第12話 斉藤天狗

 十時に美織がおじいちゃんの家に来ることになっていた。おじいちゃんとおばあちゃんは朝から仕事に出て、おばあちゃんには朝のうちに今日の昼食は要らないことを伝えておいた。僕は水筒に麦茶を入れて、用意したリュックを玄関に置いた。

 昨日美織は『斉藤天狗』に会ったことがあると告げてきた。

 話を整理するとこうだ。

 十一歳の僕が行方不明になって無事保護されたあと、病院での二日間を経て札幌にそのまま戻ってしまったことで、彼女は僕にもう二度と会えないのではないかとひどく傷つき悲しんだ。そして、その夏の終わりに(おそらく事件から二週間後くらい)、『思い出の場所』へ無意識に一人で行ってしまう。石段を登りお稲荷さんの石像の裏の僕達が初めてキスをした場所で、彼女はしゃがみ込んでただただ涙を流し続けた。深い悲しみで泣き続けていると突然強い風が吹いて、男の人に「もう家へ帰りなさい」と声をかけられる。その人は『斉藤天狗』だと名乗り、彼女の名前を尋ねた。彼女は栗原美織だと伝えた。それから奥の方に光り輝くものは見えるか?と彼女に訊いてきた。彼女はそれが何かまでは見えなかったが光っているものがあると伝えた。すると斉藤天狗はこれを肌身離さず持っていなさいと言って小さなガラス玉を手に握らせた。そして、もう帰りなさいと言った。不思議と彼女は怖さを感じず、言われたとおりに石段を下りて家に帰った。家に着いた彼女は下腹部に違和感を覚えていた。彼女は初潮を迎えていた。その日以来ホタル丘へは行っていない。

 ここまでが昨日話せた内容だ。

 それで僕達は今日ホタル丘へ一緒に行くことにした。ひんやりする森の中で蚊や虫もいるから露出の少ない服装にすることを確認し合って、僕は例のリュックを持って行くこととした。

 美織が来るまでまだ十五分ほどあるので、スクラップブックを持ってきてこの三日間の新聞記事を確認した。

 一昨日は何もなし。昨日の記事で、千葉県船橋市で前日から行方不明だった二十歳、伊藤悠樹さんが遺体で発見されたことを伝える記事が一つ。

 今日の記事で、札幌市豊平区で小学四年の小島香奈絵ちゃんが公園で遊んでいたのを最後に行方不明になった事件が一つ。

 僕はこの二つの記事を切り取って、スクラップブックに挟めた。貼り付けるのは時間がある時にすればいい。

 しばらくすると美織がやってきた。いつものポニーテールに七分丈のパンツに胸の膨らみが際だつ長袖のブラウスを着ていた。僕は昨日と同じリーバイスのジーンズにTシャツの上に薄手の長袖シャツを羽織った。またぱっとしない恰好だった。

「おまたせ」と言って美織が上がってきた。

「お互い服装はよさそうだね。トイレは大丈夫かな?」

「うん」

「例のガラス玉は?」

 美織は首にかけているものを取った。

 美織はガラスの玉をちょうどサッカーボールを入れる網のように太めの糸で細工して、首からかけられるようにしていた。ガラス玉の真ん中にはやはり黒い点が入っていた。

 僕はジーンズのポケットから巾着袋を取り出して、それを美織の前で開いた。

「これが僕の」と言って美織に見せた。

「あー、やっぱり斉藤天狗に会って貰ってたのね。私のと同じ。すごーい。なんかわくわくするね」と美織は興奮気味に言った。

「もう遊びじゃないんだぞ、危険かもしれないんだ。わかってる?」

「わかってるって。でも亮くんと一緒なら私は平気だもん」

「じゃあそろそろ……。あ、ちょっと待って仏壇に挨拶してくる」

 僕はそう言って仏壇に手を合わせた。美織も一緒に手を合わせた。それから仏壇の引き出しを引いて奥の方を確認した。一番奥に和紙に包まれている丸い物が見えた。母さんのはここにある。

