夢叶え橋―――島田・夢の吊り橋

夏子

第1話

「シマダ?」

「そう、島田。静岡県島田市」

アカネはそういって長いロングヘアを両手で束ねアップにしてみせた。アップスタイルも可愛いな、朴はひそかに思った。アカネの髪からふわり、と甘い香りがした。

「こんな髪型。島田髷っていうのよ」

「ああ、ゲイシャ?」

アカネはまぁそうね、と曖昧に頷いた。

アカネの生まれ育った島田には大井川という大きな川が流れているという。家康イエヤスという将軍ショウグン江戸エドへ攻め込めないために橋を架けなかった。そのため、大雨が降ると旅人は長逗留を余儀なくされ、両岸では当然のごとく花街が繁栄し、その花街の芸者ゲイシャが考案した新しい髪型が島田髷シマダマゲだという。

「きれいなところ?」

「きれいなところだよ、いつか朴さんもいつかぜひ来てほしいな」


朴がソウルの地下鉄でアカネに出会ったのが3年前の夏。

アカネは日本から休暇を利用してソウルに来ていた。初日にタクシーで東大門トンデンモンと指定したのに独立門トンニンムンに連れていかれてしまったため、すっかりタクシー不信に陥り、地下鉄を使うことにしたが、ソウルの地下鉄は田舎育ちのアカネには複雑すぎたそうで、乗り換えが分からなくなった挙句、駅員に英語も日本語も通じず、困っていたところを出くわしたのが朴だった。

「助けましょうか」

日本に向けた輸出ビジネスをしたいと思っていた朴は勉強中のたどたどしい日本語で目の前で困り果てている日本人の女の子に話しかけた。買いこんだお土産なのか、両手いっぱいにものすごくたくさんの荷物を持っている。

「ホテルに帰れなくなっちゃって」

今にも泣きだしそうなアカネ。どうやら市街地の外れの小さなビジネスホテルに泊まっているらしい。家に帰宅する途中だった朴とは反対の方向だったが、アカネに強い興味を持ち、ホテルまでアカネを送り届けた後、翌日からのガイド役を買って出たのだった。


結局食事を奢るという約束で食事や観光に付き合った。アカネは2泊3日の旅行を終え、日本行きの飛行機に乗った。


アカネからもらったメールアドレスと「アカネ」という名前ファーストネームしか知らない。何度かメールしてみたが、返事はなかった。


朴だって、決してモテないわけではなかった。でもアカネの韓国の女の子とは少し違う、静かで優しい雰囲気。一点の曇りも影も見当たらない控えめだけど明るい笑顔。

そして、最終日に握ったアカネの小さな手のぬくもり…

アカネの残していったものが朴の心に残り、もう一度どうしてもアカネに逢いたいという思いが募った。

メールも返してくれない相手を追って日本まで行く自分を笑いたければ笑うがいい。

アカネの言っていた、島田髷というのを見てみたいと思ったし、日本へのビジネスのためには足掛かりを作っておきたいというちゃんとした大義名分もあった。

そして3年目の秋、アカネの言っていた「シマダ」と「島田髷シマダマゲ」だけを頼りに日本への旅行を決めたのだ。


静岡空港からバスや電車を乗り継ぎ、島田に向かった。

大井川鐡道という電車トレインが1時間に1本あるかないか。そして、その電車トレインも牛のようにゆっくりと力強く客を運ぶ。実にゆっくりと時間が流れている場所なのだと思った。ごみごみしたソウルに比べたら、驚くほどシンプルな街。茶畑と大井川が流れる美しい街。朴は電車や茶畑を写真に納めながら、ゆっくりと街を散策した。乗り合わせた電車の中や町中、店の中で女性を見かけると必ず目で追った。しかし、アカネにも島田髷シマダマゲの女性に出会うことはなかった。いよいよ旅の最終目的地と定めた、ガイドブックにある「寸又峡夢の吊り橋」に向かった。橋の真ん中で祈ると「願いが叶う橋」という橋。朴はここに行けばアカネに会えるはずだと勝手に確信して、細く長く続く橋までの山道を歩く。


橋まで着て、息をのんだ。

足元遥か下の湖面はエメラルドグリーンに輝き、木々は燃えるような紅や黄に彩られている。世界の絶景ランキングがあったらここはその1つに入れられてもいいだろう。すれ違うことのできないほど細い吊り橋にそっと足を乗せる。静寂の中に鉄製のロープが軋む音だけが響く。空気が透明で風がない。ここだけ違う空気が流れていることを肌で感じた。


ゆっくりと橋の中央まで来たとき、朴は立ち止まって目を瞑った。

そして真っ白な心でアカネのことだけを考えた。ただ、アカネに会えることだけを強く祈った。

「アカネ―――」

どれくらい時間が過ぎただろう。

「朴さん―――」

自分を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がした。まさか、と朴は思った。3年前アカネを乗せた日本行きの飛行機は墜落し、生存者は一人としていかなった。この3年血眼で情報を収集してきたのだから間違いない。でも、もしかしたら。朴の胸は持ち主の意思に反して高鳴り、足元が震えだす。朴は吊り橋のロープを強く握りしめ、ゆっくりと声のする方を振り返った。










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夢叶え橋―――島田・夢の吊り橋 夏子 @flowyumin2006

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