第15話 父と母の過去

 シャワーを浴び僕は居間に戻ってきた。静寂の中、柱時計が十回鳴った。ボーン、ボーンという音は先ほどの興奮の余韻を少しずつ消していった。なぜだか無性に父さんの声が聞きたくなり、僕は電話をかけてみることにした。

 父さんは震災地域から少し離れた場所でマンスリーマンション型の賃貸物件で生活している。電話だけは自分で引いて、家電類は備え付けの物件だ。基本的には夜だけそこで寝泊まりしている。

 父さんの声を聞いて、僕は何とも言えぬ安心した気持ちになった

「父さん、話したいことがあるんだ。たくさん。釧路からだから電話代が……」

「わかった。子供がお金の心配なんかするんじゃない。父さんからかけ直すから一度切りなさい」

 すぐに父さんから電話がかかってきて、僕は釧路に来てから起こった出来事を全部話し始めた。まるで小さな子供が母親に今日の出来事を聞いてもらうように、僕はどうしてかわからないが全部隠さずに話していた。美織とのこと、ホタル丘でのこと、迷い玉のこと、斉藤天狗のこと、理の門のこと、そして母さんが向こう岸にいたこと。僕はそれを口にしたことではじめて母さんが死んだことを実感した。そして自然と涙を流した。涙はずっと止まらず、それでも全部最後まで話し続けた。父さんはただ黙って、時折僕の言葉に頷いて、最後まで真剣に聞いてくれた。

 全てを話し終えると、スーッと心が安らぐのを感じた。

「信じてもらえるかな?」

「馬鹿言うな。息子の真剣な話を信じない親なんていない。亮太、全部話してくれてありがとう。父さんもいつかこういう時が来るのではないかと思っていたが、実際に聞くとやはり残念でとても悲しい」

「うん」

「そうだな。……父さんも麻里子のことで亮太に話すべき時が来たと思う。だからよく聞いてくれ」

「うん」

「父さんが麻里子に結婚を申し込んだ時の話だ。彼女は自分にはその資格がないと言って断ってきた。お互い愛し合っているのに変な話だった。何度も二人で話し合って、ひとつだけ条件を出された。いつか子供が産まれたら私は姿を消すことがあるかもしれない。それでもいいのかと。それでも父さんは麻里子のことを愛していたからその条件を承諾した。それで彼女も結婚を望んだ。

 ある日、麻里子は六年生の時に起きた不思議な体験話を聞かせてくれた。亮太がさっき話してくれた話と同じだと思ってくれていい。そこで麻里子は自分の未来を見てしまったようだ。その橋でな。父さんはその時は正直に半信半疑だった。

 時は過ぎ、亮太が産まれ、父さん達は毎日忙しくも喜びに満ちた日々を過ごしていた。いつしか麻里子が姿を消すことなど考えられなくなっていたが、亮太も知っての通りその日は突然訪れた。それから数年が経ち亮太も神隠しに遭ってしまった。亮太が戻ってきて、きっと麻里子が関係していると父さんも考えた。

 去年奥尻島に渡って、父さんは医者としての純粋な気持ちで協力できるのではないかと考えた。もう津波の震災からはだいぶ経っていたが、父さんは内科が専門だし、必要最低限の外科の知識も持っていたから、自分も何かしらの力になれると思い込んでいた。しかしそこはどうしようもない世界だった。圧倒的な自然の力の前に人々があっけなく死んでしまった世界だったんだ。自分や医療の無力さを痛感したよ。怒りに震えた。吠えた。大声で泣いた。そしてその夜、父さんは不思議な光景を目にした。山の中の光り輝く場所に、一列に並んだ大勢の人が進んでいくのを。死者の行進のように思えた。翌朝、その山の中腹に行ってみたが父さんには何も見えなかった。ただおかしなことに麻里子の懐かしい気配を感じることができた。それで父さんにもそういう世界が存在するのではないかと思えるようになった。

 今年の阪神淡路の地震でも父さんはボランティアに参加した。救えない命があるのは奥尻のことでよくわかっていたが、少しでも医者として人間として、被災した人々の話を聞いて診療したり、瓦礫を運んだりできるのではないかと思って行動した。それに奥尻島で不思議な光景を目にしていたから、方法はわからないがもしかしたら母さんを見つける糸口が見つかるかもしれないという淡い期待もあった。それも今日の亮太の話で全ては終わったんだと今は思っている最中だ。

