其の三 吉兆の猫
「まことに
不機嫌そうな乳母の声が瑠璃姫の居る、
乳母の機嫌が悪そうだと思っていたら、どかどかと瑠璃姫の御簾に乳母が入ってきた。
「姫君! なぜ、
「乳母や、猫に手荒なことをしてはなりませぬ」
「弾正尹の少将から、私へ文がきて《姫君は気位が高くて、とてもお相手が務まりません》と断られてしまったではありませんか」
「あの男の馬面は嫌いじゃ……」
「そんなことばかりいっているから……」
その後につづく言葉を吞み込んで、呆れたように乳母が溜息を吐いた。
それゆえ、都より遠い琵琶湖を望む、瀬田に屋敷を構えることになった。瑠璃姫が生まれて、瀬田の長者の娘が
乳母は田舎育ちだったが、若い頃、都で貴族の屋敷に奉公したことがあり、都育ちの女主人を尊敬し憧れていた。七歳の時に母君が亡くなってからも、ずっと瑠璃姫の側で世話をしてくれたのだ。乳母は朗らかで活発な性格、姫君にはきびしいが情の厚い女である。
「また、そんな
瑠璃姫の膝の上のでは真っ白な猫が眠っていた。
屋敷では穀物や衣類などを鼠の害から守るために通常五、六匹の猫を飼っているが、その内で銀波は姫君の一番のお気に入りだった。かれこれ齢十五になる老猫である。
「そんなことより銀波が心配じゃあ、餌も食べないで寝てばかり……このままでは……」
姫君はしくしくと泣かれた。
「その猫はもう寿命でございます。それよりも年頃の姫君の元に通ってこられる公達がいないことの方が……乳母には悲しゅうございます」
乳母も
瑠璃姫を殿上人の北の方にして、京の都にかえるのが乳母の夢だった。そのために姫君を美しく聡明に育てあげたのだ。しかし当の姫君は殿御には興味がなく、尼にでもなって母君の御霊を弔いたいと思っていた。
あんなに具合の悪かった銀波が突然消えてしまった。
屋敷中どこにもいない、侍女たちが外まで捜しにいったが見つからない。猫は死期が迫ると、どこかへいってひっそりと死ぬといういい伝えがある。それでも諦め切れない姫君だったが、ある夜、こんな夢を見た。
――夜明けの湖畔、朝霧の中を姫君が歩いていると、真っ白な狩衣姿の公達が現れて、
「お世話になりました。どうか私のことは捜さないでください。とうに魂は天に召されているのです」
「お前は……、もしや銀波か?」
「さようでございます」
瞳は美しい金目銀目だった。
「銀波は
そう告げて、姫の前からすーっと消えていった。――そこで目を覚ました姫君は、銀波の死を確信して涙を零した。
傷心の姫君の元に立派な公達が通ってこられるようになった。
この度の
塗籠の中で、兼通が姫に不思議な話をきかせた。
瀬田川に舟遊びにきたが、陰陽道の
毎日、所在なくしていたら、一匹の白い猫が現れて、毎日兼通のことを見ていたという。ある日、「自分についてこい」といわんばかりに、にゃーにゃー鳴いて呼ぶのだ。白い猫は兼通の前を歩き、時々立ち止まって、ついてきているかたしかめながら歩く、そして猫に案内されたのが、瑠璃姫の住む屋敷だったというのだ。
その白い猫の眼は金目銀目だったという。――もしや銀波の御霊なのかもしれない。
やがて瑠璃姫と乳母は生まれ故郷の
瀬田の姫君の玉の輿は京童たちの口の端に上がって、
これが吉兆の猫、銀波の結んだ
***********************〔 参照 〕*************************
弾正尹(だんじょうのかみ) ― 律令制度における弾正台の長官( かみ)である。従三位相当。職務として、非違の糾弾、弾劾を司る。
近江国瀬田(おおみのくにせた) ― 現在の滋賀県大津市瀬田、瀬田唐橋(せたのからはし)で有名な土地。
近衛大将(このえのだいしょう) ― 日本の律令官制における令外官のひとつ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。
中宮(ちゅうぐう) ― 日本の天皇の妻たちの呼称のひとつ。
北の方(きたのかた) ― 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
悋気(りんき) ― ねたむこと。特に情事に関する嫉妬。やきもち。
式部大輔(しきぶのたゆう) ― 日本の律令制の官職のひとつ。式部省の式部卿に次ぐ地位だった。
塗籠(ぬりごめ) ― 土 などを厚く塗り込んだ壁で囲まれた部屋のこと。初期の寝殿造りでは寝室として使われ た。
方違(かたたがえ) ― 外出または帰宅の際、目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けた。
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