんなでクリスマスパーティーを企画してるんだけど、日下部くんもどうかな?」

「高校最後の年だぜ。せっかくだから日下部も参加しろよ。つか今更だけど、お前の苗字普通は『クサカベ』って読むんじゃね?」

 普段は話しかけてくることすらない奴らだった。浮かれ切った勢いで一人寂しく見える朝彦も誘ったのだろうが、余計なお世話だ。あと苗字についても余計なお世話だ。

「俺が行っても空気を悪くするだけだ。お前たちだけで楽しめばいい」

 仮にもクラスメイト。これでもソフトに断ったつもりだが、二人は不快そうに顔をしかめた。

「んだよ。せっかく誘ってやったのによ」

「いいよ。日下部くん抜きでやるから」

 二人はそう言い捨てて踵を返した。やりたくないものに誘われても迷惑でしかない。しかも善意からなだけに性質が悪い。そういうのはやりたい奴らだけでやっていればいいんだ。

 一族内での立場は妹のおかげもあって改善されたが、学校内での友人らしい友人は一人もいない朝彦である。自分の他人を突き放して距離を置く態度が原因なのは自覚しているが、そこを直すつもりは毛頭ない。友人など鬱陶しいだけだ。

 朝彦の周囲だけ避けるようにクラスが盛り上がっていく。その状態に内心で満足しながら、朝彦は再び窓の外へと目を向けた。

 雪が降り始めていた。


        ∞


 十二月二十四日。

 陰陽師で仏教の日下部家にとってクリスマスなどというイベントは存在しない。年末年始に向けての大掃除やら仕事やらで多少慌ただしいが、特別な催しなどない極平凡な一日になる――はずだった。

「なんだと?」

 朝彦は分家の女術者から伝えられた情報に眉を顰めた。

「夕亜がどこかの魔術結社に狙われているだと? 本当か?」

「はい。連盟からの確かな情報です」

 淡々と答えようと努めているが、分家の女術者の顔は青い。

「夕亜を狙う目的はなんだ?」

「ヤマタノオロチの再封印を阻止し、復活を目論んでいるようです」

「なぜだ?」

「理由まではまだ判明していません」

「そうか」

 日下部家は一つの重い宿命を背負っている。災悪の妖魔・ヤマタノオロチを封印し続けるという宿命だ。朝彦の妹――日下部夕亜ひかべゆあが『生贄』となり、その命を持ってヤマタノオロチを再封印することとなっている。代われるものなら代わってやりたいが、それは封印術式を身に宿した宗家の女性でなければならない。そして夕亜以外に封印術式を持つ者はいないのだ。

 つまり夕亜がいなくなれば再封印は不可能となり、ヤマタノオロチは近い年に復活する。それを望む連中が夕亜を狙うのは当然だろう。

「くだらない真似をしてくれる」

 かくいう朝彦もヤマタノオロチ復活を目論む一人だった。だがそれは夕亜を宿命という名の呪いから救うためだ。殺させるわけにはいかない。

「なんという組織だ?」

「それが、その、なんと申しますか……」

「いいから言え」

 歯切れの悪い分家の女術者を朝彦は強く促す。彼女はとてつもなく言い辛そうに口をもごもごさせてから、観念したようにその名を声にした。


「『グレート・マーヴェラス・ハイパー・スペシャル・ウルトラ・デストロイ団』――略して『G・M・H・S・U・D団』と」


 十秒ほど時が止まった。体感的に。

「……」

「……」

「……悪いが、聞き間違えた可能性がある。もう一度言ってくれ」

「もう一度言わせるのですか!?」

「いや、やはり言わなくていい。……そいつらは、馬鹿なのか?」

「わ、私に訊かないでくださいよ朝彦様」

 さっきまで青かった顔を真っ赤にする分家の女術者。なるほど、口にするのも恥ずかしい名称だ。連中と出会えば意味がわかるかもしれないが、できれば知りたくない。

「連盟や俺たちを欺くための仮称かもしれん。気にするな。それより父上には話したのか?」

「宗主様は昨日からお仕事に出られていまして、携帯をお持ちになられていないので伝令用の式神を飛ばしています」

 神がかり的な機械音痴の日下部家現宗主は携帯でメールすることすらできない。葛木家現宗主の爺さんは余裕で使いこなしているというのに。

「夕亜には?」

「夕亜様にも伝令は飛ばしてあります」

「伝令だと? 夕亜は家にいないのか?」

 それに夕亜は父と違って携帯を使える。

「朝彦様には言わないように口止めされていたのですが――」

 睨んでくる朝彦に、分家の女術者はバツが悪そうに告げる。


「今朝から、その、蒼谷そうや市の方にお出かけを」


        ∞


 蒼谷市は日下部家宗家から車で三時間ほどの距離に位置する大きな都市である。

 人口は約五十万人。荘厳に佇む蒼谷城を中心に街区がドーナツ状に広がっており、北は山、南は海といった具合の地形なっている。そのため山と海の両方の幸に恵まれ、それを目当てに足を運ぶ観光客も少なくない活気ある街だ。

「ちょっと夕亜! いきなりやってきて私を連れ出して、一体なんのつもりよ!」

 そんな蒼谷市市街地の東にある大型ショッピングモール内で、一人の少女の困惑と苛立ちを含んだ怒声が響いた。怒鳴った少女は市内の名門中学校の制服を着ているが、彼女の手を引いている少女は高級そうな真っ白いロングコートにレザーのブーツといった余所行きの格好だった。同性の友人と近場で遊ぶ程度にしては気合いの入れ方が違う。わざわざ遠出して来たのだろう。

 白コートの少女――日下部夕亜は腰まで届く長い黒髪を揺らして振り返り、太陽のような無邪気な笑顔で言葉を紡ぐ。

「えっとね、クリスマスなのに香雅里ちゃんは一人寂しいだろうなぁって思ったの。だからデートしに来たってわけ♪」

「デートって……別に私は寂しくなんかないわよ? 今日だって夜には兄様と食事に行く予定になってるんだから」

「アハハ、香雅里ちゃんは本当にお兄ちゃん子だねー」

「そ、そんなんじゃないわよ! 家族だから! 別に! 当たり前!」

「香雅里ちゃんむきになって真っ赤っか。かぁいい♪」

「夕亜だって他人ひとのこと言えないでしょう?」

 香雅里と呼ばれたセミロングの少女は夕亜の態度にムッとするも、すぐに落ち着きを取り戻して溜息を吐いた。

「来るなら前もって連絡くらいしてほしいわ」

「ごめんごめん、来る途中で電話しようとしたんだけど、携帯を家に忘れてきちゃったみたいなの。で、まあいいかなって」

「普通は当日より前にアポ取るところよ」

 底なしの明るさを振り撒く日下部夕亜と、努めて冷静でいようとする葛木香雅里かつらぎかがり。二人は陰陽師同士の家の付き合いもあって、古くからの友人である。

「それで、要は買い物に付き合えってことでしょ? なにを買うの?」

「う~ん、いろいろかな?」

 問いかける香雅里に、夕亜は顎を人差し指で持ち上げて曖昧に答えた。

「まあその辺はいいとして、ほら、ここっていろんなお店があるでしょ? テキトーにウィンドウショッピングを楽しもうよ香雅里ちゃん♪」

 両腕を大げさにバッと広げる夕亜。香雅里もざっと辺りを見回した。販売店舗だけでなく映画館やボーリング場などを含有した複合商業施設は人々でごった返しており、定番のクリスマスソングをBGMに今まで特に意識していなかった雑音が耳に届く。


