7. Significance Of Existence

 ここはアイドルが待つステージ裏。照明は暗めで床はコンクリートのねずみ色、壁は全面ほぼ黒に塗られている。ステージに上がる木の階段があり、上がった先には黒いカーテンがかかっている。その階段の横には観客席からステージを映すモニターと、衣装がたくさん掛かっているハンガーラックが2つあるが、それ以外にこの場にはほぼ何もない。ステージ裏とはいえ、高校の教室くらいの広さがある。


 首に下げるバックステージパスをしたスタッフ達が準備で慌ただしい中、端っこで5人並ぶ見学者の1人として女装した俺がいる。生まれて初めてのメイクを顔に施し、さっき松木戸先輩が着てた服に加えて茶髪のカツラとグレーの帽子を被った。ガウチョパンツ(名前は綾乃先輩に聞いた)という女子が着るゆったりめのパンツと少しヒールの高い靴を履いて来たが、ここまで歩きづらくて大変だった。


 松木戸先輩と綾乃先輩には『可愛い』『良いじゃねーか』『童顔だから女装向いてるのかしら』とか言われたが、男の俺には何も嬉しくない言葉だった。


「見学者はここにいてね。練ちゃん」


 俺が頷くと、本番の衣装を着た綾乃先輩はユニ×ユニの輪に加わっていった。……今さらだけど、本当に男だとバレないだろうか。ここまで来てしまったら終わるまで帰れない。普通じゃないこの状況を楽しむしかないか。


「君、可愛いね。見学かな?」


 バックステージパスを首からかけた小太りの中年男性が声をかけて来た。もしかして疑われているのか? とにかく、バレないようにしないと。


「はいぃ……」


 俺は自分が出せる中で、1番可愛いであろう声を本気で出した。


「ハハハ、緊張しなくていいよ。背が高くて男っぽさもあるけど、仕草は可愛いね。決まってる事務所なかったらここに電話して?」


 他の見学者にじろじろ見られながら名刺を渡されると、男性はどこかへ行ってしまった。名刺を見ると、芸能事務所のマネージャーからスカウトされたようだ。


 ……おいおい、マジか。薄暗くて目が慣れてないのか? いや、俺はこんな事をしに来たんじゃない。アイドルの様子を見て、SOBを探すのが目的だった。


 今この場にいるのは、綾乃先輩と同じ衣装を着た人が他に8人。この人達が恐らくユニ×ユニのメンバーだろう。紺のセーラー服をアレンジした様な衣装で、それぞれの衣装が微妙に違っている。他にも似たデザインで白系の衣装を着た10人くらいが研究生だろう。


 まず目に止まったのは、綾乃先輩と仲良く話している槙田冴織だ。ここに来る前、松木戸先輩に写真を見せられたからすぐに分かった。パーマのかかったショートカットの茶髪で、少しつり目の子だ。


「綾乃。ユニワンの曲は完璧?」

「当然よ。じゃなきゃここにいる資格ないわ」

「さすが綾乃さん!」

「頼むわよ!」


 ユニ1というのはユニ×ユニの派生ユニットの名前。ユニ1とユニツーがある。綾乃先輩は普段ユニ2だが、今日は両方に出演する。


「開場します!」


 若い男性スタッフがそう言うと、客が入ったステージの表側が騒がしくなってきた。なぜか俺も緊張してきた。綾乃先輩は毎週このステージに上がっているのか……。


「開始1分前ー!」


 若いスタッフが再び叫ぶと、ユニ×ユニの9人と研究生は自然に円陣を組んだ。いつものルーティンなのだろうか。俺は自分が小さい頃に、サッカーをやっていた事を思い出していると、槙田冴織が声を発した。


「今日は楓がいないけど、それでも観に来てくれるファンがいる! その期待に応えよう!」

『イエス!』


 1人が喋って全員で応えるシステムらしい。綾乃先輩も1人側で続いた。


「楓の分も頑張りましょう! ユニ×ユニ! ファイト!」

『おー!』


 円陣が解け、全員が互いに両手でハイタッチを交わした。俺はアイドルをよく知らなかったが、何人かで結束して誰かに見せるという事の素晴らしさは、Eruptionsを見て俺は知っている。


