第8話 再会
僕の荷物は今背負っているリュックひとつだけだったので、面倒だから客室には上がらずにこのまま少し散歩してみることにした。すぐそばに釧路川が流れているのでその方向へ歩を進めた。すぐに釧路川に架かる幣舞橋(ぬさまいばし)という大きな橋に出た。懐かしい釧路の潮の香りが僕の鼻をくすぐっていた。
釧路川は幣舞橋を通過するとすぐそこで海に合流していた。僕と同じように橋の上で景色を眺めている観光客も何人かいた。確か夕陽の景色で有名な場所だったはずだが、おそらく三十分も前に夕陽は沈んだと思われ、僕もどうせなら見てみたかったなと半ば観光客気分になっていた。港の方から川縁に目を移すと街灯に照らされた人達が歩いているのが見えた。きちんと整備された川沿いの憩いの広場のようなものだろうか。僕は橋からそこへ下りる道を探して行ってみることにした。
歩きながらおじいちゃんのさっきの話を思い出していた。まさかあんな話を聞かされるとは思っていなかった。しかしこの世に不思議な出来事があることを僕は身をもって体験している。仮にそれが科学的には解明できず『妄想』の部類だったとしても、別にそれはそれでいいのではないかと思っている。人は睡眠時に夢を見ることがある。時には怪獣に追いかけられ、時にはお菓子の国へ行ったりする。この世の中のどこかでそれと同じようなことを感じることがあってもいいのではないだろうか。結局全ては頭の中や心の中で感じたり思ったりすることなのだから。同時にトオルの言葉も思い出していた。『知らないままの方が良いこともあるんじゃないか』いやトオルまだだよ。まだまだ僕の冒険は半歩踏み出したに過ぎない。すべてはこれからだ。
僕は下へ降りる階段を見つけて川縁の通りに出た。そこは勝手に両手を突き上げて背伸びをしたくなるような開放的な空間だった。海、山、川には良くも悪くも人間に作用する何かがたくさんあるのだと改めて実感していた。
しばらく欄干に両肘をあてて、あてもなくカモメ達を眺めていた。僕はついこの間クラスで起こった出来事を思い出していた。それはクラスの女子が札幌の大通公園でカモメが飛んでいるところを目撃したと騒いでいた一件だった(大通り公園から海までは三十キロほど離れている)。僕達はこの問題について、鳩じゃない?とか、白いカラスだ、とか、もしカモメが渡り鳥だとしたらあり得るのでは?とか、地震の前触れかも、とみんな好き勝手なことを言っていた。彼女は嘘じゃないと言いながら僕に助けを求めてきて、それで僕は彼女の出身は小樽だからカモメを見間違うとは思えないと言った。さらにトオルが助け船を出してくれて、サケが川を遡上するように豊平川を上ってきたのかも。餌不足とかで(大通公園と豊平川は近い)。それが正解なのかはカモメにしかわからないが、言い出した彼女は「ほらね」と言って少し誇らしげにしていたのが印象的な出来事だった。。
しばらくすると近くのベンチに座っていたカップルが席を立ったので、僕はリュックを下ろして休むことにした。普通の大人なら三人座っても余裕がある一般的なベンチだ。僕はベンチに腰を下ろしてから、財布を落としていないか確認するように、ジーンズのポケットに手をあてた。おじいちゃんから貰った『あれ』があるかどうかを確認したかったからだ。小さな飴玉のような出っ張りが指先にあたったので僕はほっとした。こんなものが少し歩いた程度でポケットから落ち出ることなんて物理的にあるのだろうかと自問自答してしまうが、僕はどうもそういう性格らしい。鍵は掛けただろうか(確認すると掛かっている)。ストーブは消しただろうか(確認すると消えている)。性格だから仕方ないと思う他なかった。とにかくガラス玉は無事持っていた。
僕はリュックから水筒を取り出してのどを潤した。一息つくとおじいちゃんとの会話が自然と蘇ってきていた。特に母さんと僕が同じ神隠しに遭っていたかもしれないという話と、あそこにはお地蔵さんが存在しないという話が蘇っていた。僕としてはお地蔵さんの話がどうしても解せなかった。あれがお地蔵さんでなければ僕は何と目が合っていたのか、とにかく斉藤天狗に会うことができれば全て……、いやいや斉藤天狗とはそもそも何者だ?本当に天狗なのか?それとも人間なのか?人間ならばそれは名字と名前なのか?斉藤さんはわかるが、天狗なんて名前をつける親なんかいな……