「本日限りの特別大売出しだよー!」  「見て見て、あっちのお店なんか可愛い!」

   「映画何時からだっけ?」「二時半からだからもう一時間あるね」  

 「カラオケ行こカラオケ!」           「七百二十円になります」

『ご来店中のお客様に迷子のお知らせをいたします』

      「腹減ったー」

  「やっべ財布忘れた!?」  「白い羽募金にご協力を!」

        「孝一先輩クリスマス仕様のモデルになってくださぁーい!」

        「そんなもんになってたまるかぁあっ!?」

           「あいつら五十メートルを二秒くらいで走ってないか?」

           「二人は仲良しさんだねぇ」


 表面上では賑わいを見せているが、経営的にはこれでも厳しいらしく近々潰れるのではないかという噂もある。もっとも、その噂のおかげで『今のうちに』と人が集まっているわけだが。

 ――一瞬なんか凄い魔力を感じたような……気のせいかしら?

 少々気になることがあったが、香雅里は深く考えず入口で貰ったパンフレットの地図に視線を落とす。

「夕亜、ここってけっこう広いから適当に回るにしても予めお店を決めておいた方が――」

 そう言って振り返った香雅里だったが、夕亜は忽然と姿を消していた。

「夕亜?」

 辺りを探すが見当たらない。まさか早速迷子になったのでは? と香雅里は呆れ半分心配半分で思ったが、すぐに目の前のペットショップから愉快気な声がした。

「香雅里ちゃんこっち来てこっち! ここ面白い動物いっぱいいるよ♪ エリマキトカゲとか」

「もう、人が多いんだからあまり勝手に動かないで。迷子になったら格好悪いわよ?」

「ダイジョブダイジョブ。その時は迷子センターのお姉さんに頼めば私を呼んでもらえるから」

「なんで私が迷う方になってるのよ……」

 ころころと屈託なく笑う夕亜に諦念しつつ、今日一日中振り回される覚悟を決める香雅里だった。


        ∞


 ところ変わり、ショッピングモールの屋上駐車場。

 そのペントハウスの影に隠れるようにして、忍者のような装束を纏った見るからに怪しい集団が屯っていた。

「いいかいお前たち! アタシたちの標的は日下部夕亜っていう小娘だよ!」

「「「イエス・マム!」」」

 リーダー格と思われる女の指揮に取り巻きの男たちが訓練された返事をする。忍者とは思えない大声だったが、幸いにも周囲には誰もいない。

「そいつがヤマタノオロチ復活の鍵を握っているらしいのさ。とりあえず拉致ってきな!」

「「「イエス・マム!」」」

 ザッ! と一斉に寸分の誤差もなく敬礼する男たち。軍隊顔負けの統制にリーダー格の女は満足そうに口の端を吊り上げる。

 と、部下の一人がピシリと挙手した。

「アマベル様、作戦行動の前に確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「よし、許可しよう」

 アマベルと呼ばれたリーダー格の女は鷹揚に頷いた。部下は一歩前に出て自分の服装を示す。

「この格好は一体なんの意味があるのでしょうか?」

「日本ぽいからさ。この国には『郷に従えば郷に受け入れられる』という諺がある」

「『郷に入れば郷に従え』では?」

「お黙り! ちょっと言い間違えただけだよ! とにかくこの『シノービショーゾクー』ってのは着るだけ気配を完全にシャットアウトできる魔導具なのさ。ここには大勢人がいるから目立っちゃマズイからね。おわかり?」

「イエス・マム!」

 部下の男が敬礼をして下がると、今度は別の部下が前に出た。

「アマベル様、私からも一つ質問が」

「なんだい?」

「先程捕えた伝令の使い魔ファミリアから察するに、既に日下部家及び連盟は我々の存在を察知していると思われます。ここで行動を起こすのは軽率ではないでしょうか?」

「なにを言ってるんだい? だから早く事を済ますんだよ。連中もまさかこの大衆乱れる中でアタシらが動くとは思ってないはずさ!」

 クシャリ、とアマベルは右手に掴んでいた鳥型の紙片を握り潰す。それは日下部家が日下部夕亜に向けて送った式神だった。

「無関係の者が大勢いると、我々としてもやりにくいのでは?」

「あんたはなにを聞いてたんだい? だからこその『シノービショーゾクー』じゃないの」

「ハッ! なるほど! そういうことですか。了解しました!」

 得心がいったように引き下がる部下。他の者たちもうんうんと首肯している。

「他に質問がある奴はいないかい? 確認は今しかできないよ?」

 アマベルの方から質問を促すと、部下たちから次々と手が挙がった。

「対象の捕獲方法は?」

「臨機応変に考えな! ただ日下部夕亜は封術師。普通に襲いかかって結界に閉じ籠っちまったら簡単には引っ張り出せないよ!」

「イエス・マム!」

「無関係な一般人が邪魔になった場合は?」

「店員のフリして適当にあしらいな」

「イエス・マム!」

「というか対象の顔がわかりません!」

「資料は昨晩配ったじゃないか! なに忘れてんのさこのマヌケ! まったく使えないね! 隣の奴に資料見せてもらいな!」

「イエス・マム!」

「今日のアマベル様なんとなく口紅きつくないですか?」

「それ今関係なくない!?」

「イエス・マム!」

「そういえばアマベル様は今年で三十になったって本当ですか?」

「殺すよそこ! アタシはまだピッチピチの二十歳さね!」

「(嘘だ)」「(嘘だ)」

「(嘘だ)」「(嘘だ)」

「(嘘だ)」「(嘘だ)」

「(嘘だ)」「(嘘だ)」

「(嘘だ)」「(嘘だ)」

「(嘘だ)」「(嘘だ)」

「聞こえてるよ馬鹿ども! くだらない質問しかないならさっさと作戦を始めな!」

「「「イエス・マム!」」」

 アマベルの護衛を数人残して部下たちが一斉に踵を返し、屋上から駆け去った。その様子にアマベルは我慢できず忍び笑いを漏らす。

「くくく、これでヤマタノオロチはアタシらのもんだ」

「そんなに凄い幻獣なのですか?」

「くく、そうさね」

 気分よく笑い、アマベルは羽ばたくように空に向かって両腕を広げる。

「なんせ大魔術師でも敵わないからね。その力を利用すれば、世界はアタシら『グレート・ミラクル・ハイパー・スペシャル・デリシャス団』のものさね! アーハッハッハ!」

「団名間違ってますアマベル様!」

「お、お黙り!」

 バチコン! とツッコミを入れた部下を強めに引っ叩くアマベルだった。


        ∞


 同じ頃、日下部朝彦はショッピングモールの入口に立っていた。ロングコートからブーツまで全身黒ずくめの微妙に目立つ格好だが、さして気にすることでもない。寧ろ通報されない程度に人が避けてくれるので都合がいい。

 ――夕亜がいるのはここだな。

 妹が蒼谷市にいると聞くや否や、朝彦は即座にそこへ向かうことにした。魔術を駆使すれば一時間足らずで到着できる。その方法は流石に疲れるが、電車や車を使うより断然速い。

 広い蒼谷市内を探知術式で探してもよかったが、その準備をするには少々時間がかかる。よって夕亜が真っ先に立ち寄りそうな葛木家を訪問して尋ねてみると、大当たりだった。

 ――葛木香雅里を連れ出してなにをするかと思えば、買い物か? それとも映画?

