第2話 十一歳のファーストキス

 一九九五年、高校二年の夏に書き綴った十一歳の僕。その二


 やっとホタル丘の頂上に到着した僕達は、とにかくすぐ左側にあったお稲荷さんの石像の後ろに回り込んで身を屈めた。美織は僕の背中に回り込み、僕の腰からお腹にかけて両手を滑り込ませて背中に顔を埋めていた。ここに身を隠せばホタル丘の麓からは木の枝が邪魔をして確認できないのを僕達は登ってきた経験上わかっていた。僕は唾を一度飲み込み、慎重に顔の半分だけを石像から出して枝の隙間から下をそっと覗いてみた。急いで登ってきてかいた汗なのか冷や汗なのかわからないものが、額からこめかみにかけて流れてきた。眼下には今登ってきた石段、夏祭り会場、遠くには港と海が広がっていた。町にはところどころで光が灯され始めていた。しかし肝心の大人達の姿はどこにも確認できなかった。僕達の悪行を見つけて追いかけてきて、叫び声とも奇声とも言えぬものを張り上げていた大人達はどこにも見えなかった。結局あれは僕達の負い目が作り出した幻影だったのだろうか。僕は用心深く辺りを見回した。それでもやはり大人達の姿は確認できなかった。僕はほっと胸を撫で下ろした。大人達が周辺にいたのは紛れもない事実だったが、おそらく彼らはそのまま緩やかな坂道を進んだか、あるいは麓のどこかの家の住人だったのだろう。とにかく僕達は誰にも気づいていなかったのだ。僕にはそう解釈するしかなかった。

 ひんやりした空気が祠のある背中側から石段の方へ強く吹き抜けてきた。美織のポニーテールが揺れ薔薇の花のようなシャンプーの香りが風とともに運ばれてきた。それはいつもの美織の匂いだった。ただ今日は風がないしいくら丘の頂上とはいえ木々に囲まれた森の中で強い風を感じるなんておかしいなとだけ僕は思っていた。僕の汗はすっかり引いていた。

「亮くん、どうなってるの?見つかってないよね?」と美織がか細い声で訊いてきた。

「大丈夫みたいだ。下には誰もいないけどもう少しこのままの方がいいかも」と僕はゆっくりと言った。

「もう心臓が破裂しそうなくらいドキドキだったよ。なんかここにこうして隠れてると『かくれんぼ』みたいで緊張しちゃうね。それにやっぱりここって不気味っていうか雰囲気がちょっと違うよ」

 それは僕も頂上に着いたその時から感じていた。そして美織が教えてくれた禁足地という言葉を思いだしていた。入っちゃいけない場所に入ったという後ろめたい気持ちがさらにそう思わせていたのは事実だった。二人の恐怖心は時間と共に次第に膨れてきていた。

 「ねえ、もう大人の人がいないなら戻らない?なんだか怖いよ。ねえってば」と美織は落ち着かない様子で僕を急かした。でも僕には正直どうしたらいいかわからなかった。ここにいるのも怖いし、戻って大人達に見つかるのも嫌だったからだ。それで返答に窮していた。

「亮くん、聞いてるの?」

 僕は急かす美織を落ち着かせようと振り向いて顔を合わせた。

 美織は僕の体から両腕を離さずに不安そうな顔つきで僕の顔をじっと見つめていた。彼女の目はいつもと変わらず潤いがあって輝いていた。色白の肌に少しふっくらとした頬の丸顔に小さな鼻。両腕からは怖がっているのが伝わってきていた。僕は大丈夫だよとだけ美織に伝えようとしていた。

 でも突然その時、僕は誰かの視線を強く感じて顔を上げた。視線の先にあったのは祠のお地蔵さんだった。そしてお地蔵さんと目が合った瞬間またさっきと同じような電流が全身に流れた。今度のそれは僕の中の何かを完全にショートさせて吹っ飛ばすほど、頭の中でバチンと弾けるものだった。

「そっちの奥に誰かいるの?」と美織は震えながら訊いてきた。

 一層不安そうな顔をした美織に僕は視線を戻した。美織と視線が交わったその時ドキンと胸が高鳴り何かのスイッチが入った。すると、僕は頬を美織にくっつけるように近づけ、その柔らく瑞々しい唇に僕の唇を合わせていた。