 乗りの良い音楽が流れ始めると、ユニ×ユニの9人が勢いよくステージに上がって行った。最初に研究生はステージに行かないらしく、小さい声で雑談している様子だった。

 ここまで見る限り、SOBのような事は見当たらない。当のユニ×ユニもステージに上がってしまったので、俺はさっきから我慢していたトイレに向かった。



―*―


 男子トイレに1歩踏み入れた所で俺は止まった。――危ない。誰かに見られたら男だとバレてしまう。周りを見渡して誰も見てない事を確認し、隣の女子トイレに入った。ダメな事は分かっているが、自分の身を守る為なので仕方ない。


 個室に入って鍵をかけ、事を済ました。言っておくと大ではない。小を終えてガウチョパンツを履きなおした俺は携帯の電源を入れて、個室の中で松木戸先輩に連絡してみる事にした。


『TRRRR……おう、どーした?』

「お疲れ様です。もしかして今、会場内ですか?」


 音楽が聞こえてきている。まだ1曲目だ。


『そーだ。そっちはどーだ?』

「俺が見てる感じでは、今のところSOBは無さそうです。松木戸先輩が言ってた槙田って人も周りを鼓舞してましたし、ステージ裏だけにおいては、誰かを蹴落とすような雰囲気ではなかったです」

『……なるほどな』

「ちょっと待って下さい!」


 俺は小声で叫んだ。誰かが女子トイレに入ってきた。


「……――なんかさ、綾乃さん大変そうだよね」

「そうそう、聞いた? 楓さんの話!」


 トイレの個室には入らず、メイク直しでもしているのだろうか。会話からして出番前の研究生だろう。俺は松木戸先輩に聞かせようと、スマホのマイクを洗面台に近い方に掲げた。


「聞いたよ。ナッツアレルギーなのに、差し入れに入ってたんだって?」

「そう! しかもその差し入れをしたのがね……ここだけの話よ?」

「うん」

「……冴織さんらしいのよ」

「え! 本当? だって冴織さんと楓さんって仲良いから、アレルギーだって知ってるはずでしょ?」

「そうなの。だから私は、わざと食べさせたんじゃないかと思うのよね」

「うーん。冴織さんはそんな人じゃないと思うけど、そうだとしたら残念かな」

「絶対そうだよ! あ~あ、人って分からないな~」


 2人の研究生はトイレから出て行った。


「だそうです。聞こえました?」

『聞こえたが、確信はできねーな』

「え? そうなんですか?」

『結局、喋ってた奴の主観じゃ何も見てねーって事だからな』

「……」


 確かに言われてみれば、噂に個人の固定観念を足している話にすぎなかった。


『つっても今の会話とオレが聞いた話を統合すれば、槙田冴織が差し入れに買ってきた物にナッツ系が混ざってたってのは事実っぽいがな』

「そうですね」

『あとは故意に入れたのか、事故だったのか、或いは第三者が食わせたかっつーとこだな』

「……」

『ちなみに東雲。男だってバレそうな感じはねーか?』

「今のところはまだ――」

『ワァー!』


 松木戸先輩側の音声から会場内の盛り上がりを感じた。


『3曲目でユニ1と研究生10人が出てきた。……アイツ、大丈夫か?』

「アイツって、誰ですか?」

『綾乃だ。激しい曲3連発で、動きが鈍い気がするな』


 違いが分かるって事は、先輩はいつもここに見に来てるのだろうか? そういえば、松木戸先輩と綾乃先輩の関係もまだ詳しく聞けてない。さっきは綾乃先輩に巧く躱された気もするし。


「松木戸先輩はよくここに来るんですか?」

『前に1回だけ来た。その時よりキレがない感じがすんな』


 来たのかよ。キレに関しては1週間ずっと練習しているのだから、疲れてて仕方ないだろう。


『……東雲。後は任していーか? ちょっと野暮用ができた』

「どうしました?」

『ちょっと確認事だ。何かあったらすぐにメールしろ。多分電話は取れなくなる』


 メール? どこかに行くって事か?


