第16話 ヒロトの成長

 練習試合は午後二時から釧路湖陵高校のグラウンドで行われる。美織は先に行って部活に少し顔を出すと言ったので、僕達は校門前で二時十分前に待ち合わせをした。

 僕はまた特に冴えない服装で待ち、美織は例の制服姿で時間通りに校門前まで来てくれた。美織は校内でもいつもと変わりなく手をつないで僕をグラウンドの方へ引っ張っていった。昔から他人の目を気にするような子ではなかったが、僕が彼女のいちばん気に入っているところはこういうまっすぐな性格のところかもしれない。

 熱心な父母がちらほら観戦に来ていた。湖陵の生徒もそれなりに集まっていた。僕は来る途中の量販店でレジャーシートを買ってきていたので、練習試合の邪魔にならない芝生の上に敷いてそれに座って観戦することにした。

 葵が美織に気づいて手を振ってきた。彼女は野球部のマネージャーとして忙しそうにキビキビと動いていた。対戦校は釧路工業高校で、どうやら夏の地区予選で敗退した両校は既に三年生が抜けて一、二年の新チームのようだった。両校の練習も終わり選手が整列し出した。両キャプテンが審判役の先生と何やら話してお互いに挨拶をして試合が始まった。僕は対戦校のキャプテンが気になって目を凝らした。

「なあ、あれってヒロトか?」と僕は美織に訊いた。

「いやあもう!驚かそうと思ってたのに。やっぱりわかるのね」と美織は言ってとても悔しがった。

 やはり対戦校のキャプテンはヒロトだった。身長は一八五くらいありそうだった。背が高いのはあの頃のままだが、全体的にスマートになっている印象だった。顔立ちも精悍になり男前になっていた。僕と美織と葵、それにヒロトがこのグラウンドに集まって六年ぶりの奇妙な再会を果たしていた。

 釧路工業の初回の攻撃は二番バッターが出塁し、三番バッターの併殺崩れでツーアウトながらランナーが一塁に残った。四番バッターがヒロトだった。

 ここまで見た限りでは、特に強豪校でもないと思われる一、二年生の練習試合なので、投手の球威もバッターの振りも内野の連携も甲子園で活躍するチームとは比にならなかった。

 さてヒロトの番だ。

 ワンエンドワンからジャストミートした打球が左中間を割って、先制のタイムリーツーベースヒットになった。素人目に見ても振りの速さ、打球音、打球の速さがワンランク上の選手であるのは一目瞭然だった。僕は自然と拍手を送っていたが、周りの湖陵生の手前すぐにそれを控えた。次の打者はセカンドゴロでチェンジとなった。

 ヒロトのポジションはサードだった。ヒロトがあの頃好きだった掛布と同じ四番サード。ヒロトはあの頃の憧れの選手に一歩一歩近づいているように思えた。それがまた羨ましくも思えた。

 試合は新チームの練習試合らしくミスも多く、また双方に作戦やサイン、守備位置や連携を色々試しながらやっているのも見て取れた。公式戦ではないので勝ち負けだけでなくそういう目的もあるのだろう。

 ヒロトの次の打席ではグラウンドの誰もが注目する存在になっていた。その打席で単打を放ち、三打席目で一打席目と同じようなツーベース。これは二点タイムリーになった。四打席目は四球だった。試合は八対三で釧路工業が勝った。八点のうち三点がヒロトによる打点だ。

