其の四 滲んだ月 ― 平家物語に主題を借りて ― 弐

 ここは長門国赤間関壇ノ浦、宵闇に月が白く浮かんでいる。海は穏やかで波の音しか聴こえてこない。

 墨色すみいろの法衣を着た僧侶がひとり海に向かい、座禅を組み静かな声で経を読んでいた。まだ若い僧侶のようで背筋が凛としている。


 寿永二年七月、源義仲に攻められた平家は安徳天皇あんとくてんのうと三種の神器を奉じて都を落ちる。源氏の攻勢の前に西へ西へと追いやられた平家は、一ノ谷の戦いで大敗を喫して、海に逃れ讃岐国屋島と長門国彦島でまさに背水の陣を敷いていた。平家の総大将は清盛の四男平知盛たいらのとももり、一方の源氏の総大将は源義経みなもとのよしつねであった。

 ついに平家一門の終焉地の壇ノ浦。

 敗戦を悟った知盛は、安徳天皇が乗る御座舟ござぶねに飛び乗り、最期の時が来たことを一門の者たちに告げた。その言葉に死を決意した二位尼は、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。

 幼い安徳天皇が「どこへ行くのか」と祖母に尋ねれば、二位尼「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに波間に身を投じた。

 続いて建礼門院てんれいもんいんら平家一門の女たちが次々と海に身を投げる。

 武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛ら、主だった平家一門の者は皆入水した。

 平家の総大将知盛は「見るべき程の事は見た」とつぶやくと、鎧二領よろいにりょうを身に着けた。入水した後に浮かび上がることを屈辱として、さらに錨と共に海中に深く沈んだ。


 壇ノ浦の海底には、安徳天皇や平家一門の御霊みたまが眠っている。


 僧侶は経を読み終えると、被っていた編笠を取り、代わりに傍らに置いた琵琶を膝に乗せ、絃を掻き鳴らしながら凛とした声でうたいい始めた。

 その声には哀愁が籠められて、聴く者の心に哀しみの雨を降らす。この僧侶は誰であろうか。平家ゆかりの者かもしれぬ。だが、源氏の平家狩りは厳しくわずかに生き延びた残党たちは深山に分け入って、その身を隠しているらしい。――立派な身なりの僧侶である。

 ふと、僧侶は背後に気配を感じる。振り向けば、萌黄匂もえぎにおいよろい鍬形くわがた打ったかぶとを被った若武者が立っていた。


「誰ぞ」

「――久しゅうございまする」

「そなたは敦盛あつもりではないか」

「美しい月ともの哀しい琵琶の音に惹かれて、冥土より舞い戻ってまいりました」


 平敦盛は平清盛の弟である平経盛の末子で、ぬきんでた笛の名手であり、鳥羽院より賜りし『小枝』という名器を父より譲り受けていた。

 十七歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、馬で海に飛び込み助け船で沖に逃げようとしたが、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。

 卑怯者と呼ばれ恥辱と思った敦盛が取って返すと、剛勇の武将直実はすばやく馬から組み落とし、敦盛の上に馬乗りになり首を斬ろうと兜を上げると、まことに美しい若者の顔を見て驚き躊躇ちゅうちょする。

 直実は敦盛を助けようと「いかなる身分の方であられるか。名乗らせ給え、それがしがお助け申し上げましょうぞ」と名を尋ねるが、敦盛は「私はお前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に見せよ。さあ早く首を取れ」と答えた。

 あまりに無残と直実は涙ながらに敦盛の首を落とした。


「一ノ谷で討ち死にした、そなたとこんな所で再会できようとは……」

「久しぶりに、この『小枝』を吹きたく。この世に戻りました」

 そう云うと、敦盛は錦の袋に入れた笛一管を取り出した。

「そうか、ならば今宵は存分に奏でようぞ」


 ふたりは琵琶と笛で美しい音色を奏でていた。まるで幽玄の世界のように、その音は闇に吸い込まれて、波間へと消えていった。


「――どのは、出家なされたのか」

「敦盛、わが名を呼ぶな、その名は捨てた。妻子を捨て、都を捨ててきたのだ。わが父平頼盛は一門を裏切った男よ。その子のわたしはそれを恥じて出家したのだ。父は昨年亡くなったが、平家が滅亡した日から、毎夜、父の夢枕に平家の亡霊が現れてうなされ、最期は半場はんば狂い死にであった――」

