第7話 釧路のおじいちゃん

 釧路駅に到着し、六年ぶりに釧路のホームに降り立った僕は、昔暮らしていた故郷に来たみたいなそんな懐かしい感情に支配されていた。札幌で生まれ育った僕にとって釧路は故郷ではないけど、この街が放つ匂いを胸一杯に吸い込んでみて、そこでやはり思うのは、ここは札幌とは違う僕にとって懐かしい釧路なのだという気持ちだった。いよいよこれから僕の本当の冒険が始まると思うと高鳴る気持ちを抑えることはできなかった。

 改札を抜けて辺りを見渡すとすぐにおじいちゃんが見つかった。おばあちゃんも一緒だった。このおばあちゃんというのはおじいちゃんの妹にあたる人で僕にとって本当の意味でのおばあちゃんではない。ただ本当のおばあちゃんは僕が生まれる前に既に亡くなっていたから実際的には本当のおばあちゃんと変わらない存在だった。以前はおじちゃんの家の近所に旦那さんと一緒に住んでいたので僕は両方の家をよく行き来していたのだけど、旦那さんに先立たれてからはおじいちゃんの仕事を手伝いながら一緒に暮らしているようだった。

「よく来たな亮太、疲れたべ」とおじいちゃんが大きな声で近づいてきた。

「いやあ亮太、大きくなったわね」とおばあちゃんが駆け寄ってきて僕の手を握った。

「荷物はそれだけか?」とおじいちゃんは僕のリュックを指さして質問した。

 矢継ぎ早に二人に声をかけられ、僕はうんうん頷くだけだった。

「ささ、話は後でゆっくりするべ。車に乗りなさい」とおじいちゃんは駅前に停めてあるバンタイプの軽自動車を指さしながら言った。

「汚ねえがすぐ着くから辛抱してな。まず夕食にしよう。お腹空いたべ?」

 おじいちゃんはそう言うと車を通りに出してしばらく道なりに進めた。

 何本目かの信号を左折して、中堅クラスのホテル前でウインカーを上げた。駅から徒歩五分といった距離だろうか。僕達は車を降り、ホテルの地下一階にある和食屋さんで夕食をとることになった。


 おじいちゃんが仲居さんに名前を告げると僕達は個室の座敷部屋に案内された。入ると畳の匂いが心を落ち着かせてくれた。札幌の家にも畳の部屋はあるけどこんな匂いがしたかなと思えるほど乾いたいい香りが漂っていた。僕は座布団に腰を下ろすと途端にどっと疲れを感じた。おじいちゃんとおばあちゃんの顔を見て安堵の気持ちが広がったのかもしれない。きっと札幌を出てからずっと緊張が張りつめていたのだろう。

「このホテルのお偉いさんにおじいちゃんの知り合いがいてな。話は全て通してあるんだよ。知り合いって言っても札幌のような都会と違ってここらはみんなどこかで繋がってるようなもんだべ、だから融通が利くってだけだが……。それでだ、まず亮太は今日ここで一泊しなさい」とおじいちゃんは温かいお茶を飲みながら僕に伝えた。

 あまりに唐突な話に僕はすぐに質問した。

「おじいちゃんの家は、その……、僕が行くとまずいのかな?」

「いやいや、うちの方は何もまずいことはない。いつ来てもいいように用意はしてある。なあ、おい」とおじいちゃんは言いながらおばあちゃんの方を向いて応えを求めた。おばあちゃんは笑顔で二度頷いていた。

「あの件以来、お前を釧路に立ち入らせないようにしたのは、また同じ事があっては大変だという思いからだ。何が原因だったかなんてわからない。あの時はまだ亮太も小学生だったし、もっと大人になってから来させるつもりだったんだ。それはわかるな?」

 僕は黙って頷いた。

「今回呼び寄せるにあたって少し考えたんだが、うちの方に来る前に一日でもこの土地に体を慣らしてからの方が良かろうと思って、ここで一泊して何も問題がなければ、うちへ連れて行こうと思っとるんだ。旨い物を食べて大浴場でゆっくり風呂に入って、そのうち自然と水や空気や気候に体が慣れてくる。あとはぐっすり寝ればいい。なあに、誕生日プレゼントだと思えばいいんだ。今ここで食べる食事は誕生日パーティみたいなもんだ」

 僕はありがとうと言って頷いた。

 そうこうしているうちに、仲居さん達が鍋の用意をし始めたので話はそこで終わり、運ばれてきた料理が揃ったところで、おじいちゃんとおばあちゃんが誕生日おめでとうと言って夕食を食べることになった。魚介の入った鍋物に刺身に天ぷら、茶碗蒸しといった釧路ならではの食材を使った料理で、もちろんどれも美味しかったのだけど、久々に家族三人で笑いながら食べる食事というものに僕はちょっとした感動を覚えていた。おじいちゃんは車で来ていたのでお酒が飲めなくてそのことだけが不満そうだったけど、僕は自分のためにこうしてくれている二人に感謝していた。なぜだか父さんは神戸で今どうしてるかなと少し考えていた。