「いい選手だよヒロト。レベルが全く違う」

「そうみたいね。葵もそう言ってた。私にはよくわかんないけど。……ねえ、終わっちゃったけどもう少しここにこうしてよ」

「もちろん。気温も日差しもちょうど良くて気持ちいいよ」

 ヒロトはキャプテンとしてチームをまとめて忙しそうだった。部活動の最中だしどう見ても今日は話すチャンスはなさそうだった。

「今日のヒロトみたいに何かに打ち込んでいる姿はかっこいいな。輝いていた。正直少し妬けたよ。僕にはそういうものが何もないや」と僕はぽつりと言った。

「そんなことないわよ。亮くんにも札幌に戻れば打ち込んでいるものがあるはずよ」

「それがそうでもないんだよ。ただ学校行って、帰ってきて、生活のあれこれやって終わり……」

「……何か悩んでるの?最近ずっとおじいさんと一緒だし」

 僕はその質問には答えなかった。自分でも今自分自身がどうなっているのかわからずに混乱していたからだ。

 試合が終わって観戦していた生徒達は皆校舎の方へ戻っていった。両校の野球部員は荷物を運んだり、グラウンドの整備や備品の後片づけを始めていた。

 僕は頭の後ろで両腕を組んでそのまま後ろに寝ころんだ。

 夕方が近づきつつある太陽は力を失った弱い光を僕に浴びせた。まるで輝き眩しいスポットライトはお前にはあてないと言っているかのようなとても弱い光だ。今日のヒロトはいちばん輝く強いライトで照らされ、またその期待に応えて大活躍した。僕は観客席の片隅でただそれを眺めているに過ぎなかった。僕はあの頃の親友の成長に嫉妬していた。自分自身に嫌気が差していた。

 美織は僕を覗き込んだ。

「話したいことがあったら言ってね。ただ隣で聞いてあげることなら私にもできるから」と言って顔を近づけてキスをした。

 僕はただ頷いた。

 美織は恥ずかしそうにすぐ立ち上がって僕に手を差し伸べてきた。僕は美織の手を握って引っ張られて立ち上がった。

「さあ行きましょ」と美織は言った。

 僕は頷いてレジャーシートを折り畳んだ。美織と僕は葵に声をかけて手を振った。ヒロトは他の部員達とグラウンドを均している最中だった。

 美織は少し早いけど美味しいピザ屋さんがあるから行こうと言うので、僕達は歩いて駅前の繁華街を目指した。

 こうして二人で歩いていると僕の心は自然と満たされ、ただこうしているだけで全てがうまくいき幸せなのだという錯覚に陥っていた。それは僕にとっては(美織にとってもだが)初めての恋愛だったし、六年間も思い続けた人なのだから今はこの幸せの絶頂を『二人だけ』で感じ合うのはいい。ただこれだけでは駄目だ。ヒロトに向けられたようなスポットライトは今の僕には向けられることはない。誰もが大きなスポットライトを浴びることはできないのはわかっている。でも僕は死んだ目をした大人達にはなりたくない。たとえ小さなことでも打ち込めるものに生き生きとした目をした大人になりたい。僕自身が納得のいく小さなスポットライトでいい。僕がおじいちゃんと一緒に行動してわかったことはたぶんこういうことだ。


 それから僕達はピザを食べ、たわいもない話をしていつものように二人だけの時間を楽しく過ごした。店を出て通りを歩いていると突然男に声をかけられた。それはホタル丘で会ったあの牛島という男だった。

「やーっぱり、あの時のガキどもか。しっかしあの時といい今といい、間が悪い時に出くわすもんだ。ゆっくり話してえことがあるのによ。今も兄貴に呼ばれてるもんでな」

 と牛島は一人で勝手に喋っていた。僕は美織を後ろに回らせた。

「僕達も急ぎますから失礼します」と言って僕は踵を返した。

「まあ待てよ、おめえらにもアレが見えるんだろ?ちょいと協力してくれねえかな?悪い話じゃねえ」と牛島は言って肩を組んできた。

「僕達はあなたのやっていることに協力する気はありません。斉藤さんも言ってたでしょ。あそこに入るのは危険です」と僕は言って肩を組んできた牛島の腕を払った。

「さては爺さんが余計なことを吹き込んだんだべ。まあいいや。時間がねえから説明抜きで言う。あそこで見たことをちょっと教えてくれるだけでいいんだ、今年のプロ野球はどこが優勝するとか、次の首相は誰になるとか、いつどこで火山が爆発するとか、一人より三人の方が情報は増える。これからは情報の時代よ、わかるべ?お前達にもバイト代出してやるからよ」と牛島は言って胸ポケットからセブンスターを取り出したが、自分が急いでいる最中だと気づいたのかまたすぐにしまった。

「あなたが橋を進んで未来を見て何かに使っているのは想像できます。でも僕達はそんなことする気はありませんし、協力する気もありません」と僕はきっぱりと断った。

「おうおう生意気言うね。痛い目に遭わないうちに協力すべきだとお兄さんは思うが……。おっとやべえ、マジで時間ねえ。またそのうちな」と牛島は言って繁華街をジャラジャラと音を鳴らしながら走っていった。