 いいか亮太。お前の母さんが居なくなったのは誰のせいでもない。亮太のせいでも父さんのせいでもない。麻里子が自分で決めたことだ。だから責任を感じるようなことはひとつもない。これからも今まで通り、父さんと一緒にやっていくんだ。それが麻里子の望みだったんだ。父さんも数ヶ月ここのみんなと一緒になって十分がんばってきた。そろそろ帰ろうと思う。亮太はお盆までは釧路にいなさい。父さんもここを引き払ってお盆に釧路へ行くから」

 僕は涙が止まらなかった。母さんは僕を助けるためにあらかじめ橋の向こうまで行っていたんだ。……いやこんなことは僕にはもうとっくにわかっていたんだ。橋を進むと自分の未来が見えることにはとっくにわかっていたんだ。あの牛島という男がノートを手にして理の門から戻って来たあの時から。牛島は未来を見てそれをノートにメモして何か悪巧みをしているのはすぐに想像がついたんだ。

 僕のせいなんだ。母さんが死んだのは僕を助けるためだったんだ。

 しかし今更嘆き悲しんだところで何も始まらない。母さんが生き返るわけでもない。父さんの言うように母さんの望みを僕が潰すわけにはいかない。

 僕は父さんにお盆にここで会えることを楽しみにしていると伝えて電話を切った。

 僕が今やるべき事は自分で塞いでいるものを消し去ることだ。そうすれば母さんに接触ができる。しかしどうやったらそれができるのか。絶望だけが僕の心に残った。


 次の日から僕はおじいちゃんに仕事に同伴させてもらえないかと頼んだ。おじいちゃんは孫と一緒に仕事ができるのはありがたいと言って快諾してくれた。

 作業や行く場所は日によってまちまちだ。重い荷物を運ぶこともあれば、畑で力仕事をすることもある。農家仲間の作業を手伝うこともあれば、すぐ飽きるような地道な作業を長い時間続けることもある。また、朝に収穫すべき野菜を収穫しては、それを知り合いの酪農家のところへ持って行ってお裾分けし、酪農家の方からは乳製品をいただく。港へ行っては漁師や業者と話をする。昔おじいちゃんが立ち上げた水産加工場に顔を出しては従業員達と挨拶を交わし談笑する(ここでは美織のおばさんが昔から働いていて事務所で経理をやり、人手が足りなければ工場の方も手伝っている)。どこかへ行く途中の酒屋に寄ってはしばし談笑し、市場に顔を出せば浜であがった魚や収穫された季節の野菜について話し込む。とにかく僕はあっちこっち一緒について回って、その先々で孫の亮太ですと挨拶して顔を覚えてもらい喜ばれる。年金暮らしのおじいちゃんの日々の生活は収入を目的とした仕事と呼べるものではないかもしれないけど、自分から地域の暮らしに参加して誰かや、何かの役に立って生き生きとしている。挨拶を交わす人々も決して生活は楽ではないはずなのに、みんな目が生き生きとしていて素晴らしい。そしてみんなどこかで繋がっている。それに比べれば札幌のサラリーマンは目が死んでいて他人に無関心だ。どちらがいいかというのは僕にはわからない。ただ僕は父さんと電話で話して以来、父さんが医者として被災地で活動していた話に興味を持ちだしていた。医者という職業に今まで以上に強い関心を抱いていた。そして僕の心を塞いでいる何かに少しずつヒビが入ってくる感覚を抱いていた。

 おじいちゃんと一緒に行動して一週間が経過した。日が暮れる前におじいちゃんは仕事を切り上げるので大体午後四時や五時には帰宅していた。この間美織は僕の行動に口は挟まず、夜になったら毎日時間を作ってくれて共に過ごした。おばさんに夕食をご馳走になったり、街に出かけてただ歩き回ったり、それまでと変わらず心を通わせていた。数日前に美織に野球部の練習試合を見に行かないかと誘われたので明日の土曜日に一緒に行くことにもなっていた。

 ホタル丘へはかなえちゃんを助けた日から行っていなかった。

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