第5話 ヒロト

 一九九五年、高校二年の夏に書き綴った十一歳の僕。その三


 二日前に釧路に来た僕は、お盆過ぎまでの約一ヶ月間をここでおじいちゃん達と過ごす予定になっていた。もう五年生になった僕は父さんと三つの約束をしていた。しっかり勉強すること、しっかり挨拶すること、自分のことは自分でして手伝えることは手伝うこと。その三点だった。僕は札幌で週に三回剣道の道場に通っていたから礼儀や挨拶にはいつも注意して心がけていたし、今日は午前中に朝食の洗い物を手伝って、簡単に掃除してから今日の分の夏休みの宿題をやり終えていた。今のところ約束は守っている。

 お昼に戻ってきたおじいちゃんと昼食を食べてから、午後からは畑に出るおじいちゃんと一緒に外に出て、一人でいつもの公園へ向かった。この公園は子供達にとって待ち合わせ場所の役目を担っていた。顔見知りの子供たちがいれば一緒に遊べたし、誰もいなくてもそのうち町の子供が来る場所だった。おじいちゃんの家にはテレビゲームがなかったから、ゲームはたまに優子ねえちゃんの家で遊ぶくらいで、僕はもっぱら外で遊んでいた。ゲームは札幌でも遊べるけど、札幌では自然の中で遊べないから僕の興味はそっちの方が強かった。それが去年までの夏の過ごし方だった。

 公園に着いてみると母親と一緒の幼児が二人と、他数人の小学生にも顔見知りの子は誰もいなくひとりで時間を潰すことにした。いや正確には、今年の年始め以来顔を合わすボスゴリラが石垣の塀にボールを投げて跳ね返ったボールをキャッチする遊びをしていたのだけど、お互いに「よう!」とも「おう!」とも声をかけず、遠くからその存在を認めているだけだった。ボスゴリラとは僕が勝手にそう呼んでいるだけの少年で、ヒロトという名前の美織の同級生だった。だから僕とも同じ小学五年生ということになる。なぜボスゴリラかというと、まずゴリラのように僕達よりひとまわり体格がいいこと。そして以前ジャングルジムのてっぺんに上っていた彼が、子分達(他の同級生)を従えてどこかへ消えていく姿がまさにボス格のゴリラそのものだったこと。それで僕の中ではボスゴリラと呼ぶようになっていたのだ。

 ボスゴリラをこの町で見かけるようになったのは小学三年生の夏からで、話ではその春に転校してきた少年だということだった(当時から背が高かった)。転校してきた子供というのもあってか彼はいつも一人で居ることが多かったから、僕達は何度か一緒に遊ぼうと声を掛けたことがあった。野球やサッカーに、かくれんぼだとか、だるまさんが転んだだとか、そんな誰もが混ざって遊べるような遊びだ。しかし、彼は僕がグループにいる時に限って言えば、一度も参加しようとせず、ただその場で眺めているか、ぷいっとどこかへ消えてしまうのだった。ただ同級生の美織や美織と仲のよい葵によれば、彼は新しいクラスにも慣れて、夏休み前の僕が釧路に来る前は、ここでも私たちとよく遊んだし、運動神経も抜群で活発な男子だということだった。

 僕はその話を聞いて以来、ボスゴリラの敵意のある鋭い眼差しを感じる錯覚を何度か覚え、そしてそれが錯覚でなく確信に変わるまでそう時間はかからなかった。いつか遊んでいる最中に誰かの視線を感じて振り向いたら、じーっと僕を睨みつけるボスゴリラがそこにいたからだ。その時のことを例えるなら、俺の縄張りによそ者は来るなというような、自然界でよくある争いを連想させるものだった。その時からボスゴリラは僕のことを気に食わないのだろうと思ようになり、一度そう思ってしまうと僕の方も彼に好意を抱くことはまったくできなかった。

 初めて会った年の夏も冬も、去年の夏も、今年の年始めも、そして今日も、ボスゴリラと僕の距離感は全く進展なく、むしろこの穏やかな田舎町でいつゴリラ爆弾が爆発してもおかしくないとすら僕は思うようになっていた。

 今日はボスゴリラもいるしもう帰ろうかなと考えていた時のことだ。

「あれ?亮太くん?」と女の子の声が後ろから聞こえたので僕は振り向いた。

「あ、やっぱり亮太くんだ」そこにいたのは美織の親友の葵だった。

「よっ」と僕は照れくさそうに右手を上げた。

「久しぶり、いつ来たの?」と言って彼女は駆け寄ってきた。

「二日前」

「へえ知らなかった。美織は?もう会った?」

「昨日優子ねえちゃんと一緒に」

「そっかそっか。うふふ……」と葵はおかしな笑いを浮かべて言った。

「あ、ごめん。これから習い事へ行くから今度またみんなで遊ぼうね」

 葵は僕に手を振ってからボスゴリラの方へ行って、僕と同じように一言二言会話をしてボスゴリラにも手を振ってから公園を出ていった。

 人には好みの違いはあるけど、葵は誰が見ても目がぱっちりと大きくて、そばかすが少しある整った顔立ちのかわいい女の子だった。その印象は初めて彼女を見たときから今日の今まで変わることはなかった。もし僕の学校に来たら、きっと男子からいちばん人気のある女子になるだろうと思うくらいかわいらしい女の子だった。