 確かこのショッピングモールには映画館もあったはずだ。日下部家周辺の街には映画館が存在しないため、映画を見たければ蒼谷市まで足を運ばなければならない。

 ――なんにしても俺に内緒にする意味がわからん。

 もっとも言わなければならない理由もないのだが、夕亜は明確に『朝彦には教えるな』と分家の者に伝えてあった。

 朝彦には知られたくないこと。

 買い物や映画という行為自体がそうとは思えない。となると、問題は内容だろう。

 ――……よそう。夕亜が秘密にしたいのであれば、俺は知らないでいい。

 気になるが、朝彦は自分自身にそう思い聞かせることにした。

 ――とにかく今は、夕亜を狙う結社が問題だ。

 敵がいつ襲ってくるかわからない以上、常に夕亜の傍にいる必要がある。だが、夕亜に秘密がバレたと思われてしまうことは避けたい。

 伝令の式神はとっくに届いているだろう。しかし、夕亜がその程度で行動を変える性格でないことを朝彦はよく知っている。恐らく葛木香雅里にもなにも告げないはずだ。

 夕亜にはそのまま買い物や映画を楽しんでもらおう。

 その間に敵が動いた場合、全て陰ながら処理する。決して夕亜の前に姿を現さないし、現させない。

 ――夕亜は、俺が守る。

 昔からの決意を改めて反芻し、朝彦はショッピングモールの中へと足を踏み入れた。


        ∞


 モール内の洋服店。

「ワオ! 香雅里ちゃんすっっっごく可愛い!」

「な、なんで私までこんなの着ないといけないのよ……」

 夕亜と香雅里は店内のコスプレコーナーにおり――――サンタクロースのコスチュームを身につけていた。

 肩と胸元を大胆に露出させたワンピースタイプの衣装。太股が見えるほど短い丈に網タイツときているため外に出ると凍えそうだ。もっとも、夕亜はともかく香雅里はこのまま外に出て大衆の注目を浴びるくらいなら舌噛んで死ぬ覚悟だったが。

「でも可愛いよ香雅里ちゃん。似合ってる似合ってる。これで愛しのあの人もイチコロのメロメロだね!」

「いないわよ、そんなの」

 出合った頃から香雅里は思っていたが、夕亜には羞恥心という物がないのだろうか? 水着でもないのにこんなに胸元を見せるなど……胸を……胸……?

「ていうか夕亜、あなた前に会った時よりもその、胸おっきくなってない?」

「え? そっかなぁ? 香雅里ちゃんはあまり変わってないね」

「うっ、ま、まだ中三だし。これから成長するわよきっと」

 自分と夕亜の胸を見比べて愕然とする香雅里だった。

 と――

「おっふ、可愛い子発見であります」

「美少女サンタ萌えぇ」

「そのハイヒールでボクを踏んづけてください」

 鼻息を荒げた不潔そうな男どもがわらわらと寄ってきた。

「ひゃっ! ゆ、夕亜! 変なの湧いてきたからもう着替えて出るわよ!」

「あ、待って香雅里ちゃん! お会計済ませるから」

「買うの!?」

 試着室で元の服装に戻った夕亜が綺麗に畳んだサンタコスチュームをレジへと持って行く。なぜか香雅里の分まで。

「うふふ、私の奢りね♪」

「着ないわよ。もう二度と」

「えー」

「えーじゃないわよ! そんなの着てなにが楽しいのよ!」

「楽しいじゃない? ほら、なんかこう魂的なものが燃える感じ?」

 香雅里は親友ながらその趣味は一生理解できない気がした。


        ∞


 その洋服店から出てくる二人を物陰から見詰める者たちがいた。

 アマベルの部下たちである。

「対象発見」

「しかし連れがいる。どうやって拉致る?」

「後ろから襲って睡眠薬を嗅がせるとか?」

「うわ、お前ワルだなぁ。そんな発想普通出ねぇよ」

「よしその手で行こう」

「ただ問題が一つ」

「なんだ?」

「睡眠薬がない」

「ダメじゃん!?」

 ごそごそと相談しつつ標的の後を追う忍び装束の男たち。そんな彼らが目立たないはずもなく、周囲の人々は奇異の視線を向けていた。

「なんか、俺ら注目されてね?」

「いや、気のせいだ。アマベル様も言ってただろ? この『シノービショーゾクー』を着ている限り我々が怪しまれることはない」

「偶然別のなにかに注目してるんだろ」

「心配無用。俺たちは完璧に群集に溶け込んでいる」

「だよな。俺がちょっと神経質になってるだけだよな」

 自分たちは目立ってないと微塵も疑うことなく彼らは尾行を続ける。場所が場所だけに大衆はなにかのショーでもあるのかもしれないと思っていたりするわけで、騒ぎになったりはしなかった。

「とりあえず人気のないところへ誘導しよう」

「なるほど、そこで一気に勝負をつけるわけだな」

「で、どうやって誘導する?」

「俺に考えがある」

「ほう?」

「事故に見せかけて水をぶっかけるんだ。そしたら着替えないといけなくなるから、すかさず店員のフリして誘導すれば……」

「おお! 完璧だ!」

「天才かお前!」

「よし、じゃあ早速準備にかかれ!」

「「「御意!」」」

 男たちは作戦のため散り散りに分かれて行動を開始した。


        ∞


 ――見つけた。

 気配を消して夕亜を探していた朝彦は、ついに彼女の後姿を視界に捉えた。どうやら適当に店を回っているらしい。通路を進みながら興味の惹かれた店に立ち寄り、なにも買わずに出てくることを繰り返している。

 ここからはつかず離れず、夕亜はもちろん葛木香雅里にも気づかれないように護衛しなければならない。

 この人口密度で敵が動くとは思えないが、もしなにか仕掛けてくればそいつらは目的のためなら手段を選ばない外道か、ただの馬鹿だ。

 後者ならまだ救いはある。が、前者だとかなり厄介だろう。一般人に対する躊躇がないのだから、最悪このショッピングモールごと夕亜を押し潰しにかかるかもしれない。そうなった時、全ての人間を救うことは朝彦でも不可能だ。

 どちらにしても警戒を怠ってはならない。

 実は既に、このモール内に複数の違和感を朝彦は覚えているのだ。夕亜たちは気づいていない。それなりの術者である彼女たちにも悟られないほど極微量な気配なのだ。朝彦も意識していなければ気づけなかった。

 敵が動くかはわからない。だが、敵は確実に夕亜を補足している。

 できれば夕亜たちがモールから出るまで仕掛けないでもらいたかったが――

「――ッ!?」

 夕亜たちの前方、その右側の壁に、魔法陣の描かれた呪符を発見してしまった。

 ――罠か? それとも……。

 朝彦は二つの可能性を考える。一つは夕亜が通る瞬間を狙って起動するタイプ。もう一つは建物全体を崩壊させるための術式の一部となっているタイプだ。

 この場合は後者の方が助かる。あの呪符を剥がせば術式を崩せるからだ。

 夕亜たちが呪符の前を通過しようとする。

 と、そこで呪符が淡く輝き始めた。

 ――罠の方か!

