第3話 十七歳の地図を広げて

 一学期の終業式の日は、札幌とは思えないほどの暑い日だった。

 明日から夏休みに入る女子中高生達が、街頭のソフトクリーム屋に列を作っていた。注文したソフトクリームを受け取ったその時から溶けて滴り落ちるような、そんな午後の強い日差しだった。路上には滴り落ちたバニラやチョコの斑点が彩られ、アスファルトからはその甘い香りが熱気とともに発せられていた。そんな照り返しの強い帰り道、僕はぬるい風を全身に受けながら自転車をゆっくりと進め、近所のスーパーマーケットに寄って晩ご飯の買い物をした。

 僕の高校二年の一学期も今日で終わった。そして明後日、僕は十七歳の誕生日を迎える。尾崎豊がその昔『十七歳の地図』という歌を唄っていた。強く生きることを決意する少年の歌。そんな歌詞だったと思う。今でもたまに聴くことはある。その十七歳に僕もなる。

 学校で知識を詰め込み、人並み以上の成績をとって大学受験に挑む。僕達十七歳のほとんどがこれに疑問を抱いていることだろう。そこから強く生きるための確固たる何かなんて何ひとつ得られないのではないかと。しかし将来への何かしらの目標や夢があるならばそれは素晴らしいことだ。ところが僕には明確な目標もなければ成績も最も下のグループに分類されている。市内でも屈指の進学校に進めたまではよかった。それは成り行きみたいなものだ。少なくとも何かを目指してそこへ進んだわけではない。今は目標を持たないただの生ける屍なのだ。

 去年の北海道南西沖地震で奥尻島は津波に飲まれた。札幌でも揺れを感じた。そして今年の始めに阪神淡路大震災が起こり、東京では地下鉄で無差別テロ事件が発生する。僕達にもいつどうなるかわからないという恐怖が伝染し、それは今の世の中に蔓延している。だからこそ強く生きるための確固たる何かが欲しい。きっとこういうものは五年、十年と経過すると人々の心から少しずつ忘れ去られていく。そして忘れた頃にまた大きな災害に見舞われて恐怖や絶望が浸透する。あるいは自分が被災するかもしれない。その時に立ち向かうだけの強さが僕にはあるだろうか。

 とにかく世の中が暗く混沌としている。今の日本の経済状況を『平成不況』と学者やメディアは伝える。のちに『バブル経済』と呼ばれた八〇年代後半の好景気は、九〇年代初頭には後退し、『バブル崩壊』という言葉が生まれた。不思議なことにこの現象は僕の心の動きと似ている。六年前に釧路で過ごした最後の夏は僕の心の風船を大きく膨らませた。ところが神隠しという『針』が突然現れ、大きく膨らんだ風船を一刺ししてパンっと割った。そこから僕は長い暗闇のトンネルに入ってしまう。

 『十七歳の地図』を唄った尾崎豊は三年前の春に亡くなった。亡くなったことで伝説化され当時のカリスマはカリスマの神にでもなったかのような扱いだった。そして今でも尾崎の楽曲は若者に支持され続けられている。十七歳になる僕は彼の歌のように強く生きることを決意できるだろうか。困難に立ち向かうことはできるだろうか。大人達はきっと嘲笑するだろう。僕だって目標を決めて強く生きていきたいと思う。そのためにはもう一度釧路へ行って神隠しで自分に何が起きたかを知る必要がある。そんなことを考えて自転車をゆっくり進めていた。


 家に到着すると汗でTシャツの首周りはびっしょり濡れていた。自転車を止めて背負っていたリュックをおろすと背中に爽快感が走る。レジ袋を左手に下げ、ポストから郵便物を右手で鷲掴みにして取り出した。電話の請求書、ピザのデリバリー広告、不動産屋のチラシ、そして、一通の封書が入っていた。差出人に山科幸三の名前が目に入った。それは釧路のおじいちゃんからのものだった。

 家に入ると中は外に比べるとずいぶん涼しく感じられた。僕は汗でびっしょりになったTシャツをすぐに脱いで洗濯機へ放り込み、顔を洗ってからタオルで上半身をよく拭いてきれいなTシャツに着替えた。台所で冷たい水を一杯飲みながら買ってきた食料品を冷蔵庫へ入れた。

