第4話 出発
翌日、前日の暑さは少し和らぎ家の中にいる限りは汗でべたつくような不快感はなかった。午前中に明日の釧路行きのことをトオルに電話で連絡しておいた。トオルとは小中高とずっと同じ学校に通っていて家も同じ町内の幼なじみだった。だからうちの家庭のことや釧路で起きた事件のこともトオルは全てを知っていた。トオルは小さい頃から頭脳明晰で剣道の達人だった(僕はどちらも彼には敵わないのだが)。いささか短気なところはあるが、僕にとっていざという時はいつも頼りになる男だ。
彼が電話でひとつ忠告してくれたことは、『よくわからないけど、知らないままの方が良いこともあるんじゃないか』ということだった。要は深入りするなということかなと僕はその忠告を受け止めていた。
それから滞在に必要な衣類等を荷造りしておじいちゃんの家へ宅急便で送った。まだ正午前だったけどさすがに外の日差しはじっとしていても汗ばんでくるものだった。荷物を宅急便にして送ったことで、当日はリュックひとつ背負うだけで足りそうだった。リュックには二日分の下着、Tシャツ、靴下の替えと洗面用具、ポケットティッシュ三つとハンカチ二枚、タオルが三枚、絆創膏。それに釧路の地図と懐中電灯と水筒にバタービスケット、レモンキャンディ、カッターとライターとろうそく、あとは筆記用具と数学のノート、大体そんなところだった。まるで洞窟の奥深くへ探検にでも行く様相だが、前のようにいつ何が起こるかわからないから用心に越したことはなかった。それにそれらを追加したところで大した重量にもならなかった。最後に僕の記事が載っているスクラップブックも入れた。
お昼になって冷蔵庫の中の悪くなりそうなものを確認して、昼食と夕食で使い切るように整理した。どうしても食べきれないものは優子ねえちゃんが処理してくれるだろう。飲みかけの大きなペットボトルのスポーツドリンクは出発前に水筒へ移し替えて持参することにした。午後は家の中の掃除をして夕食後はいつものように新聞記事に目を通したが行方不明に関係したものはなかったので、ゆっくり風呂に入っていつもより早めに寝た。
翌朝、優子ねえちゃんはもう支度を終え大学かバイトへ行くところだった。僕に誕生日おめでとうと言って、くれぐれも気をつけるようにと念を押してから急いで家を出ていった。僕は軽く朝食を食べてから台所を整頓し、ごみを収集場に出した。それからたっぷり時間をかけて持ち物の確認をした。九時を回ったので身支度を始めた。洗面所で歯を磨き、顔を洗い、髭を剃って髪型を整えた。Tシャツにリーバイスのジーンズを履いてから、念のため厚めの長袖シャツをリュックに押し込んで、最後に家の中を点検し、余裕を持って十時半には家を出ることにした。
ところが、僕は玄関でスニーカーを履くと何故だか一歩を踏み出せないでいた。両足に重い足枷でもついているかのように足が重くてどうしても前に一歩が踏み出せないのだ。誰かが、いや僕の心の奥底にある感情がそうさせているのか。『知らないままの方が良いこともあるんじゃないか』トオルの言葉が心の中で思い出されていた。僕はこの時初めて真実を知るということについて恐怖を感じていた。トオルが言っていた本当の意味はこういうことだったのだ。そのまま知らないことの方が幸せなことはたくさんある。人は真実の中だけで生きている訳ではないのだ。
僕は振り向いて玄関からリビングへと延びる廊下を眺めてみた。家の中は深い井戸の底のようにしんと静まり返っていた。この家で僕達三人はごく普通の家族として暮らしていた。僕の中に母さんの記憶はまだ残っている。僕と父さんと母さんの三人で暮らしてきたこの家は、いつからこんな静かになったのだろう。どうして僕達は離ればなれにならなくてはならなかったのだろう。
僕の目からは自然と熱いものがこぼれ落ちていた。どうして今こんな感情になるのか自分でもよくわからなかった。真実を知ることは確かに怖いことかもしれない。予期せぬ真実が待ち受けているかもしれない。もしまた釧路で六年前のような出来事が起これば、もう二度とこの家にも帰って来られないかもしれない。それに釧路へ行ったからって僕が探し求めている答えなり真実なりが見つかると決まっている訳でもない。それでも行くのか。それでもこの右足を一歩前に踏み出して前へ進むのか。
しばらく僕は自問自答を繰り返していた。でも答えはとっくに出ていた。僕は十七歳の冒険に行く。行かなければならない。泣いてすっきりしたら覚悟みたいなものができた気がした。たとえそこにどんな真実が待ち受けていたとしても全てを受け入れるだけの確固たる覚悟が僕にはなかっただけだ。今はもう覚悟ができた。何も怖くない。
決意が固まった僕は誰も居ない家の中に向かって深く一礼した。僕なりの決意表明みたいなものだった。すると突然、僕の体を温かい何かが包み込み出していた。それはまるで母親が赤ん坊を無条件に愛する優しさに満ちた安らかなものだった。ふわふわと感じるその心地よいオーラの中で、僕は母さんの温もりのようなものを感じていた。錯覚だとはわかっていてもただそう感じたのだ。しばらくそうしていると次第に全身を包んでいたオーラは感じなくなっていた。僕はゆっくり頭を上げて恐る恐る家の中を凝視した。もちろんそこには誰の気配も感じられなかったが、不思議と全身の余計な力が抜けて両足の重みからも解放されていた。