 そう判断するや、朝彦は跳躍した。

 脚力強化の術式が施してある朝彦の移動は、常人にはただ風が通り過ぎていっただけのように見えただろう。

「――魔力?」

 葛木香雅里が気づきかける。だが彼女が朝彦の存在を認識する前に呪符を剥いで姿を消す自信はあった。

 と、夕亜が香雅里の腕を掴んだ。

「見て見て香雅里ちゃん! あっちのお店すっごく可愛いアクセサリーがあるよ!」

「待って夕亜、今なんか――」

「いいからいいから♪」

 都合のいいことに夕亜たちは近くのアクセサリーショップの中に入って行った。

 その隙に朝彦は呪符の前に辿り着く。近くにいた一般人の爺さんが唐突に現れた朝彦にぎょっとして入れ歯を落としていたが、構わず呪符に手を伸ばす。

 だが、僅かに遅かった。

 呪符に刻まれた術式が発動してしまったのだ。

「なっ」

 パン! と爆竹を鳴らしたような小さな破裂音が響く。

 それだけで呪符の貼られていた部分の壁だけ崩れ、埋め込まれていた水道管に穴が穿たれた。

 ジャバーッ!!

 押し寄せた大量の水を朝彦は頭から思いっ切り被る。

 だが、それだけだった。

 ――どういうことだ?

 魔術のあまりのしょぼさに困惑する朝彦。周りは一気に騒がしくなったが、水道管の故障だと思っている。

「おいあんた、大丈夫か?」

 ずぶ濡れの朝彦に気を利かせた中年男性が声をかけてくれたが、朝彦は無視し、急いでその場から立ち去った。

 騒ぎを聞きつけた夕亜たちが、店から出てきそうだったから。


        ∞


 G・M・H・S・U・D団の団員たちは一部始終を見て地団太を踏んだ。

「惜しい! あと少しだったのに!」

「なんであんなところにいい感じのアクセサリーショップがあるんだ!」

「次だ! 次の作戦を考えろ!」

「ていうか黒ずくめの妙な奴がいなかったか?」

「気にするな。あれがジャパニーズニンジャだろう。日本人の三割がそれだと聞いている」

「四割はサムライ」

「二割はマイコ」

「二割がミコサン」

「一割がスキヤキ」

「そんな感じだ」

 割合が十を超えていることにすら気づかず、トンチンカンな会話をしながら男たちは次の作戦に移る。


        ∞


 ――恐らく、警告だ。

 トイレの個室で熱系魔術を使って衣服を乾燥させた朝彦は先程の件をそう解釈した。

 一般人を退去させるためのものか、夕亜たちに対してのものなのかはわからない。護衛が既にバレていると考えれば、朝彦に対する警告や威嚇の可能性が濃厚だろう。

 ――くだらない。

 トイレから出て夕亜たちを追う。あの程度の警告で怯む朝彦ではない。

 夕亜たちは二階へ続くエスカレーターに乗っていた。朝彦は人ごみに紛れて彼女たちの会話に耳を済ませる。

「ねえ、夕亜。さっきちょっとだけ魔力の気配を感じたんだけど」

「そう? 私はなにも感じなかったけど? 香雅里ちゃんの気のせいじゃない?」

「だといいんだけど……」

 あの一回だけで葛木香雅里は不審を抱いている。まだ朝彦だということは割れていないが、あまり術式を使い続けると時間の問題だ。なるべく控えておこう。

「ところで夕亜、さっき貰ってたそれ、なにが入ってるの?」

 葛木香雅里は夕亜が持っている掌サイズの正方形の箱を指差した。ピンクの包装紙に赤いリボンを結ばれたそれは、店側がクリスマス用に企画したものらしい。あちこちで配られているのを朝彦も見ている。

「んー、忍者みたいな格好した人に貰ったものだから……あっ、手裏剣とか?」

「そんな危ないもの配らないわよ」

 もし本当に中身が手裏剣で、そのせいで夕亜が怪我でもしたら朝彦は主催者をふん捕まえて抗議するだろう。武力で。

「とりあえず開けてみたら?」

「ふふっ、爆発するかも。忍者だけに煙がドバーッって出るの♪」

「だからそういう危ないものなわけないでしょ!」

「わかんないよ?」

 茶目っ気たっぷりに笑う夕亜がすっと箱のリボンを解いた。

 だが――

「わっ」

 通行人と肩がぶつかり、その拍子に箱を手から零してしまった。落とした箱は別の通行人に蹴られて雑踏の中に消えていく。

「あぁーっ! 私の箱ぉーっ!」

「この集団の中だし、きっともう踏み砕かれてぐちゃぐちゃね」

「そんなぁあ……ううぅ」

「もう一度貰って来ればいいだけでしょ」

 落涙する夕亜を葛木香雅里は引きずるようにして連れて行く。そんな二人の様子を遠目に、朝彦はきっちり夕亜の落し物を回収していた。

 多少歪にへしゃげているが、中身は無事だろう。あとでこっそり返しておこ――


 カチリ。


 箱の中から、なにかが噛み合ったような機械的な音が聞こえた。

 直後、箱の全ての面に添うように六つの小さな魔法陣が展開する。

「! しまったこれに――」

 なんらかの術式が組み込まれている!

 そう朝彦が思った瞬間――ボゥウンッ!! 箱が盛大に爆発し、朝彦の肩から上を熱と爆風と黒煙が覆い尽くした。

 しかし、その程度の規模だった。

「がっ……げはっ……」

 噎せ返る朝彦だったが、術式で防御したわけでもないのにダメージはほとんどない(というか封術師の才能がない朝彦は防御系の術が苦手である)。

 少々熱かっただけ――これも警告だろうか?

「お、おいあんた、なんか爆発したけど大丈夫か?」

 どこかで見たことあるような中年男性が声をかけてくれた。先程ずぶ濡れになった時にもいた人だとすぐに思い出す。

「問題ない」

「いや、そうでもないだろ。その頭……」

「?」

 言われ、朝彦は手を頭に持って行く。

 なんかモサッとしていた。


        ∞


「シッッット! 俺の術式『爆発DEアフロ』を使って『きゃー髪セットし直さなきゃ』『それでしたらお客様こちらへどうぞゲッヘッヘ』作戦が水の泡じゃねえか!」

 朝彦のさらに後方、通路の角に隠れるようにして、アフロヘアーをしたG・M・H・S・U・D団の団員が喚き散らしていた。

「いや惜しかったぞ。もうちょいだった」

「黒いジャパニーズニンジャが代わりにアフロになってるぜ。ぎゃはは、マジうける!」

「アフロ舐めんなコラ!」

「てか、んな野郎はどうでもいいんだよ!」

 作戦失敗を慰める者、笑う者、怒る者と彼らの反応はバラバラだった。普段こそこんな調子だが、いざとなれば並々ならぬ統率を見せる彼らである。

 と、誰かの通信機が着信音を鳴らした。

『あんたたち、首尾はどうだい?』

 彼らのリーダー――アマベルからの連絡だった。彼女の督促の言葉に、団員たちは今までの軽薄な空気を一変させる。

「ハッ! 順調に失敗を続けております!」

『この馬鹿たれ! なにをやってるんだい! もしサボってるんだったら承知しないよ!』

「そんなことはありません! 幾度か仕掛けていますが、対象の強運が凄まじく――」

『アタシは言い訳を聞きたいんじゃないんだよ! 次こそ必ず成功させな!』

「「「イエス・マム!」」」

 プツン ツー ツー。

 通信が切れる。団員たちは円陣を組んで気合いを入れる――わけではなく、ごにょごにょと次の作戦について打ち合わせを始めた。

「こうなったら数班に分かれて、手当たり次第思いつく策を試すぞ」

「「「イエス・マム」」」

「マムじゃねぇし!?」

 シュバッ! と本物の忍者のような動きで男たちは散開する。


        ∞

 