「じゃあ行こう」と言って僕はリュックを背負った。

「レッツゴー」と美織はまるで遊びにでも行くかのように言った。


 外は雲混じりの晴れ模様だった。雨の心配もなく気温は二十五度くらいだろうか。まだ午前中ということもあってすがすがしかった。

 僕達は家を出て公園を抜けてホタル丘へ向かうことにした。美織はすぐさま手をつないできて寄り添ってきた。僕は彼女と目を合わせて微笑んだ。

「いくつか決めておこう」と僕は言った。

「何があっても手を離さないこと」

「それなら余裕だわ。自信ある」と美織は胸を張って言った。

「危険だなと思ったら一歩引くこと。これは父さんからの教え。その時美織は僕の後ろに隠れることいいね?」

「うん」

「体に異変を感じたり体調が悪くなったらすぐ言うこと。その時はそれで終わりにすること」

「うん」

「もし何かあったらすぐ大人の人を呼ぶこと」

「了解!あードキドキしてきた」

 美織のテンションの高さに僕はやれやれと思った。こういう時は女の子の方が度胸はあるのかもしれない。

 僕達は公園を抜けてホタル丘へ続く路地へ入った。

「斉藤さん、今日はいるかな……」と美織は独り言のように言った。

 斉藤さんか。美織にかかると斉藤天狗も近所の斉藤さんと大差ない扱いで僕は心の中で笑った。

「なあ、危険な人かもしれないのはわかってるね?」と僕は美織に釘を刺した。

「わかってるって。……でもあの人って『人』なのかな?」

「わからない。正直僕は斉藤天狗の名前は覚えていたけど、そこまではっきりとした容姿の記憶はないんだ」

「天狗ではないと思うんだよね。この現代に天狗なんて普通は考えられないでしょ」

「普通はね」

「それにしても亮くんも同じガラス玉持ってたなんて偶然すぎるよね。ただただずっと好きだと思って過ごした六年間だったけど、こんな繋がりもあったなんて、なんか運命感じちゃう」

 美織の言うことは正論だった。こんな『繋がり』があるなんて並大抵のことじゃない。いっそここらの子供達は全員あのガラス玉をもっているのではないかと僕は疑っているほどだ。それと『繋がり』で言うともうひとつそれらしい出来事があった。

「昨日、斉藤天狗に会った日に初めて生理がきたって言ったよね?」

「うん……もう、恥ずかしいよ」と言って美織は頬を赤くした

「実は僕も似たような体験をしているんだ。僕が発見された後、身体検査というか裸になって傷がないか全身をチェックされたんだけど、パンツがガビガビになっていて、どうやら射精をした痕があったようなんだ。夢精じゃないかとも言っていたけど」

「それって、それまでに射精したことはあったの?その、ひとり……、あ、なんでもない」と美織は言ってまた恥ずかしがっていた。

「いや初めてのことだよ。夢精というのもないし、マスターベーションもまだ経験がなかった」

「二人とも初めてづくしね。そんな偶然おかしいよ絶対」

「そうなんだ。しかもそれは大人になるための体の目覚めというか。その点でも共通している」

 僕達は緩い坂道に入ってホタル丘への登り口に到着した。そして向かい合って決意を固めた。

 いよいよここから僕の、いや僕達二人の本当の冒険だ。


 少し高くて登りづらい石段を僕達はゆっくりと登った。子供の頃は長く感じたが、あっという間にお稲荷さんの石像が見えてきた。何とも言えぬ緊張が走ってきた。美織もずっと口を開かずに僕についてきた。

 僕がそれに気づいて足を止めたのは、あと数段で頂上というところだった。今の僕の背の高さからはそれがそこに今でも存在しているのがわかった。僕の異変に気づいて美織も足を止めて後ろに回り込んだ。あと二段僕はゆっくり登った。

 それはあの時と同じように、薄暗い森の真ん中の開けた場所でぽっかりと口を開いて光り輝いていた。異世界の光景としか思えないあの光り輝くトンネルだ。

 僕達は石段を登りきって並んで立ち、ただそれに目を奪われていた。それはある種の美しさすらあった。目映く輝き、壮健で、何十年、何百年も前からそこにある風格を漂わせていた。僕は美織の手を強く握りしめ、穴に吸い込まれないよう注意を払った。何がどうなるか僕には想像がつかなかった。この光景は美織にも見えているのだろうか?……なぜ僕は話さない。なぜ美織は話してこない。いや違う。声が出ないんだ。声を出そうにも、まるっきりどうすれば声を出せるのか忘れてしまったかのようだ。穴は鉱山の坑道の入り口のような、いやそれも違う。あの土管だ。秘密基地の土管だ。大人が歩いて通れるように大きくはなっているがあれは秘密基地なんだ。中に入ればあの頃の僕達がいるだけだ。美織と葵とヒロトが待っているあの楽しかった秘密基地だ。そうだあの時もそう思って入って行ったんだ。今もあそこに入ればいいんだ。僕は一歩足を前に踏み出した。