 おばあちゃんは僕に色々と料理を勧めてくれたけど、さすがにお腹がいっぱいになって食事を終えることにした。おじいちゃんとおばあちゃんは随分小食だった。

「酒が入っていればまだのんびりやってもいいんだが、飯はここらで終わりにするべ」

 おじいちゃんはおばあちゃんに合図して食器をまとめ出した。おばあちゃんは仲居さんに声をかけに行った。

 おばあちゃんと仲居さん達は食器の後片づけをして、最後に仲居さんがテーブルを綺麗に拭いて熱いお茶をもって来てくれた。おじいちゃんは煙草に火を点けておもむろに話し出した

「さてと、今日は亮太に大切な話をしなければならん。今年呼んだのはそれが理由だ。実を言うと、おじいちゃんは今年の冬の終わりに少し入院しててな。あ、いやいや大した病気ではない。少し肝臓が良くないという程度だ。前から医者に言われててな。そいうのもあって、去年からか、こいつと一緒に暮らすようになったんだ。お互い独りでやってるよりは何かあった時に助け合える。それになんだかんだ言っても大切な兄妹だからな。ただな、今は二人とも体に大きな問題はないが、おじいちゃんもおばあちゃんも七十を過ぎている。いつどうなってもおかしくない年齢だということはわかってくれるな?」

 僕は頷いた。いつまでも元気だと思っていたけど、いつかは必ずそういう日がくると思うと僕は悲しくなった。

「それと、最近物忘れというか、そっちの面でも自信が持てなくなってきててな。記憶がはっきりしている内に伝えるべきものは伝えておくべきだと二人で話していたわけだ」

 おじいちゃんは煙草を一度ふかしてから話を続けた。

「それで、亮太はホタル丘へ行くつもりなのか?」

 僕はどきっとしていた。でも隠す必要もないので、行くつもりだと伝えた。

「そうか、わかった。もう十分大人だ止めたりはせん。止めたところで無駄だろう。ならば、あの丘について少し話す必要があるな」

 おじいちゃんは何かを思い出すように一度上を見上げてから話し始めた。

「昔、あの丘は天狗丘と呼ばれていてな。ほらあの天狗だ。わかるだろ?今では馬鹿な話に聞こえるかもしれんが、あそこには天狗が住んでいるという言い伝えがあったからそういう名前だったんだ。祠については誰がどういう目的であそこに建てたかはわからないが、戦後、おじいちゃんがここに来たときにはもう今と変わらない形になっていたはずだ。今は知っての通りホタル丘という名で呼ばれているが、あれは敢えてそう変えた節があるようだな。実際昔はホタルもいたんだよ」

 僕は何度かお茶をすすって、おじいちゃんの話に耳を傾けていた。

「天狗隠しという言葉を知っているか?神隠しと言った方がわかるかな。昔からそういうことが起こる場所じゃないかと言われていたんだ。誰かが死んだり怪我をしたりということは聞いたことがないが、ちょっと居なくなるということが何度かあったようだ。天狗の仕業だなんていう人もいたくらいだ。亮太は実際にそうなったのだからわかるべ。とにかく説明のつかないことが起こる場所だということは確かだ。女、子供がそうなりやすいとも言われている。だから子供はあそこには入っちゃいけないということなんだ」

 おじいちゃんは一服してから続けた。

「実はあそこは、大人の男が交代できちんと管理して維持している。草を刈って掃除をしてお供え物をしたりな。おじいちゃんも年に何回かはやってる。他の人も一緒だけどな。確かに何かありそうな雰囲気ではあるよな。誰かにずっと見られている気配というかな。それでもあれはあれで意味があってあの場所にあるんだと思っとる。あのお稲荷さんはきっと町を見守ってくれとる。だから大切にしていかなきゃならん。今の若いもんには薄れてしまった感情かもしれんがな。あぁそれと、当然と言えば当然だが、参拝に来る人ももちろんいる。話では毎週のように訪れる人間もいるようだ。子供は入るとよくないとは言われているが、別に全面立入禁止でもなんでもないからな。とにかくあの丘はそういう場所だということだ。ここまではいいな」

 僕はおじいちゃんの話がおかしいなと思った。

「お稲荷さんが見守ってるって、お地蔵さんは?」

「ん?地蔵?あそこには地蔵はないぞ、右と左に一対のお稲荷さんがあるだけだ。祠の中も何度か清掃しているが地蔵のようなものは見たことがないな」とおじいちゃんは記憶を確かめるように言った。

「いや、でも……」

 じゃあ僕が見たお地蔵さんはいったい何だったのか。

「なんだ亮太はあそこで地蔵を見たのか……うむむ、子供にしか見えない世界というものがあるのかもしれんな」

 おじいちゃんは最後に一服して煙草の火を消しながら続けた。

「まあいい。地蔵さんのことはおいておこう。まだ話がある。ここからの話は亮太に隠していたことなんだが、お前が発見された後、警察に誰かに遭ったと言ってたべ。なんと言ったっけな」