「そうか、頼盛どのの兄弟はみな討ち死にしたゆえ。わが父、経盛も壇ノ浦に没した。平家の男は一門とともに散ったのだ」

「……それを云うな、父やわたしは見苦しく生き延びた。今や慙愧ざんきの念でいっぱいだ」

「命のあることを喜びなされよ」

 死者の敦盛からみれば、生きていることの方が羨ましいのだ。


「我が祖母池禅尼が頼朝公の命乞いさえしなければ、伊豆に流した頼朝が北条家と結託して挙兵せずにすんだ。――皮肉なことに、そのお陰で我が一家は平家なのにお咎めなし、鎌倉幕府の庇護を受けているのだから……」

「もう、よいではないか。それよりも琵琶の腕が上達なされた」

「そうか、琵琶はそなたの兄上経正どのに教えを乞うた。経正は琵琶の名手だったが、あの方も一ノ谷の合戦で命を落とされた。平家は武士なのに楽器の才に秀でた者が多い。殿上人てんじょうびとの真似をしている内に、武士としての気骨きこつさを失くしてしまったやも知れぬ」

「わたしも剣よりも笛の稽古ばかりしておったゆえ……」

 敦盛がはにかんだように笑う。月の光に映えて美しき横顔であった。


 敦盛の父平経盛は歌人として歌壇では大い活躍した。兄の経正は管弦に長じ琵琶の名手としてその名を馳せた。敦盛もまた笛の名手である。武士の家系にあって文人の血の方が濃い。


「――そう云えば、大相国だいしょうこく清盛どのが生きておられた頃は、平家の公達どもが六波羅ろくはらの屋敷につどいて、碁を打ったり、歌会をしたり、蹴鞠などして毎日遊び呆けておった」

「まことに華々しい日々であった」

 当時、都では「平家にあらずんば人にあらず」と囁かれるほど平家の絶頂期であった。

「あの栄華が末代まで続くと思っておったが、大相国どのより先に嫡男の重盛どのが亡くなられてから平家に暗雲が立ち込めたようじゃあ、重盛どのは公家たちの信望が深かった」

「ふむ……」

「後の平家には一門の長として指揮を執るほどの才覚を供えたものがおらなんだ、それが此度の敗因やもしれぬ……」

「――今さら云ってもせんなきこと」


 死者の敦盛の方がいさぎよい。彼は笛を唇にあてるとゆっくりと音色を奏で始めた。その音に惹かれるように僧侶もまた琵琶にばちをあてて絃をつま弾く。再びふたりは時を忘れて音を奏で始めた。それを聴いているのは天上の月だけだった――。

 うつくしい幽玄の奏では、壇ノ浦に眠る平家一門の御霊をも弔っていた。


「なあ、敦盛」

 撥を止めて、横を向くと隣に座っていたはずの敦盛の姿がない。

「黄泉の国の還られたのであろうか」

 僧侶は琵琶を抱いて砂地から立ち上がると、天を仰ぎみて敦盛に別れを告げた。――そして誰に言うともなく、ひとりごつを云う、

「あれほどに栄華を誇った我ら平家一門が何故に儚く消え去ってしまったか、分からぬが……ただ、わたしは平家の生き残りとして、一門の弔いがしたい」

 僧侶の声に答える者もなく、白い月がぽっかりと浮かんでいるだけだ。その声は潮騒に掻き消され波間を漂い、壇ノ浦の海に沈んでいく。蝶紋ちょうもんの家紋が付いた錦の小袋に撥をしまうと、再び天を仰ぎ見た。

「月が滲んでいる」

 僧侶の目には月がぼやけて映っていた――。


 若い僧侶は琵琶を片手に諸国を巡り、哀しい平家の物語を弾き語った。やがて、琵琶を弾奏しながら物語などを謡う、この僧侶のことを人々は『琵琶法師びわほうし』と呼ぶようになった。

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