 ビリッとあの時と同じ電流が流れた。そして正面からもろに強い風を受けて、僕は反射的に目を閉じて顔を背けた。

 …………。

「……くん、亮くんったら、ねえ!」

 美織の声か……僕の意識は徐々にはっきりしてきた。

「亮くん!」と美織は僕の腕を大きく揺すった。

「どっ、どうした?」僕はやっと正気を取り戻して訊いた。

「あそこ、見える?」と美織は前方を指さした。

 そこに立っていたのは一人の男だった。年は七十位、小柄で顎髭が伸び、服装は現在のものとは思えないかなり古い時代のものに見えた。そして男は僕達の方へ近づいてきた。

 僕は一歩後ずさりして身構えた。美織は僕の後ろへ回って「あの人、斉藤さんよ」と囁いた。美織は顔を覚えているようだった。

 とうとう男は僕達の前まで来て口を開いた。

「お前達にはあれが見えるようじゃな」と男はトンネルの方に顔を向けて言った。

「ええ」と僕は言った。美織は首を縦に二度振った。やはり美織にもトンネルは見えているようだった。

「ふむ」と男は言って顎髭をさすった。

「あなたは斉藤天狗さんですか?」と僕は思いきって訊いた。

「……さよう。ワシは斉藤天狗じゃ。お前達の名前も知りたい」

「僕は白石亮太、彼女は……」

「栗原美織です」と美織が言った。

「ふむ」と斉藤天狗は言ってまた顎髭をさすった。

「すると、あの時の坊主とお嬢ちゃんだな」

 斉藤天狗は僕達の名前を記憶のずっと奥から引っ張り出して照合しているかのようだった。

「坊主……えーと、リョウ」と斉藤天狗は僕の名前を思い出そうとしていた。

「亮太です」

「リョウタじゃったな。……リョウタの母方の姓は山科か?」

「そうです」

「そうだろうな」と斉藤天狗は言った。

 この人は何かを知っている。

「なぜ山科だと分かるんですか?あなたは母さんについて何か知っているんですか?あなたは何者であのトンネルは何ですか?」と僕は捲し立てた。

「ほっほ……。一度にそんなに質問されても困るのう。……して、リョウタはそれらを知ってどうする?このまま帰るというわけにはいかんのか?」

「僕はただ十一歳の自分に何が起こったか知りたいだけです」

「うむ。……えーと、お嬢ちゃんは、ミ・・」

「美織です」

「ミオリじゃったな。一緒にこっちへ来て、とにかくそこの大きな石にでも座りなさい」

 祠の後ろにはいくつか大きな石が転がっていた。おそらく石段の余分になったものだと思われた。僕はリュックからタオルを出して、それを敷いてから美織に座らせて僕はそのまま美織の隣に座った。美織はギュッと僕の手を強く握った。斉藤天狗は僕達の向かいにある小さめの石に腰掛けた。

「さて、何から話せばいいか」

「僕はまずあなたのことを知りたい」と僕が言うと美織も頷いた。

「うむ。……ワシは見ての通りただの老いぼれじゃが、何者でもない存在じゃ」

「人ではないということですか?」

「そうじゃ。ワシは人ではない」

「でもあなたは人の姿をして僕達と会話をしている。そんなことはあり得るんですか?現代のこの世の中で誰もそんなこと信じやしませんよ」

「ほっほ。こりゃ順を追って話さなければ質問攻めに合いそうじゃ。よかろう。……まずワシはお前達に危害を与えるような存在ではない。むしろ守る存在じゃ。だからそこは怖がらず安心せい」

「わかりました」と僕が頷くと美織も一緒に頷いた。

 そして斉藤天狗はゆっくりと話し出した。

「ワシは人間がこの地で活動し出してから生まれた存在じゃ。もう千年以上前じゃ。姿、形、名はない。お前達の世界で言うところの念、感、願、気……そういうものじゃ。おそらくわからないだろうな。……たとえるなら、大漁を願ったり豊作を願ったり、病気や天候……そういう人々の強い願い、祈り、気持ちが集まってひとつの『かたまり』が生まれる。それがワシじゃ。『念』と言った方がわかりやすいかのう。ワシのような『念』はどこにでも存在するし言われ方も様々じゃ。『神』だとか『精』だとか『霊』だとか『念』だとか『気』だとか。とにかくそういう目には見えない存在じゃ」