 よく理解できた。

 敵は朝彦をおちょくっている。それも最大限に馬鹿にした行為で。

「……チッ」

 立派なアフロに人々が大爆笑し、危うく夕亜たちにも見つかるところだった。今はまたトイレの個室に籠って髪を元に戻したが、朝彦の苛立ちは加速度的に蓄積されていく。

 だが反面、夕亜がアレを喰らわなくてよかったと心底思う朝彦である。

 いつまでもトイレに引き籠ってはいられない。こうしている間に夕亜がアフロになっているかもしれないのだ。

 朝彦はトイレを飛び出して再び夕亜たちを追いかけた。


 そして数分後、似たような悲劇が度重なって朝彦に襲ってくることになる。


        ∞


 ――二階。百円均一前の通路。

「おわっ!? いきなり床が抜けたぞ!?」

「黒い人が落ちた!?」

「大丈夫かあんた!?」

「救急車を!」



 ――三階。映画館売店前。

「ポップコーンが凄まじい勢いで増殖してる!?」

「ポップコーンの雪崩だ!」

「なんか黒い人が呑み込まれた!?」

「孝一先輩! この『ウホッ☆ガチムチだらけの兄貴教室~ポロリしかないよ~』を一緒に見ましょうよ!」

「見ないから!? 誰もそんなの見ないから!?」



 ――三階。ボーリング場。

「黒い人が自分自身でストライク!?」

「どういう状況!?」

「お客様困ります!」



 ――二階。喫茶店内。

「……」

「お、お客様、大丈夫ですか?」

「……なぜ、ただのコーヒーが死ぬほどかりゃい?」

「え? そ、そんなはずは」



 ――一階。玩具店前の通路。

「誰だ大量のビー玉をぶち撒けた野郎は!」

「今そこの黒い人が凄い芸術的な転び方したよ!」

「漫画みたいでクソワロタ。あー、動画撮ってりゃよかった!」





                ブチン!





 額から変な音を発した朝彦がゆらりと立ち上がる。そろそろ我慢の限界。堪忍袋の緒が三本ほど捻じ切れた。

 そもそも、我慢などする必要はなかったのだ。

 夕亜の護衛をしていては常に後手に回ってしまう。夕亜は非力な一般人ではない。日下部家最高の封術師だ。加えて葛木香雅里も隣にいる。朝彦が目を放しても心配はいらないだろう。

 ――……潰す。

 静かな怒りを内に滾らせ、朝彦は踵を返した。


        ∞


『小娘一匹捕まえるのにいつまでかかってるんだいこのノロマども!!』

「「「申し訳ありません!!」」」

 G・M・H・S・U・D団員たちは通信機に向かって一斉に頭を下げた。

『いいかい? 次に失敗しやがったら死よりも恐ろしい拷問と思いな!』

「「「イエス・マム!」」」

 通信が乱暴に切られる。拷問と言われ、男たちの顔色は真っ青だった。

「……俺、この前アマベル様の拷問受けた奴を見たことあるんだけど」

「どうなったんだ、そいつ?」

「団を抜けて…………MITの名誉教授になった」

「そいつになにが起こったの!?」

「やべぇ、いろんな意味で恐ぇ……」

「俺が俺じゃなくなるってことか? うわぁ、そりゃ死んだのと一緒じゃないか」

 寄り添って体を震わせる男たちだったが、天は彼らに味方した。

「お、おい、これ見ろ!」

 モール内の監視カメラをジャックした簡易モニタに、それは映っていた。

「地下駐車場に対象が一人で迷い込んでるぞ!」

 長い黒髪に白いコートをした女子中学生が困ったように地下駐車場をうろついている。作戦実行中に彼らは何度も何度も確認した。アレは間違いなく日下部夕亜である。

「他に人はいねぇな。チャンスだ! こうなったら結界を使われる前に取り押さえるぞ!」

「「「イエス・マム!」」」

「だからマムじゃねぇよ!?」

 念のため数名を監視に残し、テンションをおかしく跳ね上げた彼らはふざけ合いつつも地下駐車場へと急ぐ。

 監視組の誘導に従い、一階の通路を走る。擦れ違う通行人が忍者服の集団にぎょっとしていたように思えたが、きっと気のせいだろう。『シノービショーゾクー』は万能。

 下りエレベーターの中でぎゅうぎゅう詰めになりながら地下へ降りると、標的はあっさり見つかった。駐車場の片隅でどういうわけか監視カメラを見上げている。が、彼らはそんな些細なことなど微塵も気にかけない。

「(よし、一気に畳みかけよう)」

「(いや待て、相手は迷子なんだ。いきなり野蛮なことはせず店員のフリして近づく方が得策)」

「(それもそうだな。ならお前が行け、アフロの奴)」

「(アフロ舐めんなコラ!)」

 一人選抜されたアフロの団員が抜き足、差し足、忍び足で日下部夕亜へと近づいていく。彼女はずっと監視カメラを覗き見ており、こちらに気づく気配はない。

「どうかされましたか、お客様?」

 覆面の上から無駄に営業スマイルを浮かべ、彼女の肩に手を乗せたアフロの団員だったが――

「おぐっ!?」

 突然腹部に激烈な痛みが走り、彼は堪らず膝をついてしまった。

「なっ? えっ?」

 アフロの団員はなにが起こったのか理解できなかったが、視線をやや上にずらすことで現状を把握する。


 日下部夕亜が肘鉄の構えを取っていたのだ。


「そうか、貴様らか」

 彼女の口から低いが放たれる。

「? ?? !?」

 肘鉄を喰らったアフロ団員はもちろん、後ろに控える他の団員たちもわけがわからず疑問符を浮かべていた。

「フン、なるほど、してやられた。夕亜を狙う結社の連中がそのような目立つ格好をしているとはな。何度か見かけてはいたがノーマークだった」

 サラサラサラ、と日下部夕亜の表面が砂のように崩れ去っていく。

 白いコートは黒いコートに。

 胸の膨らみはなくなり、腰まであった髪もバッサリと短くなる。

 少女だった顔は氷点下の怒りを瞳に宿した男のものへと変貌した。

「お、お前はいつも俺たちの術の被害に遭ってるマヌケなジャパニーズニンジャ!?」

「……」

 日下部夕亜だった男の額に青筋が一本追加される。

「シット! 『ヘンゲノジュツ』か!」

「思い出したぞ! そいつは日下部朝彦だ!」

「ああ! そういえば資料にあった!」

「日下部家のがなんでここに?」

 想定外の異常事態に団員たちが集まってくる。二十人以上に取り囲まれながらも男――日下部朝彦は顔色を一切変えない。

「口を閉じろ。もう貴様らは喋らなくていい」

 アフロ団員の胸倉を掴み上げ、朝彦は気弱な者なら気絶してもおかしくない殺意を込めて言い放つ。


「貴様らの仲間と、頭の居場所以外はな」


        ∞


 ――屋上駐車場。

 通信機の向こうから男たちのけたたましい悲鳴が連続的に響いていた。

 その状況に、G・M・H・S・U・D団のリーダー――アマベルはカタカタと歯を噛み鳴らす。

『お逃げくださいアマベル様ぎゃあああああっ!?』

『ここは我々がどうにか食い止めほぎゃああああああっ!?』

『こ、これがジャパニーズニンジャの力か』

『化け物め……』

 団員たちの声が一人、また一人と秒単位に消えていく。

 ――どういうことだい? 日下部朝彦は、日下部家のくせに封術すら使えない雑魚だったはず……?