 美織は目を見開き「うぐぐ」と言葉にならない言葉を発しながら、僕の背中に回していた両腕に思いっきり力を込めて僕のシャツを握りしめていた。しかしそれもすぐに力をなくしそっと僕の背中を支えて、僕の目を見ながらゆっくりと瞳を閉じて全てを委ねた。微かに甘い香りが美織の唇から僕の唇へと溢れてきていた。

 十一歳の僕達は現実とは思えないふわふわとした世界の出来事のように、とても長い間キスをしていた。おそらく十秒か十五秒の出来事だけど、僕にはもっともっと長い間そうしていたように感じられていた。いつの間にか僕達はどちらからともなく唇を離していた。美織は俯いて呼吸が乱れているのがわかった。

 どうしてそうしてしまったのか、僕自身もわけがわからずとても言葉で説明できるようなものではなかった。自分の体が誰かに支配されて勝手に動いたような不思議な感覚だった。僕がこうしてひどく混乱しているのだから、美織はもっと混乱しているはずだ。

 しばらくすると美織は俯いたまま立ち上がり、僕もそれに合わせて立ち上がった。背中に石像を感じながら美織と向き合い、美織のずっと奥には例のお地蔵さんが目に入っていた。

 僕は頭が混乱して美織にかける言葉すら思いつかなかった。案の定、気まずい沈黙が二人の間を流れていた。喉はカラカラになり、ただ心臓の音だけがドクンドクンと今にも張り裂けそうなほど大きく速く響いていた。

 口を開いたのは美織だった。

「ずるいよ……」と俯いたままかすれた小さな声で呟いていた。僕には何がずるいのか、はたまたそれは怒っている表現なのかとも考えていた。

 美織は顔を上げて僕をじっと見つめてきた。うるうるした瞳の奥に強い意志があるのを僕には見て取れた。

「ずるいよ、亮くんだけ」

 美織はそう言うと、精一杯かかとを上げて背伸びして僕の両肩に手をかけてきた。僕はその勢いでよろめきお稲荷さんの石像にもたれた。そして美織は僕に顔を近づけて甘く柔らかい唇を僕の唇に優しく触れさせた。今度はほんのりと触れるだけの短いキスだった。唇を離した美織は恥ずかしそうに石段の方へ走って、急ぎ足ながらも丁寧に石段を下りていった。

 僕は彼女の姿を見下ろしながらしばらく放心状態のままだった。

 今まで経験したことのない熱い鼓動が僕の全身を駆けめぐっていた。僕の中心にあるペニスは大きく脈打っているのがわかった。まるで様々な感情を凝縮したものが血液と一緒に全身の毛細血管の果てまでくまなく流れているようだった。興奮やら恥ずかしさやら喜びやら疑問やら不思議やら恐怖やら、とにかくありとあらゆる色んな想いだ。それは脳だけではなく全身のあらゆる箇所で記憶させるかのように絶え間なくドクドクと流れ続けていた。


 ヒュー……ドーン

 と、花火が上がったのは美織が石段の真ん中辺りに差し掛かったところだった。

 僕はそのままじっと動かずに花火が上がるのを眺めていた。二発目、三発目。……その頃には美織が丘の麓に到着して緩い坂道を下って行くのが見えていた。美織の無事を見届けて僕はそこではじめて落ち着きを取り戻せるようになっていたが、正直花火なんかはどうでもよかった。とにかく大きな喜びが全身を駆けめぐっているのを感じていた。時間が経つにつれ喜びは風船が膨らむようにどんどん大きくなった。美織にキスしたこと。美織もキスしてくれたこと。喜びの風船はこれ以上膨らまないというところで僕は「うわあああー!」と叫んでいた。「やったー」でも「よっしゃー」でもなく「うわあああー!」だった。

 すると、また背中から強い風を感じた。とても強い風だ。

 恐る恐る振り返ると、なんとそこには月光に照らされて輝くトンネルのようなものが出現していた。実際に月が出て輝いているのかどうかなんてわからなかったが、とにかくトンネルのようなものがこの薄暗い森の中心で光り輝いていたのだ。先程までは何もなかった空間に、今は確かに存在している。こんなものが存在するはずがないと僕は自分に言い聞かせていた。

 そのトンネル……というよりは人ひとりが通れるような洞窟の入り口のようなものは、何度見ても確かにそこに存在していた。形は小さな鳥居を奥まで長く延ばしたようなもので、この穴の先にあるのは間違いなくあのお地蔵さんの祠だった。

 ぽっかりと口を開けたそれは僕を丸飲みしようと挑戦的な光を放ち続けていた。

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