「わかるような気はします」

「私も」

 斉藤天狗は続けた。

「今お前達に見えているこの姿は体だけ借りた姿じゃ。この男は海の事故で若い頃に亡くなり、とうとう遺体も上がらなかった。ワシもこの男を助けようと出来る限りのことはしたが無理じゃった。人々が願うだけで全てが叶うわけじゃないからな。ひどく残念に思ったワシはこの男の体を借りることにした。体を借りると言っても死体が動いているわけじゃないからな。あくまで『念の世界』での話じゃ。この男の『魂』と思えばいい。お前達の世界での実体はない。だから誰からも見えやせん。そしてワシはこの男の記憶を受け継ぎ見た目も年々老いてきて爺さんになったわけじゃ。もう四十年も経つか。その前は女性の姿を借り、ずっと以前はアイヌや北方の国の人間の姿を借りていた頃もある。最近はそろそろ別の体を手にしようと思っとる。とにかくそれらの者の記憶からワシはお前達の世界の言葉を知り、出来事を知り、そしてまた自分でも深く観察を続けてきたのじゃ」

「斉藤という名前はその男の人の名前なんですね」と僕は訊いた。

「そうじゃ」

「でも、実体がなくて見えない存在なのに、何で私たちには見えてるのかしら?」と美織は不思議そうに訊いた。

「お前達は少しだけ『念の世界』に足を踏み入れてしまったんじゃな。こう考えればいい。その石段を下りるとお前達の『実体の世界』だ。しかしこの丘の上では『実体の世界』であり『念の世界』でもある。この丘の上はいろんな世界が集まっておる場所なんじゃ。こういう場所はあっちこっちにある」

「では、『念の世界』へ入り込むきっかけは何なんですか?」

「それは深い謎じゃ。詳しいことはワシにもわからん。だが子供の喜怒哀楽その他全ての強い感情が放たれた時、『念の世界』へ通じる扉を開けることは確かじゃな。ワシはそれに呼応するようにこうして姿を現す。子供の心というものは不思議なものじゃ。とんでもなく強い力を発する。例えばリョウタの場合はここでとてつもない『喜び』を得たのがきっかけじゃろう。覚えておるかな?」

「なんとなく」美織とキスをした時に感じた喜びだろうと僕は思った。

「ミオリは逆じゃ。深い『悲しみ』じゃろうな」

「……ええ、わかるわ」

「まあ二人の場合はワシと斉藤の記憶がこちらへ引き寄せてしまったのは否めないがな」

「どういうことですか?」

「斉藤は本州から来た人間じゃった。仕事は漁師だったんじゃが、こっちに来て数年経ったある時化の日に流されてしまってな。数日探しても見つからずに捜索が打ち切られた。だがそれでも諦めずにその後も探し続けた漁師仲間がいたんじゃよ。それが山科と栗原と牛島という三人の漁師だ。もちろんワシも陰ながら力を貸したが、結局は死体も上がらんかった」

 昔うちのおじいちゃんは漁業で生計を立てていた。釧路のこの辺りの人はみんなそうだったようだ。その後仲間達と小さな水産加工場を立ち上げ、水揚げされた魚をすぐに加工して流通させた。それがうまくいった。今はもうほとんどそちらへも行かずに、自分ができる範囲で農業の真似事をして楽しんでいる。

「それは僕達のおじいちゃんですね?」

「そうじゃ」

「やっぱり神様って見てくれているのね」と美織は目を輝かせながら言った。

「言いようによってはそうじゃな」

「ではあの時、お地蔵さんの姿になって僕に合図を送ったのはあなたですね?」

「わっはっは。ワシの悪ふざけじゃ。山科と栗原の血筋の者なのは見ればわかったからのう。それくらいの力はワシにもある。毎日ここから世界を眺めておるしの。ただきっかけを与えただけじゃ。すべてはリョウタの心が自分を動かしたんじゃ」

 大体理解はできた。

 にわかには信じがたい話だが……危害を加えてくるような人物でもなさそうだ。

 こういう時こそ冷静に現実をみつめて判断しよう。僕も美織も無事に生きている。生気は失われていない。つないだ手からはいつもの温もりが伝わってくる。樹木の隙間からは太陽が見え、雲が流れ、蝉の鳴き声が聞こえている。気分も悪くない。目の前には人の姿をした斉藤天狗が顎髭をさすっている。これは紛れもない現実だ。今は自分の判断を信じるしかない。