「斉藤天狗だよ」と僕はスクラップブックに書き留めていた名前を告げた。

「そうだ、斉藤だったな。斉藤天狗」

「あれは結局おじいちゃん達が、子供の錯覚だから気にせんでくれということで話をうまく流したんだが、それはお前を信じてないからじゃないんだ。ほら考えてもみろ、天狗に遭ったなんて言ったらこの子は頭がおかしいんじゃないかという話になってしまうべ。大袈裟になればお前の将来にとってもよくない。新聞にも捜索記事が載ったくらいだからな。だからあれでお終いにして数日後には札幌に帰したというわけだ。ただ亮太が嘘を言っていないというのにはきちんとした根拠がある。おい、あれを……」

 おじいちゃんはそう言うと、おばあちゃんはハンドバックから何かを取り出しておじちゃんに渡した。

「お前を最初に発見したのはおじいちゃんだ。優子の父さんも一緒に連れて行ってたからあれにおんぶさせて石段を下りたんだが、まずはこれだ」

 おじいちゃんは手のひらサイズの小さな巾着袋から何かを取り出してテーブルの上に転がらないように注意して置いた。

「お前は右手にそれを握っていたんだ。ガラスの玉だと思うんだが、普通のビー玉とは違う。少し小さいんだな。それに中央に小さな黒い点が入っている。それをお前は握りしめていた。そんなものがあの森で拾えると思うか?あの日の夏祭りでもそんなガラス玉は扱わなかったしな……これを見て何か思す出すことはあるか?」

 僕はガラス玉の記憶はないとおじいちゃんに伝えた。あそこで起こった出来事は覚えていることと、まったく記憶にないことと、夢の中のような出来事が混在したままで、だからそれを確かめるためにホタル丘へ行ってみると伝えた。

「うむ、わかった。次はこれだ」

 おじいちゃんはそう言いながら今度は紙に包まれた物をテーブルの上に置いて広げていった。中から出てきたのは僕が手にしていたというガラス玉と同じようなガラス玉だった。こちらの玉にも真ん中に黒い点が入っていた。

「同じ玉に見えるだろ。それはな、もう三十年も前だと思うが、お前の母さんが遊びから帰ってきておじいちゃんに見せてくれた物なんだ。誰かに貰ったとかで「綺麗でしょ」と言っていたのを覚えておる。そのあと、死んだばあさんが話し相手をしたから詳しいことはわからんが、ばあさんはそれを和紙に包んで仏壇の引き出しの奥にずっとしまっておいたようなんだ。三年くらい前に引き出しを外して掃除した時にそれが奥にあるのを偶然見つけてな。六年前に亮太が握っていたガラス玉と同じじゃないかと気づいたわけだ。でもおかしいだろ?友達や近所の人に貰った物なら仏壇の引き出しはないだろ……。たぶん、母さんも子供の時に神隠しに遭っていたんじゃないかとおじいちゃんは思っとる。亮太のように一日や二日居なくなるような大袈裟なものじゃなくて、一時間とかなら考えられることだ。もしかすると……母さんが大人になってから居なくなったのもそれと何か関係があるかもしれんな」

 隣でおばあちゃんは涙を流していた。僕もなぜだか涙が込み上げてきていた。

 おじいちゃんは僕が握っていたというガラスの玉を巾着袋に戻して手渡してきた。得体の知れない物ではあるが、お前が持っておくのがいちばんいいだろうとおじいちゃんは言った。僕はこくりと頷きながらそれをジーンズのポケットにしまった。

「よし、今日のところはこれくらいにしよう。聞きたいことがあれば明日話せばいい」

 そう言うとおじいちゃんは時間を気にしておばあちゃんに今何時かと訊いていた。時刻はもう少しで七時になるところだった。

 おじいちゃんは早く帰って晩酌がしたいと笑いながら言って帰り支度を始めた。おばあちゃんが会計を済ませて、僕達三人はエレベーターで一階フロントまで行った。チェックインを済ませると三○二号室のキーと明日の朝食券を受け取るだけ受け取って、客室には行かずにおじいちゃんの車を見送ることにした。

「明日は十時半に迎えに来るから、ロビーで待ってなさい。今日は出歩いてもこの近辺を散歩するくらいにしておくんだ。わかったな。今日はホタル丘の方へは行くんじゃないぞ」

 僕は頷きながらおじいちゃんとおばあちゃんに今日はたくさんありがとうと伝えた。するとおじいちゃんは「誕生日祝いだと言っただろ。あぁ、それにもしかするとプレゼントは他にもあるかもしれんな。とにかく明日の十時半にロビーでな」とおじいちゃんは意味深な笑みを浮かべながら車に乗り込んだ。僕は車が通りに出るまで手を振り続けていた。

 他にもプレゼントがあるってなんだろうと考えたが、きっと明日になればはっきりすると思ってそれ以上は深く考えなかった。外は既に日が暮れていた。やはり札幌よりは日暮れが少し早いような気がしていた。釧路の気温は真夏でも三十度を超すことは年にあるかないかという地域だった。大体は二十五度前後で過ごしやすく、日が暮れれば暑いと感じることもほぼなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る