「ねえ、橋を進むと未来が見えるの?」と美織は僕に訊いてきた。

「おそらく。……母さんも幼い頃にあの橋で未来を見て十一歳の僕が橋を渡るのを助けたんじゃないかと思ってる」

「そんな……」

「とにかく斉藤さんの言うように牛島に関わるのは止そう」

「そうね、あの人私怖いわ……」

 僕達は一抹の不安を感じながら家路についた。


 帰宅後、八時頃におじいちゃんの家に来客があった。

 おばあちゃんが僕の友達だというので、美織なら上がってくるし変だなと思って玄関へ行った。

 ヒロトだった。

 僕達はお互いに名前を叫びながら抱き合った。僕はおばあちゃんにちょっと出てくると言って上着を羽織って表に出た。いつもの公園が明日の夏祭りで使用されるため、僕達は別の小さな公園まで行った。

「生きてたみたいだな」

「もちろん生きてるよ。あの時は心配かけてすまん」と僕は行方不明事件のことを謝った。

「何言ってるんだ。大変だったのはそっちだべ。もうこっちに来ても大丈夫なのか?」

「まあなんとかね」

「そうか。……それより今日練習試合見に来てたべ。栗原にも彼氏ができたのかって思って見てみたらリョウタなんだもんな。もうびっくりしたよ。……まあ彼氏ってのも間違いではなさそうだったけど。つき合ってるんだべ?」

「……うん。こっちに来てから」

「あの頃のオレの勘は当たったってわけだ。よかったな。応援するよ。……アオイも久しぶり見たけどかわいかったな」

「今も葵のこと好きなのか?」

「……まあね。でも結局中学でも告白することはできなかった。その頃向こうには彼氏がいたし、それにオレは野球部でこんな坊主頭だから格好悪いしな……やれやれこんなこと話せるのリョウタだけだ。不思議だよ」

「なあヒロト、男の僕が言うのはおかしく聞こえるかもしれないけど、今日の試合でのヒロトはすごく格好良かった。誰よりも輝いていたよ。結果も良かったけどああいう真剣な姿に女子も惹かれるんじゃないか?ましてや野球部のマネージャーならお前がどれほどすごい選手なのかは見ればすぐわかるだろ。僕はなぜだか君に嫉妬したくらいだ」

「そう言ってもらえると嬉しいな。まあバッティングに関しては俺も自信はある。本当は強豪校に進みたかったけど色々事情もあって公立の高校へ進んだんだ。今日は練習試合だし相手も強いわけじゃないから最低でもあれくらいはやらないと上には進めない」

「いいな。目標を持って熱中できるものがあるのは……」

「リョウタは何もやってないのか?」

「残念ながら胸を張って言えるものはない」

「そうか……見つかるよ必ず」

 それから三十分ほど僕達は語り合った。大した話じゃない。あの頃語り合ったようにただ二人で話していただけだ。僕はひとつだけ彼に言いたくても言えないことがあった。それは四人で花火大会を見る計画をしたあの日のことだ。もしできることなら六年越しにそれを実現させたかった。でも人間関係も広がってしまった今ではそれも難しいのだろうと思っていた。特に葵に関してはかなりの率で彼氏がいるはずだし、またそうでなくても、他の男子が彼女を花火大会に誘わずに放っておくわけがないと思っていたからだ。公園で毎日一緒に遊んでいた頃とはもう違うのだから。

 それにしても僕は自分自信が情けなく恥ずかしかった。ヒロトには目を輝かせて情熱いっぱいに語れることがあった。先のことなんてものは誰にもわからない。でも彼は綺麗な蝶となり羽を広げ大空へ飛び出していた。もっと大きな夢を掴むために。僕はといえば羽化もしていない蛹だ。いや蛹なんてものじゃない。まだ芋虫だ。十一歳のままの芋虫だ。

 六年後に会った親友から教わったことは友情の絆でも懐かしい思い出の大切さでもない。この現実の差だ。完全に見ている方向が違う自分が恥ずかしくてしょうがなかった。


 僕達は札幌に戻る前にもう一度会うことを約束してから公園を後にした。

 ヒロトに手を振って別れた直後、正面から背の高い男がジャラジャラと音を鳴らしながらこちらへ歩いてきた。

 牛島だ。

 見るからに酔っているのがわかった。脇には例のノートを抱えていた。ホタル丘からの帰りだろうか。関わりたくない相手だがすぐに気づかれてしまった。

 昼間の目つきとは明らかに違った。まるで苛立ちと怒りが宿っているような目つきだ。

「へっへっへ。またお前か……。おめえらのおかげで昼間は兄貴に遅えって殴られるわ、いいネタ持って来いだの散々だ。こんな夜に丘の上まで……」

 彼の苛立ちの矛先が僕に代わるのに時間はかからなかった。

「おう!わかってんだろうな!」

 と牛島は酒臭い息で言うと、僕の胸ぐらを掴んで、右の拳で殴ってきた。さらに僕が蹌踉めいたところを膝蹴りで腹を突き上げた。酔っているせいもあるだろうがそこまで強烈なものではない。