 それから葵と同じように顔なじみの男子と女子が何人か来て、そのうち美織も来たので、みんなと久しぶりに話したり、キャッチボールをしたりして遊んでいた。ふと辺りを見渡すといつのまにかボスゴリラの姿は公園から消えていた。

 五時前に美織がピアノ教室へ行く時間だと言うので僕も帰ることにした。僕達は途中まで一緒に歩いて、ある交差点で分かれてそれぞれの方向へ進んだ。

 晩ご飯まではまだ時間があったから、僕は散歩がてら少し遠回りをして、ホタル丘の登り口へ続く緩い坂道を通っておじいちゃんの家へ戻ることにした。人けのないところだけどこの辺の地理なら僕はもう迷う心配がないほど慣れていた。左手にホタル丘への石段の登り口を見ながら、もう少し進むと同じく道路の左脇に小さな沢がありその横に小屋が建っているのが見えた。小屋の裏手は広葉樹が広がりホタル丘の森に繋がっているようだった。次第に近づくと小屋の陰から何かの気配が感じられた。まさか熊ではないだろうが、キツネかネコか、そういう気配だ。僕は小屋の脇を通りかかった時に恐る恐るちらっとそちらに目をやった。すると誰かいることがわかった。それは学校のジャージを着た男子中学生二人だった。彼らは僕に見られてびくっとしている様子だった。僕も彼らが右手の指に挟んでいる物を見てびくっとしていた。彼らはそこに隠れて煙草を吸っているようだった。

 僕は咄嗟に引き返したが、

「おい、まてよ」と案の定呼び止められた。

 僕はそこに立ち止まるしかなかった。

「見たことねえ顔だな、お前知ってるか?」と角刈りに剃り込みの入った方が、もやしみたいにひょろ長い方に言った。ジャージのネーム欄から彼らが一年二組の生徒であることがわかった。僕より二つ上だ。

「いいや知らねえ」ともやしが言った。

「名前は?どこに住んでる?」と剃り込みが訊いてきた。

「……白石亮太。札幌からおじいちゃんの家に遊びに来てる」と僕は言った。

 すると、もやしが口を開いた。

「はいはいわかった。いっこ上の山科優子のいとこだべ?札幌から毎年遊びに来てる子がいるって。弟が何度か遊んだことあるって言ってた」

 僕は、恐る恐る「そうだ」と言った。

「よしわかった。じゃあ今ここで見たことは誰にも言うな。わかったべ?それと今持ってる金を全部出せ」とニヤニヤしながら剃り込みが言った。

 僕は怖くなって泣き出しそうだったけど、金なんか持ってきてないと言った。

「おめえ札幌の奴なんだべ?いっぱい金持ってるべ。早く出せよ!」と言って剃り込みはいらいらした様子で僕の胸を小突いた。

「持ってきてないものは持ってきてない」と僕は小突かれてだんだん腹が立ってきて大きな声で言った。

「なまらむかつく。じゃあズボン脱げよ。ポケットもパンツも調べてやるから」剃り込みも腹が立ったのかさっきより勢いよく僕を押してきた。

 僕は不意をつかれてグラグラっと後方に尻餅をついてしまった。

 僕はそのままどうしたらいいか考えていた。体格は大きいがこいつの力なんて剣道の体あたりに比べれば大したことはないと思っていた。でもこのまま大人しくしていた方がいいのかとも考えていた。

 その時、登り坂の上の方から人が下りてくるのがわかった。

 それはあのボスゴリラだった。新聞配達のたすきをかけていたが、新聞はなかったので配り終わったようだった。

 最初、彼は見てはいけないものを見た表情で驚いている様子だったが、すぐにこれがどういう状況かを彼なりに理解した様子だった。

「おー、ヒロト、配達終わったのか?だったら早く帰れ。てめえには関係ねえことだから」と剃り込みが言った。

 ボスゴリラは隣にしゃがんで僕の体を起こそうとしながら「大丈夫か?」と小声で訊いてきた。僕は起きあがりながら大丈夫だと伝えた。そしてボスゴリラは「やれるか?」と訊いてきた。

 は?僕は頭の中でそう呟いて混乱していた。どうやらこのボスゴリラは彼らと『やる』つもりらしい。まるで自然界で生き抜くには戦いは避けられないというような鋭い目で剃り込み達を睨んでいた。