 親指の爪を悔しげに噛み、アマベルは考える。

 ――アタシの情報が間違ってたっていうのかい?

 情報が合っていようが間違っていようが、現に団員たちでは全く歯が立たない。

「アマベル様、我々も応援に」

 護衛に残っていた一人が言う。しかし、アマベルは首を横に振った。

「いや、一旦退くよ」

「今戦っている団員たちはどうするおつもりで?」

「変装も見抜けなかったマヌケどもなんて知ったことかい! 食い止めると言ってるんだ! あんなマヌケどもでも数はいる! その間に退いて体勢を立て直すのさ!」

「ではすぐにお車の用意を」

「急ぎな!」


        ∞


 蒼谷市の工業区にある廃工場。その一つをG・M・H・S・U・D団はアジトとして利用している。

 ショッピングモールから撤退したアマベル一党は、鉄サビと古い油の臭いが漂う工場内に集合していた。あの様子からして、置き去りにしてきた部下たちは全滅だろう。だが戦力の全てをショッピングモールに投入していたわけではない。主戦力は寧ろアジトに待機させていた連中だ。

 その『主戦力』に向けて、アマベルは命令を下す。

「想定外の敵が出現した。奴は直にここを嗅ぎつけるはずだよ。その時はどんな手段を使ってもいいから排除しな!」

「「「「ハッ!」」」」

『主戦力』が軍隊よろしく敬礼したその直後――ドゴォン!! 戦争でも始まったかのような爆音と共に廃工場の入口が吹き飛んだ。

「もう来たのかいっ!?」

 アマベルは舌打ちを鳴らして振り返る。と、巨大な穴の穿たれた入口から大量のなにかが投げ込まれた。

 ドサドサとアマベルの眼前に積み上がっていくそれは、ショッピングモールに置き去りにしてきた部下たちだった。

「……申し訳ありません、アマベル様」

「やはり……我々では手も足も出せず……」

「ていうか……この『シノービショーゾクー』意味あったんですか……?」

「アフロ……舐めんな……コラ」


 カツッ。

   カツッ。

     カツッ。


 虫の息になるまで痛めつけられた部下たちの山の裏から乾いた靴音が響く。たった一人だ。どうやって一人で大量の人間をこの廃工場まで運んだのかはわからないが、敵が魔術師である以上、決して不可能ではないだろう。

 ゴクリ、とアマベルは息を呑み込む。

 部下たちの山の陰から黒ずくめの男が姿を現す。

 瞬間、銀色の光が閃いた。

 それがアマベルの眉間を狙った日本刀だと理解した時には既に、刃は回避不可能な距離まで迫っていた。

 ――え? アタシ、死んだ?

 そう本能的に直感したアマベルだったが、日本刀が彼女に刺さることはなかった。

 ガキィン! と金属音が響き、飛んできた日本刀が上方に薙ぎ払われたのだ。

「いきなりトップから狙うとは、些か礼儀がなっていないのであーる」

 例の『主戦力』の一人――口髭を生やした公爵風の男が、両刃の西洋剣を構えてアマベルを庇うような位置に立った。

「……」

 容赦も躊躇も一切なくアマベルを殺しにかかってきた黒ずくめの男――日下部朝彦は悔しがる様子も見せず公爵風の男を無言で睥睨している。奴の周囲では三本の日本刀が規則的に円運動をしており、今し方弾かれた一本もブーメランのように戻ってその軌道へと乗った。

「ほほう、珍妙な術を使うのであーる。それに先程の太刀筋は本物。一つ手合せを願うのであーる」

「感心してないでさっさとやっておしまい!」

 口髭を手で弄りながら余裕ぶっこいている部下をアマベルは叱咤した。彼ら『主戦力』は実力がある分どうも扱いづらい。

「確か日下部朝彦であるな? 私はG・M・H・S・U・D団が誇る『GREAT4』の一人にして――」

 公爵風の男が名乗りを上げようとした瞬間、日下部朝彦はたった一度の跳躍でその間合いを一気に詰めてきた。

「なにっ!?」

 宙に浮く四本の日本刀が様々な方向から公爵風の男に躍りかかる。しかし一斉にではない。僅かな時間差をつけた息もつかさぬ連続攻撃。たった一本の西洋剣で全ての斬撃を防げるはずもなく、公爵風の男は鮮血を撒き散らして瞬く間に傷だらけになっていく。

「ひ、人の名乗りは大人しく静聴するものであーる!」

「……貴様の名になど興味はない」

 甲高い剣戟音が続いたのも数瞬だった。

 日本刀の一本が西洋剣を叩き折り、二本が青ざめる公爵風の男の両太股に生々しい音を立てて突き刺さった。

「ぎゃあああああああああああああっ!?」

 絶叫する公爵風の男。だが大人しく崩れることを日下部朝彦は許さない。突き刺した日本刀を抜き、倒れる公爵風の男に合わせて突き上げるような掌底を顎下に叩き込む。

「ごぎゃっ」

 公爵風の男は弧円を描いて吹き飛んだ。そのまま背中から床に落下し、ピクピクと痙攣するだけで動かなくなる。

「そんな馬鹿なっ!?」

 信じられない光景にアマベルは驚愕した。

「『GREAT4』は団の中でも最強の四人だよ! その一人がこれほどあっさりやられるなんて!」

「「「ご安心を、アマベル様」」」

 腰を抜かしそうになったアマベルだったが、彼女の前に紺色のローブを羽織った男たちが立ち並んだ。フードを目深に被ったいかにも魔術師といった風貌の彼らは、『GREAT4』の残り三人である。

「ククク、あの髭は我ら『GREAT4』の中でも最弱」

「それを倒したからと言っていい気になるなよ雑魚が」

「我ら三人を相手にいつまで余裕が持つかな?」

 ――ザクッ。

 なにかが床に刺さる音がした。

「「「ん?」」」

『GREAT4』の三人が音のした方を見ると、それは日下部朝彦が操っていた日本刀だった。


       ――ザクッ。

              ――ザクッ。

   ――ザクッ。


 二本、三本、四本。浮かんでいた日本刀全部が、『GREAT4』の三人を取り囲むように床に突き刺さっていく。

「「「んんっ?」」」

 刃から刃へと光の線が走り、複雑に絡み合い、一つの魔法陣を描いた。

「「「んんんっ?」」」

 次の瞬間――轟ッ!!