「すみません、ここ空いてますか?」
僕は突然叩き起こされた子供のように驚いて「え?あ?いや……」とわけのわからない言葉を発しながら何事かと声の主の方に振り向いた。
家族連れの子供だろうか。中学生くらいのかわいらしい女の子がベンチを利用したいという素振りだった。僕は「ええ、もちろんどうぞ」と言ってリュックに水筒をしまってそれを自分の足下に置きながら左側に体をつめて座り直した。彼女はありがとうと言っていちばん右側にちょこんと座った。
一連の動作がどこかで見た覚えのある光景だった。これをなんと言ったか、ああ、そう。デジャヴだ。
そこから急にスロー再生のようなデジャヴの世界に飛び込んだ。聴力が失われたかのように頭の中は静寂に包まれ、集中力が高まっていた。
このあと港からの強い風に乗って懐かしい薔薇の香りが運ばれる。僕はベンチに座った女の子をチラッと見る。ポニーテールが風に揺らめいている。俯いた横顔、うるうるした瞳、色白でふっくらとした頬。
おじいちゃんの声が頭の奥で響く。
『……あぁ、それにもしかするとプレゼントは他にもあるかもしれんな』
最後に僕は女の子にこう問う。
「美織?」と。
デジャヴが終わるとパッと現実世界に戻されたように聴力が急発進で稼動した。橋を通過するトラックの音、カモメの鳴き声、家族連れの笑い声……
そして、ベンチに座った女の子が声を出した。
「おかえり、亮くん」と。
頬に一筋の涙を伝えながら『美織』は笑顔でこちらを向いた。
「ただいま」と僕も笑顔で応えた。
そこからの美織は人目も憚らず堰を切ったように泣きじゃくった。僕は美織の隣に移動しリュックからハンカチを取り出して彼女に渡した。「あの時ごめんねごめんね、私のせいで」と何度も言いながら泣きじゃくった。僕は「美織のせいじゃない。僕が丘に登ったから悪いんだ」というようなことを繰り返していたが、何を言っても彼女の涙を止める効果は微塵もなく、僕はもう好きなだけ泣かせてあげようとそっと彼女の手を取ってただただ寄り添っていた。
この六年間、いちばん会いたかった人が唐突に目の前に現れたのだから、僕にはこれ以上ない誕生日プレゼントになるはずだった。美織だとわかった時の「やった!」という高揚感は僕の全身を熱くさせた。しかし、彼女の言葉で己の愚かさを痛感していることの方がそれを上回っていた。ずっと自分ばかりが悲劇の主人公だと思い込んでいたからだ。美織がこんなにも自分を責め続けていたなんて考えてもいなかった。自分が最後の目撃人物として、警察や町の人にもたくさん質問されたことだろう。きっと泣きながら捜し続けていたことだろう。もし見つからなかったら、もし死んでしまっていたらどうしようって。夜が明けた翌日も見つからず、二度目の夜を迎えた時の十一歳の少女が受けていたショックは僕なんかにはとても計り知れない。ずっと元気に暮らしているとばかり脳天気に思っていた僕は本当に馬鹿だ。美織がずっと苦しみ続けていたのは全部僕のせいだ。
おそらく六年分の涙を流し終えたところで、美織は少しずつ正気を取り戻して徐々に呼吸も整ってきていた。それからしばらくして美織は口を開いた。
「六年ぶりなのにこんなに泣いちゃってごめんね。本当はもっと早くに謝りたかったのに、手紙や電話もしようと思えばできたのに。あの時私が具合悪くならなければあんなことにならなかったって。でもどうしても連絡できなかったの。怖かったの。嫌われてるんじゃないかって。本当にごめんなさい」
「わかったからもう謝らなくていい。僕のせいだ。あのことでずっと美織が責任を感じていたなんて……。全部悪いのは僕じゃないか。それにほら、今はこうしてぴんぴんしてるだろ。無事だったんだから自分を責めるのはもう終わりだ」
「うん……。ああ、やっと言えてよかった」
美織はそう言うと、ずっと引っかかっていたものが取れて安心したのか、僕の右肩に横顔をもたれ掛けてきた。