「斉藤さん、僕はあなたの話を信じたいと思います。できれば他にも教えてほしいことがあります。……あの光り輝くトンネルのようなものは何ですか?」

 斉藤天狗は顎髭をさすったまま深く考えているようだ。

「……太古より存在する人智の及ばない門じゃ。ワシらは『理(ことわり)の門』と呼んでおる」

「理の門?」と僕は木の枝を使って地面の土にその漢字を書いて訊いた。

「そうじゃ。あらかじめ全てはそう定まっている道理。生きとし生ける者の筋道。誰も変えることのできない普遍的な理の世界。絶対的な存在……。ワシらの力など到底及ばない門じゃ。おそらく人類が生まれた時かその前から存在するはずじゃ。これも各地に存在する。あくまで『念の世界』での話じゃがな。……もし誰かが作ったものなら最上位の存在の者だろう」

「つまり『理の門』の中は僕達の世界でいう『あの世』ということですか?」

「門そのものがあの世ではないが、あの世に繋がっていると考えていいじゃろうな。ワシらは人じゃないから確かめようがないんじゃ」

「なるほど」

「『念の世界』もお前達の言う『あの世の世界』もほとんど変わらないところなんじゃ。人の願いが生み出したワシら『念』に比べれば、肉体を失った『魂』はほとんど力を持たない存在じゃ。魂は肉体を失うと『理の門』へ入る。入ってしまうともう出てくることはできない。大抵は素直に入るのじゃが、突然の死の場合、死と認識できていないためかここらで立ち止まって浮遊する。特に戦争や災害で命を落とした場合はそういう魂が多いな。今も門へ入る前の魂がそこらを漂っておるぞ」

「ひえぇ」と美織が怖がった。

「なあに。悪さするほどの力は持っとらん」と斉藤天狗は言った。

「斉藤の魂がそうじゃった。海での遭難から一週間ほどで斉藤の魂はなんとかここまでは来た。それで斉藤が死んだことをワシも確信したんじゃが、どうしても門へ入らない。そこでワシは斉藤の魂に乗り移って斉藤の記憶と見た目の体を手にしたんじゃ」

 僕は続けて質問した。

「その『世界』というものはいくつもあるものなのですか?」

「ある。人は夢を見るらしいな。だから『夢の世界』というものがあるじゃろ。つまり全ては『心の世界』なんじゃ。感じる世界、見て触ることのできない世界じゃ。いいか、実体が存在するお前達の世界が奇跡なんじゃよ。それほどお前達の世界は素晴らしい場所なんじゃ」

 斉藤天狗は続けた。

「ワシら『念の世界』では念同士が通じ合ってこの世界の物事について理解を深め合ってきた。だから九州の念も北海道の念も繋がっている。理解できないかもしれんが、実体のない世界だからの。お前達人間も皆で力を合わせるじゃろ。それと一緒じゃ。たとえば『実体の世界』で大きな戦争、大きな災害が発生するたびにワシら『念』も力を合わせておる。なんせワシらはお前達人間の願いや祈りによって生まれた存在じゃからな。それでもあの門についてはよく分かっていない。ただし、ワシらも馬鹿じゃない。『理の門』には必ず門番をおいておる。お前達のように『念の世界』へ入ってきてしまった者に注意を与える意味でもな」

「それがあなたということですね」

「そうじゃここの門番はワシじゃ」

「神隠しや天狗隠しというのも『理の門』のせいですか」

「そうじゃ、肉体を持った人間があそこに入ると『実体の世界』での姿がふっと消えてしまう。そのことをお前達の世界ではそう呼んでおるな。それでいつしかワシも天狗と名乗るようになった」

 これで天狗という名の謎もわかった。

「……リョウタは以前に入っておる」と斉藤天狗がぽつりと言った。

「そうなんでしょうね」と僕は納得して言った。

「やっぱり」と美織も言った。

 僕はポケットから例のガラス玉を取り出した。

「斉藤さん、このガラス玉は何ですか?」と僕は訊いた。美織もガラス玉を首から外した。

「二人ともきちんと持っとるな。百聞は一見に如かず。『理の門』へ入ってみるか?もちろんワシも一緒じゃ安心せい」

「行きます!……美織は危ないかもしれないからここで待ってて」

「えー、一人じゃここの方が危ないよ。そこらじゅうに魂が……。それに何があっても手を離すなって亮くんさっき言ったでしょ」

「ほっほっほ。なあに、ほんの少し覗いてその玉の説明をしたら帰ってくるだけじゃ。ワシもついておる大丈夫じゃ」

「……わかりました。じゃあ美織も行こう。危なくなったらすぐ戻るからね」

「絶対に手離さないもん」

 やれやれと僕は思った。

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