理の門の神隠し

シノン

第1話 美織

 一九九五年、高校二年の夏に書き綴った十一歳の僕。その一


「亮くん、ちょっといい?」

 美織はそう言うと僕の右腕を掴んで自分の方へ軽く二回引っ張った。

 子供と大人で賑わう町内の夏祭り会場で美織は一際小さく半ば人波に埋もれていた。町内の人達が作った焼きそばやお好み焼きの出店が並び、魚介を焼いている一画からは濛々と煙が立ちこめていた。大人達はビールを飲み、子供達は走り回って騒ぎ、そんなどこにでもある夏祭り会場になっていた。

 美織は僕の腕を引っ張ったまま足早に人混みをかき分け、会場の公園裏手にある路地まで僕を連れてきた。

「どうしたんだよ?」僕は美織の顔を覗いた。

「ちょっと人混みに酔ったみたい。それに熱気が……。蒸し暑いし、焼き物の臭いや煙で気持ちが悪いの」

「大丈夫か?吐きそうじゃない?おばさんには言ったの?」と僕は早口で質問を続けた。

「うん、さっき言ったよ。そしたら、しばらく涼しい所で休んでなさいって。お手伝いで手が離せないからって。吐きそうじゃないけど涼しいところで座りたい」

「そうかわかったよ。じゃあ一緒に座れそうなところを探そう」

 僕達は夏祭り会場の公園と夕陽を背にして路地を進むことにした。

 今日は町内の夏祭りの日で、会場には出店が並び、子供達は腕相撲大会、大人達はカラオケ大会で盛り上がり、夜は小さな花火大会が開かれるというものだった。といっても、僕はここ釧路の子供ではなく、毎年夏休みの間をおじいちゃんの家で過ごしている札幌に住む十一歳の小学五年生だ。美織はおじいちゃんの家の近所に住む同じ年の女の子で、僕のいとこの優子ねえちゃんが美織の家の隣に住んでいることから、いつも一緒にいる仲だった。美織と知り合ったのは小学校二年の夏休みで、それから釧路では幼馴染みの関係にあった。

 美織の体調を気遣いながら少し歩いて、人けの無い緩い坂道の方へ進んだ。その坂の途中にはホタル丘への登り口があり、その石段なら座れそうだからだ。祭りの喧噪はもうすっかり遠のきわずかにスピーカー音が聞こえる距離になっていた。

「なあ、ここなら座れるし日陰になってるからいいんじゃないか?」と僕は丘の上へ続く石段を指さして言った。

 すると美織は少し不安な顔をして「でもここって……」と言うとその後の言葉を飲み込んでいた。

 僕はとにかく美織を座らせて休ませたい一心から、彼女の手を取り石段前に張られている立入禁止を意味する縄をくぐって恐る恐る一段二段と登った。石段の横幅は一メートルあるかないかの大人がすれ違うのが精一杯といった狭いもので、頂上までの長さは最後まで確認できないが、おそらく三十段か四十段くらいで着くようなほんのちょっとした丘だった。

「ねえちょっと、どこまで行くの、だめだって」と美織は言って僕の手をぐいぐい引っ張って制止しようとした。僕は少しでも風を感じる高さを目指していたが、今日は無風で空気も湿り気を感じるものだったから、結局諦めて十段かそこらを登ったところの石段に腰を下ろし、美織にも座るように勧めた。美織は腰を下ろして僕の体に身をくっつけてきた。気分が悪いからなのか、怖がっているのか、でも美織はもっと小さい頃から優子ねえちゃんや僕にはいつもベタベタくっついてくる女の子で、それが自然体の子だった。札幌の同級生でそんな女子がクラスにいたらちょっとおかしいけど、美織とは学校も違うし兄妹や親戚の子に近い感覚でずっと接してきたからそこまでおかしく思うことはなかった。美織りは普段は元気いっぱいで活発な女の子だけど、小柄で体も強い方ではなかったから昔からこういうことはよくあった。よく風邪を引いたり気分が悪くなったりという些細なことではあるけども。

 僕達はしばらくただ座って祭り会場から昇る煙を眺めていた。石段十段登っただけの標高差だけど、遠くには海岸線が見えたし、夕陽の姿も大きくなっているのがわかった。釧路は札幌に比べると日が沈むのが早く、日が昇るのは早い町だ。それだけ東に来ているのだと思った。

「石段を登ったのは今日が初めて。なんかドキドキする。ねえここがどこだかわかってる?」と美織は体をくっつけたまま訊いてきた。さっきよりはずいぶん落ち着いているように思えた。

「知ってるよ。ホタル丘。入っちゃだめなんだろ?」

「そう。ホタル丘。禁足地のホタル丘」と美織は聞き慣れない言葉を発した。

「キンソクチ?」と僕は意味がわからず美織に質問した。

「禁じる足の地って書いてね禁足地。女、子供は入るなって言われている禁足地」

美織は宙に人差し指で漢字をなぞって教えてくれた。

「一人で絶対登るなっておじいちゃんにも優子ねえちゃんにも言われてたけど、禁足地っていうのか」

「やっぱり何かあるのかな?学校でも入っちゃだめって言われてるよ」美織は不安げに言った。

「どうなんだろ。昔からの言い伝えとか神聖な場所だからとかかな。大体ホタルはいるのかな」

「それならそこの横に沢があるでしょ。小川みたいなの。そこに今もいるとかいないとか。丘の奥は湿原に繋がってるみたいだし、そこから流れて来てるんじゃないかな。でも今はここにホタルはいないと思うんだよね。きっと昔はいたからホタル丘って名前なんだろうけど」