 魔法陣が強烈に輝き、発生した立ち昇る稲妻が三人を一瞬にして黒焦げに焼いた。

「貴様らの中で誰が最弱だろうが最強だろうが関係ない」

 呆気なく倒れる炭化した『GREAT4』の三人を冷めた目で見下し、日下部朝彦は告げる。


「纏めてかかってこい。全員潰してやる」


        ∞


 ショッピングモール内に渦巻いていた魔力の気配が先程ピタリと消失した。

 その変化を葛木香雅里ははっきりと感じ取っていた。

「夕亜、本当はあなたも気づいてたんでしょ?」

「ん? なにを?」

 惚けている風もなく夕亜は振り返る。

「このモール内を包んでいた、微妙だけど異様な魔力のことよ」

「う~ん、まあ、気づいてたけど、そういう時もあるんじゃない?」

「ないわよ、普通」

 夕亜の能天気さに香雅里はげんなりするも、再度感覚を研ぎ澄ませて周囲の魔力を探る。だがやはり、ついさっきまであったはずの気配は全て消えていた。

「もう感じないし、大丈夫なんじゃない?」

「だけど、気になるのよ。なにかの前触れかもしれないし。やっぱり徹底的に調査して――」

 駆け出そうとする香雅里だったが、その腕を夕亜に掴まれて静止した。

「心配いらないよ、香雅里ちゃん」

 今までの無邪気な笑顔じゃない。なにかを悟っているような、安心しているような、そういう類の笑顔を夕亜は見せた。

「きっともう、全部片づいてると思うから」


        ∞


「残りは貴様だけだ」

 浮遊し自在に操れる四本の日本刀と徒手空拳、そして封術ではない戦闘用の魔術を駆使し、朝彦はものの数分で敵組織に王手をかけた。

 朝彦独特の戦闘スタイル――夕亜がふざけ半分で『四刀流拳闘術』と呼んでいる――は、いずれ訪れるだろうヤマタノオロチ戦に向けて研鑽してきたものである。並の魔術師ごときが何人集まろうが敵ではない。

「噂にはなかった化け物っぷりだね、あんた」

 部下が全員叩きのめされて逆に落ち着いたらしいアマベルは皮肉げに笑っていた。

「……フン」

 当然だろう。日下部家は封術師の一族。朝彦のような異端な力は秘匿されている。知る者は日下部家と葛木家、それと連盟の一部だけだ。

「貴様らは連盟に引き渡す。痛い思いをしたくなければこれ以上抵抗しないことだ」

「はん。アタシら全員を叩き潰すんじゃないのかい? まだアタシが残ってるよ?」

 アマベルは忍び装束の懐から指揮棒のような杖を取り出した。魔術師が魔術の補助に使うためのポピュラーな魔導具だ。それを取り出したということは――

「つまり、抵抗するということか?」

「そうさね! こんなところで捕まるわけにはいかないのさ!」

 敵愾心を剥き出しにして激昂し、アマベルは杖をその場で横薙ぎに振るった。すると次の瞬間、廃工場が凄まじい振動に襲われた。窓ガラスが割れ、錆びついた機材がドミノのように倒れていく。

 ――地震を起こした? いや……。

 倒れた機材を筆頭に、廃工場内にあるあらゆる金属がアマベルの元へと集っている。振動を発生させたわけではない。

 ――磁力? いや違う。金属一つ一つに魔術文字が刻まれている。アレは恐らく。

「このアタシが、ただのアジトだからとここに逃げ込んだと思ったら大間違いだよ!」

 金属はアマベルを取り込んで積み上がり、結合し――そして機械仕掛けの巨人へと変化した。

 両腕の先は巨大な切断機。肩からは二台のクレーンが伸びており、溶接機でできているだろう頭部の額には『emeth』の文字列が光輝いている。

「……魔導人形(ゴーレム)か」

 ユダヤ教の伝承に伝わる泥でできた自動人形のことだ。『ゴーレム』とはヘブライ語で『胎児』を意味する。巨大なため力が強く防御力もあり非常に厄介だが、倒し方は簡単だ。額の文字『emeth(真理)』から『e』を消し、『meth(死んだ)』とすれば崩れ去る。

 しかし、その額の文字は別の金属が装甲となって覆い隠されてしまった。

『アタシのゴーレムは普通のとは違うよ! 金属だけじゃなく人工物から作り上げた搭乗型のゴーレムさね! 術者から倒そうだなんて考えは通用しないよ!』

 ゴーレムの口元辺りからアマベルの拡声器でも使ったかのような大声が轟く。額の文字だけでなく術者もあの中となれば、確かにゴーレムとまともに戦う以外の選択肢がなくなるだろう。

 だが――

「それがどうした?」

 朝彦が動じる理由には微塵もならなかった。

「的が分散しない分、都合がいいだけだ」

『なんだって!?』

 朝彦は四本の日本刀を操作し、ゴーレムの両腕両足の関節部の隙間に食い込ませた。いきなり動きを封じられたゴーレムはギチギチと軋む音を上げる。

 床を蹴って朝彦はゴーレムの顔辺りまで飛翔する。掌を立てた構えで右腕を引き、練った魔力を流して強化術式をさらに増強。それから一気に掌打を繰り出す。

 ガコン!!

 対艦ミサイルでも撃ち込まれたような凄まじい衝撃にゴーレムの巨体が仰け反った。そのまま千鳥足で数歩下がり、盛大に転倒する。

『馬鹿な……っ!?』

 驚愕の声を発するアマベル。だが当然、朝彦は転ばしただけで終わりとは思っていない。日本刀を一度招集し、二本ずつに分け、その不規則な軌道で宙空に二つの魔法陣を描く。

「――押し流せ」

 唱えるように指示を出す。すると朝彦から向かって右側の魔法陣の中央に刀が二本突き刺さり、青く輝いた陣から大質量の水が奔流となって射出された。水の流れは倒れた機械ゴーレムに直撃し、廃工場の壁すら貫通させて洗い流す。壁の向こう側はまた別の工場空間だった。

「――はしれ」

 次に朝彦は左側の魔法陣に残り二本の刀を突き刺す。その魔法陣は紫色に輝き、紫電の稲妻がのたうつように壁の向こうのゴーレムへと放出された。

『ひぎゃああああああああああああああああああああっ!?』

 アマベルの悲鳴が木霊する。濡れた後に感電させられてはひとたまりもないだろう。

 ゴーレムの一部が爆発を起こし、黒煙が一気に充満する。術者が気絶したのか、ゴーレムが起き上がる様子はない。

 朝彦はコートのポケットから携帯電話を取り出した。電話をかけた相手は無論、日下部家である。

『朝彦様! よかった、無事だったのですね!』

 電話を受け取ったのはあの分家の女術者らしい。

「例の魔術結社をたった今壊滅させた。連盟に連絡してくれ。場所は――ッ!?」

 朝彦が言いかけたその時、黒煙の中から巨大な質量が吹き飛んできた。朝彦は咄嗟に跳躍して回避する。飛んできたそれはあのゴーレムの肩についていたクレーンだった。

『あの程度で勝った気になってんじゃないよ!!』

 怒りに満ちたアマベルの絶叫が鼓膜を破らんばかりに突き刺さる。黒煙の向こうから重低音を響かせて機械ゴーレムが姿を現した。

「チッ」

 舌打ちし、朝彦は携帯の通話を切る。周りで公転する日本刀に指示を出そうとするが、その前にゴーレムが右手の切断機で薙ぎ払ってきた。後ろに跳んでかわす。

『アタシらの野望のため、あんたに負けるわけにはいかないのさ!』

 着地したところに左足の踏みつけが来る。避けられるタイミングではない。そう判断した朝彦は正拳をゴーレムの足裏に叩き込んだ。

 一瞬だけゴーレムが浮き上がり、その隙に朝彦は離脱する。

「……くっ」

 今ので右肩が外れたようだ。激痛に苛まれながらも朝彦はゴーレムの猛攻を避け続ける。

 刀で魔法陣を描くと大きな隙が生まれてしまう。攻勢が敵側にある内はさっきのようには押し流せない。あの日本刀が葛木家や他の陰陽師の間に伝わる宝剣だったら話は別だが……。

