第11話 美織のおばさん
バスを降りたのは六時十分前だった。美織の家に近づくと今日の晩ご飯はカレーであることを風が伝えてくれた。家の表札は『栗原紗江子』になっていた。
「ただいまー、お母さん帰ったよ」と美織は家に上がっておばさんを呼びに行った。すぐにおばさんは出てきて六年ぶりに会うことができた。
僕は「ご無沙汰してます」と挨拶して「あの時は心配かけてすみません」と謝った。おばさんは「何言ってるのよ、そんなこと」と言って、僕の頭のてっぺんから足下まで見て「それにしても立派になったね、大きくなったわ」と言って僕の成長に驚いていた。それから早く上がるように言った。
おばさんはあの頃に比べればいくぶん年を取った気はしたが、僕らの六年間の成長に比べればさほど変わらぬ印象だった。それよりも感じたのはやはり美織はおばさんの容姿に似てきているなと思ったことだった。それから美織は制服を着替えると言って自分の部屋へ行った。僕もトイレと洗面所を借りた。
美織はハーフパンツにスウェット地のパーカーに着替えて、おばさんといっしょに食卓の準備を手伝っていた。
「おばさん、おばあちゃんにお線香いいですか?」と僕は訊いた。
「あらあ、嬉しいわね。おばあちゃんも喜んでくれるわ」
僕は仏壇の前へ行ってお線香をあげて手を合わせた。美織のおばあちゃんは確か小学四年の夏まではこの家にお居たけど、冬に訪れた時には居なくなっていた。おばさんは昼間仕事に出ていたし、美織の世話はおばあちゃんがしていて僕もかわいがってもらっていた。僕は昔ここでパンケーキや麺類やもちろんカレーもごちそうになった記憶が蘇っていた。美織のおばあちゃんのことはよく覚えているけど、この家で美織のお父さんという人には一度も会ったことがなかった。うちも『お母さんのいない子』だったから、そういう話をすることは子供達も大人達もなかった。
「さあ用意できたわよ。お口に合うといいんだけど……」とおばさんは言って全員席についた。
僕のは一回り大きなお皿にたっぷりのカレーライスと、新鮮なサラダが大きなボウルに入れられてテーブルの真ん中に置いてあった。いただきますと言ってみんなで食べ始めた。
僕は一口食べて懐かしい『おふくろの味』を感じていた。
「おばさん、すごく美味しい。あの頃と同じ」と僕は言った。
「あらー、良かったわ。そう言ってもらえて。いっぱい食べてね。美織も少しは食べなさいね」
「もう!」と言って美織は頬を膨らませた。僕はそれを見てくすっと笑った
カレーを食べていると懐古の情からなのか、僕は胸がいっぱいになり涙が出そうになっていた。
「ねえどうしたの?具合悪いの?」と美織は僕の分のサラダを取ってくれながら、その異変に気づいていた。
「いや大丈夫。ただ……。おばさんの懐かしいカレーなのに、……不思議と母さんのカレーの味もする」と言って僕は堪えきれず涙をこぼした。
僕は涙を指で拭って「ごめんなさい」と謝った。
美織はティッシュを持ってきてくれて背中をさすってくれていた。
おばさんは「そうかもしれないわね……。まだお母さんのこと何もわからないの?」と言って目頭を押さえていた。
僕は「うん」とだけ頷いた。
美織は僕の背中をさすりながら「大丈夫?」と心配そうに訊いてきた。
「一瞬込み上げてきただけだから、もう大丈夫。ありがとう」と僕は言った。
本当に一瞬だけだった。母さんのカレーと同じだと思った瞬間、涙が溢れただけだった。しばらく重たい空気が流れたが、カレーは本当に美味しくて僕はあっという間に平らげてしまった。
「おばさん、おかわりいいですか?本当に美味しい」
「あらやっぱり男の子ねいっぱい食べる。これだと作り甲斐あるわ。美織なんかダイエットしてるのかなんなのか全然小食で」
「お母さん!」と美織はおばさんに釘を刺していた。
僕達は笑い合った。それから空気が和んでまた楽しく会話が弾んだ。
僕がおかわりしたカレーを食べ終わった頃だった。