 まだ遠くまで行っていなかったヒロトが騒ぎに気づいて戻ってきた。

「おいおい何やってんだ!」

 ヒロトは大きな体で牛島に体当たりした。さすがに牛島も飛ばされアスファルトに手をついた。

「……なんだこのガキ」と牛島は鋭い目つきで威嚇した。

「やめろヒロト!お前は駄目だ。大丈夫だから」

「何が大丈夫なんだ!リョウタ殴られてたべ」とヒロトは言って僕の前で仁王立ちになって牛島の反撃を警戒した。牛島も背の高い男だが、ヒロトはそれ以上に高く体もがっしりしていた。

「お前は手を出すな。騒ぎになって野球部に迷惑がかかったら大変だ」と僕は言って今にも殴りかかりそうな目をしているヒロトを制止した。

 牛島は立ち上がって首を左右にコキッ、コキッと鳴らして僕の前に立ちふさがるヒロトを一瞥し、すぐに下を向いてニヤリと笑った。

「……けっ、ガキどもが熱くなりやがって。そのデカイのも相手じゃ分が悪そうだなこりゃ。……ちっ、すっかり酔いも醒めちまった。……おい小さい方、お前だ、さっきなんて呼ばれたか……名前だ名前」

「……亮太……白石亮太だ」

「リョウタ?……リョウタか。……ふふそうか。……俺も今日はむしゃくしゃしてたみてえだ。悪かったな。……おうデカイの。お前は野球部だな。じゃあそのパワーは野球で使え。いいな」

 牛島はそう言ってヒロトの肩をぽんと叩くと、またジャラジャラと音を鳴らして暗闇へ消えていった。「なんなんだあのチンピラみてえのは……」とヒロトは呟いた。

 牛島の態度が一変した。たぶん僕の名前を聞いた途端に。なぜだ。……まさか!……背の高い若い男。六年前だと年齢は二十歳前後。まさかあの男が、牛島が……。

「怪我してないか?……家まで送るよ」とヒロトは言って歩き出した。

「あの時と一緒だな。助けてくれてありがとう」

「言っただろ。親友を助けるのは当たりめえだって。……それよりさっきの奴。帰り際は大人しくなっちまったけど……」

「あぁ……ちょっとした知り合いだ。酔っぱらって少し勘違いがあっただけだ。悪い人じゃない」

「そうかそれならいいけど……もし何かあったら相談してくれよな」

「ありがとう」


 それからお盆までの何日かをまたおじいちゃんの仕事に一緒についてまわった。ひとりで家に黙っていると頭がおかしくなりそうだったからだ。あるいはおじいちゃんと行動を共にすることで何かのヒントが得られるかもしれないという期待もあった。僕の心で流れを塞いでいるものが何かは未だに掴めないままなのだ。

 時間だけが駆け足で失われ夏休みの終わりが刻一刻と近づいていた。美織とは時間が許す限り共に過ごし、十六日の花火大会に誘われる。

「亮くん十六日の花火大会行けるよね?」

「もちろん」

「やった!……実はね、葵がヒロトを花火大会に誘ったの。そしたらうまくいったみたいで。四人で花火大会行こうって。あの時の計画を実現できるよ!」

「葵がヒロトを!?」

「うふふ。意外だったでしょ」

「意外も何も、それはヒロトのことを好きってことなのか?」

「どうかしらね。本人もはっきりしないんだ。ただずっと気になっていたのは確かよ。あの頃は仲良かったわけだし。まあ葵は今ちょうど彼氏がいないし、この前の試合でヒロトは大活躍して格好よかったからね。花火大会がいいきっかけになるんじゃないかな。亮くんも久しぶりにヒロトと会って話せるね」

「ヒロトとは練習試合があった日の夜に会ったよ」

「えー!どうして教えてくれないの。もう。……それで葵のこと何か言ってた?」

「数学のノートにも書いてあったろ。僕は何も言えない」

「もう!すぐそれなんだから。……まあいいわ。とにかく十六日はみんなで花火大会行こうね」

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