「分かりました。ではまた」

『気を付けろよ!』


 俺は周りに注意しながら女子トイレを後にした。



―*―


 ステージ裏に戻ると、綾乃先輩以外のユニ2メンバー4人と研究生が3人待機していた。待機中のメンバーが、次の出番に向けて着替えていたので俺は反射的にそっぽを向いた。


 この場には他にも男性スタッフがいて、平然と作業に没頭しているが大丈夫か?――と、さすがにアイドルが着替えているところで平常心ではいられない俺は、ステージ上の様子を見る事にした。階段横に置かれているモニターへ、人の邪魔にならないギリギリの距離まで近づいた。


 モニターに映るステージ上の綾乃先輩は、ハイテンションな曲に合わせて笑顔がはじけていた。どういうダンスが凄いのか俺は知らないが、綾乃先輩が1番ダンスのキレが良いと思った。ただ、さっき松木戸先輩が言っていた様に、少し顔色が悪い気もする。


「あなたは誰の紹介なの?」


 小柄で黒髪ツインテールの、妹キャラっぽいユニ2のメンバーが俺に話しかけてきた。


「綾乃さん、ですぅ」


 俺は再び全力で可愛い声を出した。女の子っぽい仕草のモデルは、この前BECに依頼しに来た初期の千歩ちゃんを真似した。


「へえ! 綾乃さんが連れてくるなんて珍しい! 初めてかもしれない! いつもメンバーには、『アイドルになりたいなら、自力で入るくらいでないとダメよ』って言ってるのに!」


 男とバレない様に俯く俺の顔を覗き込もうとしてきたので、そっぽを向いてごまかした。


「期待、されてるんですね?」

「いえぇ、そういう訳では……」

『バタン!』

「キャー!」


 ステージ上が騒がしい。モニターを見ると、アイドルの1人が倒れているようだ。ステージから声が聞こえてきた。


「綾乃さん! しっかり!」

「誰か! 救急車!」

「綾乃ー!」


 綾乃先輩が倒れている事を知った時、俺は無意識にステージ上につながる階段に向かって駆け出していた。しかし、階段手前のところで帽子を深く被った、やり手っぽい男性スタッフに立ちふさがれた。


「我々が対処しますので、見学者は下がってください」

「……分かりました」


 止めてくれた事で俺は少し冷静になれた。自分が行ったところで状況が改善される訳ではないし、変に目立つ事をすると女装がバレてしまうかもしれない。同じ高校の先輩の危機に、何もできずにこの身を守る自分には自己嫌悪になるけど。


『綾乃先輩がステージで倒れました。公演は中断中です。 東雲』


 俺はすぐに松木戸先輩へメールで報告をした。その間にステージから、アイドルと研究生が戻ってきた。綾乃先輩は槙田冴織に肩を貸してもらって歩いていた。顔色は良くないが、意識はあるようだ。


「救急車は……いらない。少し……休ませて……」

「まだステージに上がるつもりですか? 無茶ですよ!」


 研究生が心配そうに声をかけている。槙田冴織は綾乃先輩をパイプイスに座らせた。


「心配してくれてありがとう。……でもね、アイドルを舐めないでくれるかしら? ファンの声が聞こえないの?」


 会場では綾乃コールが巻き起こっていた。


「アイドルの1番大事な存在意義はね、ファンを笑顔にする事なのよ? 悲しませたり、心配させる事じゃないの」

「――その通りです!」


 声がした方向、ステージ裏スペースのスタッフ出入り口に1人の女子が立っていた。ユニ1の衣装を着て、ピンク色のマスクをしていた。目は二重でパッチリ大きくて、黒髪ショートカットにキラキラ光る紅葉もみじのヘアピンをしている。


「か、楓さん!」


 立っているのはユニ×ユニのセンター、西松楓ともう1人。上下黒づくめに金髪頭でBECの委員長――って、松木戸先輩だ。なんでそこにいるんだよ!