「それであなた達昨日はうまくいったのね?」とおばさんは言った。
「もうお母さんやめて……」と美織はため息混じりに言った。
「いえ、親として言わなきゃならない時もあるのよ。きちんと訊いて。亮太君そうなのね?」
「……はい」と僕は言った。
「そうよね。この子が昨日帰ってきて、すぐにうまくいったんだと悟ったわ。母親ですもの様子を見ればすぐにわかるわ。それを見て私も嬉しかった。もう前の日はどの服着ていけばいいかとか髪型はどうしたらいいかと、そりゃ大変だったんだから。……おばさんにもそういう頃があったからわかるのよ。それは好きな子に会いに行く女の子そのものよ」
美織はもう口を挟まずに、サラダを食べるでもなくただフォークでいじっていた。
「あなた達は休みの間だけだったけど、本当の兄妹みたいにいつも一緒だったわ。感謝してるのよ、亮太君や優子ちゃんが美織のそばにいてくれて。おばさんも昼間は仕事があったから。……それにまだ子供だったけどあなた達は好き合っているのもわかっていたし、いつか大人になったらこうして一緒にご飯を食べられる日が来ればと思っていたのよ。あれからもう……そうね、もう十七歳ですものね。二人とも大きくなるはずよね。こうなる日を願っていたけど、いざ娘が大人になったと感じると寂しいものね。……これからは二人でなんでも話し合って、お互いの気持ちを尊重して、将来もっと大きな幸せを掴んで欲しいわ。私は……おばさんは、うまくいかなかったの。後悔はないけど、うまくいかないこともあるの。そういう困難も二人で力を合わせて乗り越えていってちょうだい。……あら、つき合ってすぐこんな話されても困るわよね。とにかく、まだ高校生だから目標を持ってやることはきちんとして、私や亮太君のお父さんに心配をかけないことだけは約束して。亮太君が相手なら私も安心よ。二人のことは応援するわ」
僕は「わかりました」と言った。
おばさんは話の途中からずっと涙を流していた。娘の成長を願いつつも、いざ娘が大人に近づいたと感じた時の母親のどこか寂しい心境が僕にもわかった。
美織は「私、お母さんの娘でよかった。ありがとう」と言うそのずいぶん前からすでに泣きじゃくっていた。
僕はさっきのティッシュを渡して、今度は僕が美織の背中をさすった。
「あらあらこの子ったら」と言っておばさんは優しく微笑んだ。
ずっと母子二人だけでやってきたんだ。大変だったろう。父子二人のうちなんかよりもずっとずっと。
しばらくしてから僕達は洗い物の手伝いをした。それから美織はコーヒーか紅茶のどっちが飲みたいか訊いてきた。僕は紅茶をお願いした。
「私のメインはカレーじゃなくてこっちなの」と美織は言って冷蔵庫からケーキを出してきた。
「あらダイエットしてるんじゃないの?」とおばさんが笑って言った。
「だからしてないってば」と美織が返して言った。
それは小さなデコレーションケーキだった。
「お母さんに頼んで買ってきてもらったの。一日遅れの誕生日ケーキ」
僕はおばさんにありがとうと伝えた。それから三人で紅茶を飲みながらケーキを食べた。
「ああ久しぶりにケーキもいいわね」とおばさんが言った。
美織は満面の笑みでケーキを食べていた。僕もデコレーションケーキなんて久しぶりだったから頬張るように食べた。
「あっ、そうそう。隠していたわけじゃないけど、あなた達はもっと小さい頃に一度会っていたのよ。確か写真があったはず」
「えー、嘘」と美織が言った。
おばさんは奥の部屋から一枚の写真を持ってきた。
「これよ」
「あっ、これ見たことあるような」と美織は言った。
そこには家の前で撮られた若い頃のおばさんと二歳くらいの美織(と思われる)に、その隣で若い頃のうちの母さんと二歳くらいの僕(と思われる)が写っていた。
これがあなた達よ。こっちが美織でこっちが亮太君。夏だから二歳になった頃ね。
「えーーー、そんな前から会ってたの?」と美織は驚いて絶叫していた。