 おじいちゃんは母方の祖父で、僕は幼い頃からとてもかわいがってもらっていた。母さんが居なくなってからも年に何度かは札幌に来て一緒にご飯を食べたりする。札幌には母さんの兄にあたる叔父さんもいるのでそこへ寄ることも多いようだ。

 おじいちゃんが札幌に来るのは農業の閑散期で、夏に来ることはほとんどなかった。夏休みと冬休みは僕が釧路へ遊びに行って面倒をみてもらっていた。休みのほとんどを釧路で過ごした年もあった。釧路は大好きだったしもちろんおじいちゃんも大好きだった。僕にとってはかけがえのない家族だ。

 ダイニングテーブルで丁寧に封筒を開封すると便箋が一枚と、釧路行きのJRの乗車券が一枚同封されていた。便箋には僕の誕生日を祝う言葉と、夏休みに入ったら釧路へ来るようにと書かれていた。釧路での待ち合わせ日時は明後日の夕方になっていた。

 僕は便箋と乗車券をダイニングテーブルにきれいに並べて置き、台所で湯を沸かして紅茶を入れた。こんな暑い日でも熱い紅茶は心を落ち着かせてくれる。いつもそんな気がしていた。僕は紅茶を飲みながら考えを巡らしていた。さてどうしたものか。釧路行きを自分から懇願しておきながら今更怖じ気づいたわけではない。

 この六年間、僕は釧路へ行っていない。おじいちゃんから来ることを禁じられていたからだ。もちろん父さんも同意の上だった。僕は学校が休みに入る度に、釧路へ行きたいと懇願してきた。しかし、それが叶ったことは一度もなかった。いいさ、大きくなったら一人で行ってやる。中学を卒業する頃にはそう思うようになっていた。大学生にでもなれば、一人で釧路まで行って何泊かするくらい容易いことだ。そう思っていたからだ。

 十一歳の夏が、僕が釧路で過ごした最後の夏だった。僕はそこである事件を起こしてしまい、それ以来釧路へ行けなくなったという訳だ。その出来事は突然起こり、そしてあっという間に終わり、何もかもが中途半端なまま釧路を去るというものだった。僕にとってその出来事はそれまで生きてきた中で特別な出来事だったし、それがどういう意味を持つ出来事だったのかを自分なりに解決したかった。しかし当時小学五年生だった僕にはあらゆる面で力が足りなかった。だから、遅かれ早かれ僕はそれを確かめるための冒険に出なくてはならなかった。それはきっと自分を取り戻す旅だからだ。あの十一歳の夏に釧路に置いてきてしまった多くの出来事。まるであの時から時間が止まっているかのような僕の心の時計。もう一度ネジを巻いて一秒一秒刻み込まなければならなかった。大人になってしまうその前に。

 それが今年叶うなら冒険に出ようではないか。おじいちゃんにも何か考えがあってのことに違いない。

 明後日から始まる僕の十七歳の地図。まっすぐに突き進むだけだ。


 夕食はスパゲティーを茹でてレトルトのボンゴレを具材にして食べた。今日の暑さで食欲はまるっきりなかったけど一口食べたら意外と進んだ。それと買ってきたリンゴをひとつ食べた。それで口の中がさっぱりした。

 ちょうど食べ終わった頃に電話が鳴った。三回鳴ったところで受話器を取ると、それは父さんからだった。

「飯は食ったのか?」と開口一番父さんは言った。

「今スパゲティーとリンゴを食べたところだよ」と僕は返した。

「それはいい。果物を摂るのはいいことだ。それと夏場は何でも品質には気を付けるんだぞ」

「わかってるよ」と僕はそっけなく答えた。

「ところで、おじいちゃんからの手紙は届いたか?昨日こっちにも電話があった」

 僕は届いたことと中身を確認したことを伝えた。

「どうだ、釧路へは行きたいのか?お前が行きたいのなら行って来い。もし今はまだ行きたくないのなら無理には行くな。言ってる事はわかるな?」

 父さんは僕が十一歳の時に起こった出来事について言っているのが分かった。

「行くよ。前にも言ったことがあると思うけど確かめたいことがある。それに、ずっと会いたかった人達がいる。だから……」僕がそう言うと、父さんは「それならそれでいい。そうしなさい」と言った。