「楓さん、大丈夫ですか?」

「大丈夫。まだ口元は腫れてるけど、歌える。ステージを終わりにしたらいけない」


 西松楓はアイドルの輪に向かって歩きながら答えた。


「ごめんなさい。綾乃さん。私のせいで」

「ううん、平気。それより楓、医者に止められてるんでしょ?」

「大丈夫です。朝まで吐き気がありましたが、今は良くなってきました。来る事を伝えてなくてごめんなさい」

「謝るのは……私の方よ!」


 槙田冴織が突然叫ぶように言った。気付くと彼女は鼻を赤くして、目から涙が溢れていた。


「楓が体調悪くなったのも、さっき綾乃さんがさっき倒れたのも、全部私のせい! アレルギーがあるの分かっていたのに、何も考えずに差し入れして……。謝って済む事じゃないし、どうすれば償えるかって、……ずっと……思ってて」


 俯いて涙をボロボロと落としながら、槙田冴織はその場に両手を突いてぺたりと座り込んだ。このリアクションからして、今回の原因は事故だろう。SOBは存在していない。


「楓の分も観に来てくれた人を楽しませるんだって、頑張ってみたけど……綾乃さんにまで迷惑かけて……もう、こんなに足引っ張るくらいなら、私なんていないほうが――」

『パァン!』


 西松楓が素早くしゃがんで、槙田冴織の左頬を勢いよく叩いた。あまりの勢いに、ビー玉のような大粒の涙が横に飛んでいった。


「しっかりしてよ! そんなの冴織らしくない! 私や綾乃さんがストイックなのは、元々冴織の受け売りなのよ! 差し入れだって、わざとじゃないんでしょ? 私はこんなになったけど、別に冴織を恨んでなんかいない!……でも、もしこの程度でステージに上がらなくなったりしたら、許さないから!」


 綾乃先輩のストイックさも槙田冴織の影響だったのか。


「……ゴメン。……私、何してるんだろう?……本当、……らしくないね」


 西松楓は号泣して鼻水をすする槙田冴織に、右手でハンカチを差し出した。


「行こう冴織。ファンが待ってる。これ以上不安にさせたらいけない」

「……うん。ありがとう」


 槙田冴織はハンカチを受け取った。ハンカチを渡した西松楓の右手は、勢いよく頬を叩いたおかげで少し赤くなっていた。それを見たせいか、槙田冴織の目からまた涙が溢れた。


「楓……本当にごめん。……私! もっとファンを笑顔にする! それで楓や綾乃さん、みんなも笑顔にする!」

「それで良い。私達の知ってる槙田冴織はそうでなくちゃ! あと、言い辛いんだけど……涙黒いから拭こう?」


 槙田冴織は涙を拭ったハンカチを見た。


「本当だ。あはは、メイク直さなきゃ。ハンカチ洗って返すね」

『くすっ、あははは!』


 マスカラが涙で落ちて黒くなっていた。集まっていたメンバー全員とスタッフが声を出して笑った。今までの緊張の糸が切れて、解れていくのが見て取れた。……俺の考えてたアイドルは仲が悪くてピリピリしてると思っていたけど、ユニ×ユニは仲が良くてピリピリしている。仲間でありライバルみたいに。