「じゃあこれが亮くんのお母さん?」と美織は訊いてきた。
「うん」と僕は頷いた。
「……似てるかも」と言って美織は今の僕の顔と見比べた。
僕はその言葉をそっくり返してやりたかったが、おばさんの手前やめることにした。
「私がひとつ下で幼なじみだったのよ。お互いに嫁いでここを離れたんだけど、これはお盆の頃だったかな。ちょうど帰省が重なったのね。その時に一緒に撮った写真よ」
「知らなかった」と美織は言った。
「僕も」
「嫁ぐ前の二十歳くらいまではここで交流があったのよ。その頃のこの辺の女の子といったら裁縫で洋服を作り合ったりだとか料理を一緒に作ったりとかお菓子を焼いたりとかだったから、あの頃カレーも一緒に作っていたかもね」
「なんでもっと早く教えてくれなかったのさ」と美織は言った
「子供ってのは感受性が強いじゃない。余計なことで不安を募らせたり、期待を膨らませたりしちゃいけないでしょ。大人になってから真実を伝えた方がいいこともあるのよ」
「ふーん」と美織は半分しか納得していないような顔で言った。
たぶんうちの母さんが写っていることで、おばさんは小学生時代の僕や美織には伏せておくべきことだと判断してこの真実に蓋をしたのだろう。無意味に母親を思い出させるようなことはしない方がいいという当然の判断だと言える。
『知らないままの方が良いこともあるんじゃないか』トオルの言葉がまた脳裏に浮かんできていた。それとおじいちゃんが言っていた、『ここらの人はどこかで繋がってるみたいなもんだ』という言葉。
僕は紅茶を飲みながら、感慨にふけっていた。
うちの母さんと美織のおばさんは幼なじみだったこと。僕と美織は二歳の時にはじめて会っていたこと。おそらくおばさんは離婚して美織と実家に戻ってきたこと。人と人との繋がりが人生なのかなと僕は思い始めていた。必ずどこかで繋がっている。それは張り巡らされた蜘蛛の巣の糸を進むようにあっちへもこっちへも行けるけど、その糸を辿っていくと結局は全部繋がっている。そういう人と人との繋がりがまた次の繋がりを生んで人生は形成されていくような気がしてきた。
ケーキを食べ終わって僕達は後片づけをした。
時刻は八時になっていた。
「おばさん、今日はごちそうさまでした。美味しかったです。あと色々話せてよかったです」と僕はお礼を言った。
「いいえ、こんな賑やかな食事はうちも何年ぶり。食事は大勢で食べた方が楽しいわね。また来てくれたらおばさんも嬉しいわ」
「ねえお母さん、時間早いしまだ亮くん居てもいいでしょ?」
「そうね……。十時までにはおじいちゃんの所へ戻るのよ。お母さんは明日早いし、もう少しやることやったらお風呂入って寝ちゃうと思うけど」とおばさんは言った。
「やった!」と美織は喜んだ。
おばさんは美織の喜ぶ姿を見ながら優しく笑っていた。
それから僕達はもう一度紅茶を入れて、それとちょっとしたお菓子を持って二階の美織の部屋へ行った。
「どうぞ」と美織が言った。
僕は少し緊張しながら部屋に入った。そこは小学校時代の美織の部屋からさらに女の子らしい部屋に進化していた。ぬいぐるみが増えて、ピンク色のあれやこれや、花柄のあれやこれや。そしていつもの美織の匂いが充満していて僕は自然と笑みが出た。
「何にやにやしてるの?」
「美織の匂いがいっぱいする」
「もう。それ恥ずかしいからやめて」と言って美織は照れ笑いした。
僕達は小さなテーブルに紅茶とお菓子を置いて隣り合って座った。
「あ、これ。ハンカチありがとう。洗ってこの部屋に置いておいてたから私の匂い付きよ」とからかうように美織は微笑んで言った。
「一生の宝物にするよ」と僕もハンカチの匂いを嗅ぐ仕草をして応えた。
美織は「もう」と言って僕の膝を軽く叩いた。
それから部屋を見回すと、勉強机の上にある写真立てがすぐに気になった。
「あの写真って、見てもいい?」と僕は美織に訊いた。
「どうぞ」
それは十一歳の僕と美織がしゃがんで手持ち花火にローソクの火をつけようとしているところの写真だった。