「もう高校生だし一人で行けるな?身の危険を感じた時は一度引きなさい。わかってるな」

 僕は「うん」とだけ答えた。

「よろしい」と父さんは笑いながら言った。

 それから少し神戸の話をしてから電話を切った。

 今、父さんは神戸にいる。元々は札幌の大学病院に勤めていた医者だ。昨年起きた北海道南西沖地震で奥尻島が津波に飲まれた後、父さんは自衛隊の医療チームとは別に個人的に活動して奥尻島の復興にほんの少しだけ携わった経験があった。そして今年の始め阪神・淡路を襲った大地震で神戸の街が火の海になっているテレビ映像を観ていた時、父さんは「神戸へ行かなくてはならない」と言った。その映像の中に何かを見たのか、何かを感じたのか、父さんの決意は素早く、そして固いものであることが感じられた。

 母さんが居なくなったのは僕が小学校に入る前の出来事で、今どこで何をしているのか、生きているのかどうかさえ僕は知らない。そのことについて父さんは僕には言えない、あるいは言いたくない事情があるだろうということは、僕も子供心になんとなくは感じていた。例えば、他の男の人と蒸発してしまったとか、何かの事件に巻き込まれたとかそういう類のことだ。あるいは、もしかすると父さん自身にもよくわからないままある日突然居なくなってしまったということもあるかもしれない。とにかく、僕は父さんに深く追求はしてこなかったし、もちろん父さんを責めるようなこともなかった。ただはっきりしているのは、僕の今までの短い人生において、この出来事が最大のミステリーであり、考えようによってはここから僕の人生がスタートしたのではないかとも思っている。いわば大きな命題が与えられ、その課題をひとつひとつクリアしていく旅のようなものだ。これを人生というのかどうか僕にはまだ経験的に想像もつかないことだけど、十一歳の時に釧路で起こった出来事にも何かしらの意味があるはずで、とにかくこの二つは一本の線にまとまる答えがあるのではないかと思いたい自分がいるわけだ。

 父さんとの関係は不思議なくらいうまくいっていた。父と息子という関係を考えた時、中学生くらいから難しい距離感になることは友達を見ていても理解できていた。でも僕達にとって母さんが居なくなったという事実は、男二人で毎日生活していかなければならないということを意味していて、思春期だ、反抗期だという前に何でも二人で協力しあう必要があった。特にまだ手が掛かる小学校低学年の頃は父さんも大変だったと思う。時にはおじいちゃんや母の兄にあたる札幌の叔父さんの協力を得ていたし、夏休みや冬休みの長期間はずっと釧路で面倒をみてもらっていた。それであの出来事を経験することにもなったのだけど……。とにかく、僕は父さんを信頼しているし、父さんも僕のことをもう大人と認め信頼してくれている。それがここ数年の父さんとの関係だ。

 父さんとの電話が終わってから僕はおじいちゃんに電話して、予定通り釧路へ行くことを伝えた。おじいちゃんは到着する頃に迎えに行くから改札の前で待ち合わせにしようと言った。


 僕が夕食の後片づけを始めると、「ただいまあ」と声が聞こえ優子ねえちゃんが帰ってきた。

 僕は「おかえり」と言って流し台の水を止めた。

「あ、ごはん食べ終わったんだね」と優子ねえちゃんは言った。

「うん、今さっきね」

 いとこの優子ねえちゃんが我が家で一緒に暮らすことになったのは、札幌の大学に進学した去年の春からだった。

 釧路のおじいちゃんには三人の子供がいて、上から順に長男(札幌の叔父さん)、次男(釧路の優子ねえちゃんのお父さん)、長女(僕の母さん)という構成になっていた。優子ねえちゃんは札幌への大学進学を考えていて、もし合格したらうちに下宿させてもらえないかとあらかじめ父さんに相談をしていた。父さんは空いている部屋もあるし、女手があるとうちも助かると二つ返事で了承していた。そして優子ねえちゃんは志望校に無事合格し、それから僕達は三人で暮らすようになっていた。これは僕にとっても嬉しい出来事だった。