しばらくそうしていると「おもしろーい」と美織は笑いながら言った。
「ん?何が?」
「だって亮くん、あの頃と同じ匂いなんだもん。懐かしい」と美織は僕の右肩に顔をくっつけたまま笑って言った。
「そ、そうか?自分じゃわからないよ」と僕も笑って応えた。
「あの頃の私、いつも亮くんにくっついていたからわかるもん。この匂い大好き」と美織はまた笑いながら言った。
「それはお互い様だよ。さっき美織の懐かしい香りがしたような気がして、もしかしたらって思ったんだよ。そうじゃなきゃベンチの横に座った人がどんな人かなんて深く気にしないよ」
「そっか。私の匂いか。恥ずかしいな……。今日はあの頃のようにポニーテールにしてきたの。私、小さい頃はいろんな髪型してたでしょ。亮くん覚えてないと思うけどさ、ある日すごく暑い日があって、暑くて髪が邪魔だからってお母さんにポニーテールに縛ってもらって遊びに行ったの。水遊びした日だったかな。そしたら亮くんその髪型いいねって言ってくれたんだよ。いい匂いもするって。あの時嬉しかったな。三年生の時だよ。それでその日からずっとポニーテールにしてってお願いして、お母さんに不思議がられたんだ。笑っちゃうよね。だから今日もあの頃と同じ風にしてきたの。気づいてくれてよかった。どうやって亮くんに話しかけようかってずっと緊張してたんだ」
「それ覚えてるよ、その日のこと」
「え、嘘。本当に?」
「うん、覚えてる。ここでの出来事は全部覚えてる」神隠しのことを除いては。と僕は心の中で付け足した。
「そっかあ。あ、でも私だって覚えてるからね。全部」
僕達は黙って川の流れを見つめていた。
全部覚えていることの中でも、たぶん美織も僕と同じようにあの日のキスのことを思い出しているはずだった。生涯忘れることのないあの出来事を。
あれから僕は美織とのキスのことを毎日のように真剣に考えていた。十一歳の少年と十一歳の少女がキスをしたこと。まだ小学五年生の話だ。その後僕が見たり聞いたりした経験で言えば、その多くの場合は中学生や高校生になってから、好き合う恋人ができて、そこでやっとキスという行為をお互いの意思で行う、あるいはお互いに意識し始めるもので、それでも同世代の全体からみればそれを経験しているのはごく一部の少数なわけで……。これに倣うと、僕達のキスはかなりイレギュラーな存在であり、年齢も年齢なら行為が先で自分の気持ちも相手の気持ちもはっきりしないまま、しかもその後すぐ行方不明事件になってしまったから、悶々とした六年間を送ってきたという……。だから今回の冒険ではそういうことをはっきりさせたいという目的も大きかった。
しばし沈黙が流れたあと、僕は美織に尋ねた。
「でも、どうして僕が今日ここにいることを知ってたの?おじいちゃんから?」
「そうよ。山科のおじいちゃんに、もし亮くんが釧路に来ることがあったら教えてって頼んでたの。毎年のようにね。おじいちゃんそれをきちんと覚えていてくれて、一昨日かな、亮くんが来るって教えてくれたの。今日の七時にホテルのロビーにいるからって。それで遠くから隠れて見ていたんだけど、亮くんすごく大きくなってて本当にびっくりした。でもこれでやっと会えるんだって思ったら、また急に怖くなっちゃったの。私に会って亮くんが喜んでくれるとは限らないでしょ。嫌われてたらどうしよう、もし会いたくないと思ってたらどうしようって。それに恥ずかしいやら緊張してるやらでどこで声をかければいいかわからなくなって、ただずっと後ろを歩いてたの。ここでベンチに座ったからやっと勇気を振り絞って……」
「会いたくないわけないじゃないか。馬鹿だな」と僕はそう言いながら、なぜおじいちゃんが時間を気にしていたのか合点がいった。
「うん……ありがとう。ああハンカチ汚しちゃった。洗ってから返すね……。ねえそれより時間大丈夫なら温かいもの飲みに行かない?」
「もちろん」と僕は応えた。
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