僕は「行って来ます」と誰もいない家に向かって言うと、力強くドアを押して冒険の旅への弟一歩を踏み出した。
予定よりは遅れたものの、僕は無事に札幌発釧路行きの特急列車に乗ることができた。ここから僕ひとりの長い旅が始まる。特急列車は札幌を出ると一度南下し千歳方面を目指すことになる。南千歳駅に到着すると、帯広・釧路方面へはそれまでの路線から石勝線という路線に乗り変えて一路東を目指すことになる。そこから釧路まではとてつもない長い道のりになる。……トマム。……帯広。……そしてようやく釧路だ。
僕の指定席の隣には誰も座ることがなく、同じような状況の席がいくつかあった。列車が発車すると僕はお腹が空いたので札幌駅で買ったお弁当とリュックから水筒を出して昼食の用意を始めた。ちょうど昼食時だったので周りの乗客も何かしら飲んだり食べたりし始めて賑やかになっていた。
僕はお弁当を食べながら、この旅について自分のやるべきことの計画を考え出していた。滞在期間は融通が利くものだったから今のところ決めていない。それはおじいちゃんも同じ考えで好きなだけいればいいと言ってくれている。僕としても二学期が始まる前までに札幌へ戻ればそれでよかったし、もし問題が起これば明日帰ってきたって誰にも迷惑のかからない旅だった。僕の学校は札幌でも有数の進学校で伝統的に夏休みだからといって遊び呆けている生徒はおそらく少なく、むしろ夏休みの方が予備校だ部活だバイトだと忙しい生徒の方が多いのではないかと思えた。
ただ僕はそういう画一的な事よりも大事なことが人生にはあることを知っていたし、それがたまたま十七歳の夏に行うべきものというだけで、言い方を変えれば、十七歳の夏は僕の人生でもう二度と訪れない夏なわけで、だからそれが冒険であっても何であっても精一杯やらなきゃいけないと感じているだけだった。
特急列車は快調に飛ばしあと十分もあれば南千歳に到着するところまで進んでいた。僕はお弁当を食べ終えたところだった。水筒の飲み物を飲みながら一息ついて、なぜ駅弁というものはこんなに美味しいのだろうか不思議に思っている最中だった。いくつか種類のある中から、僕は地元だし値の張らない普通の幕の内弁当を買ったのだけど、列車内で食べる弁当には不思議な魅力があることをはじめて知った。
しばらくすると南千歳に到着しバタバタと客の乗り降りが若干あった。列車が発車するとあとは延々と東を目指すことになる。辺りの景色も一変し札幌市内のそれとは異なり、車窓からは牧歌的な風景が徐々に広がってきていた。こういう景色はなぜだか心を落ち着かせてくれた。
そんな景色を見ながら、僕は旅の計画を続けることにした。まずリュックからスクラップブックを取り出して最初のページを開いてみた。十一歳の僕の行方不明事件の記事が載っているページだ。僕はその記事をページに貼り付けた時、ブックの余白にメモを入れている。小学五年生の汚い字だ。
ひとつは『母さん』。もうひとつは『さいとうてんぐ』という文字だった。
母さんは僕の母さんを指していて、さいとうてんぐは斉藤天狗と漢字にするのが妥当と思われた。僕が発見されて目覚めた後、この二人に会った記憶が残っていて、それをメモしたものだった。
母さんは年齢もあの頃のままの母さんで、斉藤天狗は自らをそう名乗った見た目は天狗ではなく人間の男性だった(あくまで僕が見た印象で細部までは覚えていない)。ただどこで会ったのかまでは覚えていない。それが丘の上なのかトンネルの中なのかはわからない。トンネルに入ったのかどうかも覚えてもいない。もちろんそれらは僕の夢の中の出来事だったかもしれない(発見時は寝ていた)。だからもう一度行って確かめたかった。これが今回の冒険の大きな目的だ。
もうひとつは僕の思春期と青春についてだ。
言うまでもなく美織の存在だ。
中学二年の頃、モテない僕がたった一度だけ女子に告白されたことがあった。クラスでよく一緒に話すグループの女子だった。僕はその子と仲が良かったから彼女の僕に対する気持ちには素直に嬉しかった。告白されたあと「亮太は今好きな人はいるの?」と訊かれた。僕の心が大きく動いたのはその瞬間だった。僕は十一歳の夏から美織のことを忘れた日は一度もなかった。ずっとずっと美織のことが好きだったのだとわかった瞬間だった。
あれから僕も成長して高校生になった今思えば、きっと子供の頃に初めて出会ったその日から好きだったのだと思うようになっていた。もちろん小さい頃はそんな意識はなかったと思う。でも十七歳の今は美織が初恋の相手だったのだと思えるようになってきていた。
だから僕は美織に会いたい。会えるだけでもいい。とにかくずっと会いたい気持ちでいっぱいだった。あの事件で「ばいばい」も「またね」も何もなくぶった斬られて中途半端になってしまったこと。あの夏の続きを取り戻したかった。
それと今回の冒険の旅で僕にはもう一人会いたい人物がいる。
それはヒロトだ。
僕はリュックから数学のノートと筆記用具を取り出してペンを走らせることにした。
到着まで時間はまだまだたっぷりあるのだから。
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