『アタシらはヤマタノオロチを復活させ、その力で世界をいただくのさ!』

 野望を語りながら攻撃の手を休めないアマベルだが、朝彦にとって敵の目的がどうであろうと関係ない。夕亜や日下部家に害となる奴らは殲滅するだけである。

「……」

『どうしたクソガキ? さっきまでの威勢はどこ行ったんだい?』

 切断機の両手が廃工場内を徹底的に破壊していく。朝彦に倒された部下のことなどお構いなしだ。

「たとえ貴様らがヤマタノオロチを復活させ、コントロールできたとしても無駄だ」

 一本の日本刀でゴーレムを刺突する。だがそのささやかな反撃は虚しく腕で払われてしまうだけだった。

『はん! なにが無駄なのさ!』

 また一本、もう一本、最後の一本。

 全ての日本刀を差し向けるも、やはり同じように明後日の方向へと弾き飛ばされてしまう。

 けれど、朝彦の瞳から光は失われていなかった。


「俺がヤマタノオロチを殺すからだ!」


 言い放った瞬間、廃工場内の四ヶ所から眩い光が立ち昇った。それは先程ゴーレムに弾き飛ばされた日本刀が突き刺さった床から放たれている。

『な、なんだいこれは!?』

 四本の光の柱。その中心にいるゴーレムは狼狽するかのようにキョロキョロと辺りを見回す。実際、中のアマベルは困惑しているだろう。

 立ち昇る光はゴーレムの頭上で収斂し、天井を埋め尽くすほどの巨大な魔法陣を描く。

「見せてやろう。ヤマタノオロチを滅殺するための術式、その片鱗を」

『――ッ!?』

 この術はまだ開発段階で本番では使えないが、人間相手に使うとすれば充分に機能する。

 ゴーレムの攻撃を避けながらポイントを見極め、反撃すると見せかけてその地点に日本刀を突き立てたのだ。

 本来は地脈からのエネルギーを利用する術だ。が、土地には多かれ少なかれ魔力がある。刀を通じてそれを吸い上げ、術式に流し、魔術として具象させる。


 ヤマタノオロチ滅殺術式――〈天羽々斬あまのはばきり〉。


 ゴーレムの頭上に描かれた魔法陣から、十の刀身と十の柄を持つ光の剣が出現した。

『なんだいこれはぁああああああああああああああああああっ!?』

 アマベルは抵抗しようとゴーレムの腕を伸ばすが、光の剣に触れた瞬間、その腕は蒸発して跡形もなく消え去った。

『ふざけんじゃないよ! アタシは! アタシは世界を――』

 アマベルの断末魔は最後まで続かず、ゴーレムは蟻が象に踏みつけられように呆気なく押し潰された。


        ∞


「悪運の強い奴だった」

 夕刻、日下部家宗家に帰宅した朝彦は客室で分家の女術者に事後報告を行っていた。

 アマベルのゴーレムは消し去ったが、アマベル自身は運よく〈天羽々斬〉の隙間にいたらしく、無傷とはいかないまでも致命傷は負わなかった。的の小さい人間相手ではやはりそこが欠点になってしまう。もっとも、人間相手に使う術ではないため改良するつもりはないが……。

「連中は、世界を手にしてどうするつもりだったのでしょう?」

「知らん」

 あいつらは結局ただのアホ集団だった。それを真面目に相手しようとしていた朝彦がマヌケに見えるくらいに、だ。世界征服の理由なんてあるかどうかさえ怪しい。

 ただし、人を辱める天才だったことだけは認める。今日という日は記憶の中で永久に封印すると決めた朝彦だった。

「あっ、お兄ちゃんここにいたんだ!」

 ガラガラと障子戸が開かれ、妹の夕亜が天真爛漫な笑顔を咲かせて部屋に入ってきた。

「どうした、夕亜?」

 表情はいつものように硬い朝彦だが、その口調は幾分か柔らかかった。

「では、私はこれで失礼します」

 分家の女術者が空気を読んで退室する。それを見届けてから、夕亜が切り出した。

「えっとねえっとね、お兄ちゃんに渡したい物があるの」

「俺に?」

 夕亜はとててと室内なのに小走りで朝彦に近づくと、後ろ手に隠していたなにかを朝彦の首にそっとかけた。

 黒色をした、新品のロングマフラーだった。

「夕亜、これは?」

「お兄ちゃんへのクリスマスプレゼントだよ。メリークリスマス♪」

「は?」

 夕亜がなにを言っているのかわからず、朝彦はポカンとする。そういえば今日はクリスマス・イヴであるが、日下部家にとっては関係ない話だ。

「個人でクリスマスをやっちゃいけないなんて掟はないでしょ? せっかくこんな楽しいイベントがあるんだもん。乗っからないと損だよね? ――あれ? もしかしてお兄ちゃん、朝起きた時に枕元に置いてあった方がよかった?」

「いや……」

 軽く首を横に振り、朝彦はロングマフラーに触れる。そこには確かに妹の温もりが感じられた。

「だよねー。お兄ちゃんが寝てる間に忍び込もうとしても、すぐ起きちゃいそうだし」

 朝彦の部屋に意識を強く向けられただけで目覚める自信はある。

「それとねそれとね! もう一つ言いたかったことがあるの!」

 夕亜はそう言うと三歩ほど後ずさり、上半身を僅かに屈めて上目遣いで口を開いた。


「今日は、ありがとう。お兄ちゃん」


「……?」

 言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

「夕亜、お前……」

 気づいていたのか? そう言おうとして、朝彦はやめた。この話はもうお終いというような空気を夕亜が出していたからである。やはり彼女には敵わない。

 フッ、と朝彦の口元が緩んだ。

「お兄ちゃん、もしかして今、笑った?」

「いや」

「ううん、絶対笑った! あー、勿体ないことしたなぁ! もっとしっかり見てればよかったよー」

 人を日食や獅子座流星群と同じように言う妹に対し、朝彦は心の中で苦笑することしかできなかった。

「夕亜」

「うん? なに?」

「プレゼントを貰っておいて悪いんだが――」

 朝彦は済まなさそうに少し言い淀み、夕亜の目を直視できないまま告げる。

「俺からのプレゼントは、ない」

「えーっ」

 明日、朝一で買いに走ることを決意する朝彦だった。

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