「なあ……、あの根室から来た奴はやべえべ」ともやしが剃り込みに言った。

「わかってるから黙ってろ!」剃り込みはもやしを一喝した。

「おいヒロト、なに見てんだ。早く帰れって言ったべ。そいつと関係でもあんのか?」と剃り込みが探りを入れるように言った。向こうもばたばたしている様子だった。

 ボスゴリラは僕にもう一度「どうだ?」と小声で訊いてきた。

 僕は「もちろんやれる」と今度は即答した。

 ボスゴリラは僕の言葉を聞いて、剃り込みに向かって言った。

「……んだ、関係ある。大切な友達だから助けねえとな」と言いながら、剃り込みに突進していった。

 剃り込みは「てめえ!」と言いながら身構えたが、ボスゴリラにジャージの襟元を掴まれるといとも簡単に投げ飛ばされた。柔道の内股のような投げだった。

 それを見て僕も無我夢中でもやしに突進してそのまま突き倒していた。そこから僕達の取っ組み合いは始まった。それは顔面を殴る蹴るというような相手を傷つけるような喧嘩ではなく、相撲や柔道のような動きで、お互いの力がどれほどのものなのかを確かめ合うような、そんなある種の暗黙の了解がある取っ組み合いだった。

 中学一年のひょろ長いもやしとは身長差がかなりあったが、ひょろ長いだけで全く運動能力のない奴だった。一方、剃り込みは気合いも力もありそうだったが、ボスゴリラとの力の差は歴然だった。

 剃り込みがまた投げ飛ばされて「いてえ!」と大きな声を張り上げた時だった。

「こらー!おまえら何やってる!」と叫び声が聞こえた。

 僕達はその声で動きを止めると、緩い坂道を駆け足で上ってくる男の人が見えた。

「やべえ先生だ」ともやしは言いながら、剃り込みと一緒に丘とは反対の崖になっている草むらを滑り降りるように逃げていった。

「おい逃げるぞ」とボスゴリラは言って、坂道を猛然と走っていった。僕は少しスタートが遅れたがとにかくボスゴリラの背中を追いかけた。走りながら僕には逃げる理由があるのだろうか。隠れて煙草を吸っていたあいつらが悪いだけじゃないか……と思っていたがスピードを緩めることはしなかった。

 坂道だったのは最初のわずかで、そのあとすぐに平坦な道になっていた。ボスゴリラは速かった。なかなか追いつかない。でも僕も必死に走って少しずつ距離を縮めた。なんとか追いついて彼と併走することができた。僕達はお互いに抜かれまいと意地になって走り続けた。息が上がり体はもう限界なのに不思議と楽しい気持ちでいっぱいだった。百メートル走ったか、二百メートル走ったか。運動会の徒競走の倍は全力で走った気がした。

 ボスゴリラは息を切らしながら、丘にできている獣道を指さして、そこへ入るように僕を誘導した。獣道に入るともう走ることはできなかった。取っ組み合いで体力を使ったあとのダッシュは実際かなりきつかった。僕達は肩で息をしながら獣道を歩いて進み、茂みに隠れて休めそうな場所があったので、どちらからともなくその場にへたり込んだ。さすがにここまで来れば捕まることがないのは距離的にも地理的にも明白だった。

「やっぱり、なまら足速いな。いつも見てて足の速い奴だとはわかってたけど……」

 ボスゴリラは息を整えながら言った。僕は喉が焼けるように熱くてすぐには応えられなかった。

 しばらくするとやっと喋れそうだったの僕は口を開いてみた。

「さっきは、その……、助けてくれて、ありがとう」

 僕は擦れた声で言葉を区切りながらなんとか話した。

 ボスゴリラは草をむしりながらただ黙って考えているようだったが、

「友達を助けるのは当たりめえだ」と照れくさそうに言った。

 嬉しかった。

 さっきはあいつらの前で『友達だから』と芝居を打って剃り込みにかかっていったのだと思っていた。実際にあの場を切り抜けるにはそういう意図があったとも思う。でも今の言葉に芝居は感じられなかった。

 どうしてか僕は泣き出しそうになっていた。

 ずっと気になる存在だった。もっと早くこうして話せていたら。この数年のぎくしゃくした関係が今の一瞬で全て水に流れ去ったようだった。

「リョウタだろ?知ってるよ」と彼は微笑んで右手を出してきた。彼のこんな笑顔を見たのは初めてな気がした。

「僕も知ってたよ。ヒロトでしょ」と僕も同じように右手を出して握手した。僕はこぼれ落ちそうな涙を隠すように左手の甲で拭った。

 こうしてこの穏やかな田舎町にゴリラ爆弾が爆発することはなくなった。この出来事を境に僕の中でボスゴリラはどこかへ消え、その代わり、ヒロトというかけがえのない親友を手に入れることができた。ここからが僕達の忘れることのできない十一歳の短い夏休みの始まりだった。

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