「覚えてる?」
「覚えてるよ。優子ねえちゃんが熱を出していた日だ。……これずっと飾ってたの?」
「そうよ。六年間。だって二人だけで写ってるのその日のしかないんだもん。……それに」
「それに?」
「亮くんは花火に火をつけようとしてるところでしょ。私はそんなのそっちのけで、亮くんの顔を見つめているのよ。笑っちゃうでしょ。あの頃の私を象徴する一枚」
「そう言われれば」僕は自然と笑いが出た。
美織は小さなチョコをひとつ食べた。僕は紅茶を一口飲んで「ダイエットは?」と訊いた。
「だから、ああ、お母さんったらもう」と美織は言ってふくれっ面をする真似をした。
それから僕は手を伸ばして気になっていたぬいぐるみを取った。
「やっぱりそれも覚えてるのね」と美織が言った。
「ああ、もちろんだよ。……美織のだったんだね」
それはあの秘密基地の中にあったクマのぬいぐるみだった。
「ヒロトも元気よ。高校は違うけど野球がんばってる」と美織は教えてくれた。
「そうか……」と僕は言って、今回の冒険のどこかで彼に会えればいいなと思っていた。
それから僕達はチョコを食べ、紅茶を飲み、たくさん話し合い、たくさん触れ合い、たくさんキスをした。全ては清流の流れのように滑らかで自然な成り行きだった。
「あー幸せ。幸せだよね?」と美織は訊いてきた。
「もちろん」
「いつまでもこのまま続けばいいな」
「うん。……でも僕達はまだ子供だから実際的にはただ楽しかったあの頃と何も変わってない。たぶん大人になるとこうはいかない」
「そうよね。養ってもらって学校行ってただ遊んでるだけだもんね」
美織はより一層僕に体を寄せて抱きついてきた。僕は彼女の細く長い髪を優しく触って指を絡ませていた。僕もやっと美織との接し方に慣れてきて、少々の興奮状態にあっても心はとてもリラックスできるようになっていた。美織のマシュマロのように柔らかい胸。白く透き通るような肌。すべすべの太股。張りのあるお尻。それらが僕の手に触れ体に触れ、今も僕のペニスは大きく勃起し脈を打っているけど、もう隠したり恥ずかしがったりすることじゃないんだと思えるようになっていた。どこにでもある十七歳の恋人同士の風景。僕はその階段を一段二段と登り始めているのを実感していた。
「亮くん、ホタル丘へはやっぱり行くつもり?」と美織は訊いてきた。
「明日にでも少し見てこようかなと思っている。おじいちゃんが色々教えてくれて、あそこを訪れる大人の人は普通にいるらしいんだ。だから今の僕ならそこまで危険な場所じゃない気がしている。色々準備もしていくし」
「それ私も知ってるわ。何度かあそこ登ってる人見たことある」
「まあ行ったところで僕が知りたいことが解決するかわからないし、危険を感じたらすぐに退散するよ」
それから少し間をおいて美織は言った。
「さっきのお母さんの話、何でも二人で相談して、力を合わせなさいって」
「うん」と僕はおばさんの言葉を思い出しながら言った。
「だから、これから亮くんとはそうして行こうと思うの。亮くんとなら何でも乗り越えられると思うの」
「うん、もちろん」
「それで言うべきかどうかずっと迷っていたことがあるんだけど、お母さんの言葉聞いて私決心ついたの」
「うん、なんだろ?」
「ねぇ……、私もホタル丘に連れていってくれないかな?」
僕は少し考えたが、やはり少しでも危険がある以上美織は連れていけないと思った。
「駄目だ。一緒にいたいのはわかるけど、美織に何かあったら困る。女の子だし。それにこれは僕の問題事でもある」
「そうじゃないの……」
「え?」
「……亮くん、あの日あそこで会ったんでしょ?」
「会ったって?誰に?」
「私も会ったことあるのよ……」
「え?」
「斉藤天狗に」と美織は僕にその名を告げた。
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