 最初の少しはぎくしゃくもあったけど、そんなのは一ヶ月もすれば慣れて、賑やかな生活になっていた。それから夏に奥尻島の津波があって、父さんは二人いれば家も安心だと言って、ボランティア的な活動をはじめた。そして、今年の神戸の地震でも同じような活動をしている。父さんは医者だし誰よりもそういう意識が強いのかもしれなかった。そういう事情から、父さんが帰ってきている期間を除けば、僕達はほとんど二人で生活をしていた。

「あれ?これおじいちゃんから?」と優子ねえちゃんは言ってダイニングテーブルに並べてある封書とJR乗車券を見ていた。

「明後日釧路へ行けることになった」

「うそー?本当に?やったあ、亮太よかったじゃん」と優子ねえちゃんも喜んでくれた。

「もう何年?何年ぶりの釧路?……あの頃は毎日楽しかったなあ」

「六年だよ」

「そっか六年か、美織も喜ぶだろうな」

「……喜んでくれるかな」と僕は自信なく言った。

「あはは、あんたは本当にわかってないね。喜ぶに決まってるでしょ。うふふ」と優子ねえちゃんは笑っていた。

「私もお盆には帰ると思うけど、まだ大学もバイトも忙しいからこっちは任せておいて。いっぱい楽しんでくるんだよ。くれぐれも気をつけて」

「ありがとう」と僕は言った。

 

 夕食の後片づけをした後、僕は朝刊を広げて社会面に目を凝らした。


『神奈川県川崎市で十九歳の女子大学生が行方不明になっていた事件で、神奈川県警川崎署は最後に目撃された場所か三キロ南の河川敷で女子大生とみられる遺体を発見……』


 ため息をひとつついて、僕はいつもようにその新聞記事をハサミで丁寧に切り取り、スクラップブックへ張り付けていった。そのひとつ前にスクラップした記事は、家族で登山中に(ハイキング程度のもの)、はぐれて行方不明になっていた男子中学生が、翌日無事に自力下山してきたというもの。飛来した昆虫を追いかけているうちに家族とはぐれてしまったということらしい。その前の記事は二週間前のもの。五歳の女の子が公園で遊んでいる最中に、母親が目を離した数分の間に姿が見えなくなったというもの。今のところこれには続報がなく、もう解決したのかそれすらわからない。一社の新聞だけの情報では僕の見落としも含めてこういうことは多々ある。

 僕は学校から帰宅した夕方から夜にかけて、毎日この作業を続けている。行方不明に関する記事があればそれを切り取りスクラップブックへ貼り付ける。それらの記事から自分の身に起こったことのヒントを探っているが未だに何もわかってはいなかった。六年間でスクラップブックは四冊になった。失踪や行方不明といっても、家出をはじめとし自らの意思で姿をくらます場合がほとんどだ。新聞記事として扱われるのは事件性があるとか、緊急を要する場合に限られる。単なる家出少女の記事はまず載らない。

 スクラップブックを本棚に戻し、僕は六年前の最初のスクラップブックを手にとって開いてみた。僕はスクラップブックをはじめるきっかけとなった最初の記事に目を落とした。


『北海道釧路市で六日夜、町内の夏祭りに参加していた札幌の小学五年、白石亮太君(十一歳)の行方がわからなくなっていた事件で、八日早朝、祖父の山科幸三さんがホタル丘と呼ばれる丘の祠前で丸くなって寝ているところを発見。命に別状はなく現在は市内の病院で詳しい検査中で命には別状がないとのこと。祠周辺は前日も捜索していたにもかかわらず発見できなかったことから、警察では亮太君の体力が戻り次第詳しい事情を聞く方針。亮太君は夏休みを利用し祖父の家に長期滞在中だったとのこと』


 これが十一歳の時に僕に起こった出来事だ。

 亮太君の六年後が今の僕である。

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