 釧路へ毎年来るようになって、優子ねえちゃんや美織や町の子供達と自然の中で遊ぶことが僕には貴重な体験でいつもドキドキの連続だった。札幌で生まれ育った僕のいちばんの関心事はそうした自然の中での冒険だった。クワガタやニホンザリガニを獲って遊んだり、森でキタキツネやヘビを見つけたり、札幌の中心部では味わえない興奮がここ釧路では体験できた。でもホタルは今までに見たことすらなかったから興味はどんどん膨らんでいた。

「ホタルか、見てみたいな」と僕はぼそっと呟いた。

「私も見てみたい。ホタルって夜に光るんだよね?今度見に行こうよ。湿原の方には今もいるよ絶対。ね、行こう行こう約束」

そう言って美織は小指を突き出してにこりと笑った。

「よし、今度行こう」

僕は美織の小指に自分の小指を交えて指きりげんまんをした。

「やったあ!亮くん約束だからね。あー、なんかすっかり気分良くなっちゃった。さっきは本当に辛かったんだから。でももう大丈夫みたい」

 美織は会場に戻るとまた気分が悪くなるかもしれないから、花火はここから見ていたいと言った。僕も花火はここからの方が見やすいだろうと思ってそうすることにして、花火が終わったら会場に戻ることにした。それまでしばらく僕達はテレビの話や学校の話をして時間を潰していた。


 それに気づいたのは僕達が大きな声を出して笑っている時だった。丘の下の坂道から大人達の話し声が聞こえてきたのだ。僕は大きな声を出していたからすぐに『ばれた』と思った。美織もすぐそう思ったに違いない。

「ねえ、やばいよね」と美織が小声で言った。

 僕の頭の中では『しまった』という言葉が繰り返しこだましていた。僕達には悪いことをしてしまったという自覚があった。入っては行けない場所に入ったのだから誰かに見つかったらきっと怒られる。どこかに隠れなきゃ。

 僕は反射的に美織の手を取って石段を駆け上っていた。美織も必死についてきた。僕達の選択肢はそれしかなかったからだ。今ここで見られたら逃げ場はない。上に行けば身を隠せられる。その思いだけで必死に動いた。しかし大人達の声は遠のくどころかどんどん大きくなり、すぐ後ろまで近づいているように感じられた。僕が次の段に足をかけたとき大きな叫び声が聞こえた。『止まれ!』でも『待て!』でもない言葉にならない奇声が銃弾のように僕の背中に突き刺さった。ここで振り返ったら完全に捕まる。僕は見えない敵に背後から忍び寄られどこまでも追いかけられる恐怖に駆り立てられていた。悪いことに石段は普通の階段よりも一段一段が高く敷かれ、子供の足の長さでは駆け上るというよりは一段一段をまたいで登って行くのが精一杯だった。美織は僕よりも背が十センチほど低く、僕も背は高い方ではなかった。小学五年生では女子の方が発達は早く、男子よりも体格がいい子も珍しくはなかった。もちろん僕よりも大きな女子もいる。それを考えると美織は文字通り小さな女の子だったから登るのに時間がかかった。それが僕達により一層の焦りを感じさせていた。恐る恐る登った最初の十段の時とは気持ちも体力の消耗もわけが違った。

 僕達は息を切らして足の筋肉をガクガク震わせながらようやくあと数段というところまできていた。石段の最上段のすぐ左右には石造りの狐像が見えていた。お稲荷さんだ。下から見ると大きな広葉樹の枝が垂れ下がった広がりで隠れていた物が今ははっきりと確認できる。二体のお稲荷さんは、招かざる客を拒むように僕達をじっと睨んでいるようにも見えた。

 最上段に足をかけた時、僕は全身にびりびりと電流が走り身震いをした。本能的にこの先は危険かもしれないという信号が筋肉を強ばらせていた。そして二人の視界に広がったのは大きな広葉樹の森だった。どれも樹齢の高そうな幹の太い木々だった。その森の真ん中だけがきれいに開けた地になっていて、いちばん奥には小さな祠のようなものが見えていた。中にはお地蔵さんが奉られているようにも見えた。あるのはそれだけだった。辺りはひんやりとした空気に包まれ大きく輝いていた夕陽はもう沈んでしまったのか木々に遮られて光が届かないのか森は薄暗くしんと静まり返っていた。まるでここだけが下界に取り残された異世界のようだった。



 授業のベルが鳴って、僕は走らせていたペンを置いた。

 夏休み前の期末テストも終わり、学校祭の準備期間前とあって授業中の多くの生徒は睡眠学習という名の居眠りに励んでいた。教師も一段落ついたのか授業内容も重要なものではなかった。学校祭が終われば終業式を経て夏休みに突入する。

 僕はこの期間の授業中を利用して、あの夏起きた出来事を思い出して少しずつ数学のノートにペンを走らせていた。数学のノートを選んだのはただ単にいちばん使われていなかったからだ。

 毎年夏になると思い出すのが、六年前の一九八九年に美織と登ったホタル丘での出来事だった。あの夏を最後に僕は釧路へは行っていない。今年もおじいちゃんに釧路へ行きたいと手紙を送ったが未だにその返信もない。

 今頃、美織はどうしているのだろうか。どんな高校生になっているのだろうか。

僕はまたペンを走らせることにした。

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