 一同が一通り笑い終えた所で、さっき俺をステージ前で制止した男性スタッフが呼びかけた。


「えー皆様! メイク直しをしましたらユニ1の曲から再開します! よろしくお願いします!」

『はい!』


 関係者全員が返事をして各自準備に入る中、イスに座って休む綾乃先輩に俺は声をかけた。


「大丈夫ですか?」

「平気。少し休んだら出れる」

「アイドルって凄いですね。想像以上でした」

「そうでしょ? だから言ったじゃない」


 綾乃先輩は自慢げにそう言って、ペットボトルの水を一口飲んだ。倒れた直後より顔色が良くなっている。そこに、何故かこの場にいる松木戸先輩が加わってきた。


「よー。どーだ調子は?」

「余計な事してくれたわね」

「なんでだよ! 最善策じゃねーか!」

「関係者じゃないとここまで入れないはず。どうやって入ったの?」

「今は細けー事は良いんじゃねーか? 人間本気になりゃ、アイドルくらい連れて来れんだよ」

「楓、マスクしてるけど本当に平気なの? もし何かあったら、奨の責任よ」

「当然だ。そのつもりだし、医者に同行してもらってる。抜かりねーよ」


 会場内からはライブ再開を知ったのか、大きな歓声が聞こえてきた。



 ユニ×ユニというグループは、みんな流されてアイドルをやっているのではない。ファンを楽しませるという共通目的を持って、メンバーそれぞれが戦って、高めあっていた。その姿を見れただけでも、俺にとって価値のある経験だった。




―*―*―*―*―*―……


 次の日の月曜放課後、俺がLL教室に入ろうと教室の扉に手をかけた時だった。


「だから言ったでしょ? 助けなんか必要ないって」

「いるだろテメー! 倒れるくらい無理してたじゃねーか!」


 正直俺は、この言い合いは予想していた。昨日の公演で無事に再登場した綾乃先輩は、終了後にそのまま病院に向かった。俺と松木戸先輩もそのまま解散した。元気に口論してるという事は、綾乃先輩は無事に登校できたようだ。喧嘩して混沌とした状況を止めてしまうのは実に惜しいけど、立ったままも嫌なので扉を開けた。


「お2人とも、お疲れ様でした」

「おう! お疲れ!」

「練君お疲れ様! 聞いてよ、このバカがね――」


 思えば俺は、綾乃先輩の制服姿を見たのは初めてだ。容姿端麗なスタイルと艶のある長い黒髪、ブレザー&スカートに赤と青のストライプリボンを付けて黒タイツを履いている。


 ……今まで見た諏訪高の女子生徒の中で、1番制服が似合っていると言っても過言ではない。その群を抜く見た目と、大人っぽい性格のギャップがある。他の生徒とほぼ同じ服を着ているのに、どうしてこんなに違いがあるんだろう。


「ちょっと練君? 聞いてるの?」


 うっかり見惚れてしまった。


「聞いてますよ。松木戸先輩が謝らないんですよね」

「そう。後輩に女装させて、公演前の私にメイクとか余計な仕事増やして、何で偉そうなのよ」

「だから何に謝るんだよ! オレにはSOBがある可能性がある限り確認する義務があったし、別にテメーらに強要した訳じゃねーだろ? SOBが無くて丸く収まったんだから良かったじゃねーか!」


 俺は敢えてこの言い争いを止めない。何故なら、人の喧嘩を見るのが好きだから。


「へぇ、良かったと思うの? 確かに私は『勝手にすればいい』とは言ったけど、『私達に負担をかけていい』なんて言ってないわ。周りにだけ負担をかけた事について、謝るべきではないのかしら」

「『謝るべき』ってなんだ? 強制してねーんだから各々の責任じゃねーか。それにオレは西松楓を連れて来たキーマンだろーが!」

「それよ。なんで楓を連れてこれたの? 何であんたが付き添って劇場裏に入れたの? そもそも自分の力で入れるんなら、練君が女装する必要なんてなかったはずよ?」

「理由なんてどーでもいーだろ?」

「良くないわ」

「別に――」

「良くないって言ってるでしょ? 日本語通じてるの?」


 2人とも普段は大人っぽいのに、喧嘩する時は子供っぽいよな。これが本来の姿なんだろう。


「そんなに気にすんなら、根本的な考え方を変えねーと分かんねーかもな」

「考え方を変える? 相変わらずウザい言い回しね」

「何で入れたかっつー考え方だと色んな答えが思い付くが、現実的にあの場に入る方法は限られてるだろ? 東雲が女装する前の段階でなかった潜入方法が、後からできたって考えてみたらどーだ? 答えが絞られてくるだろ?」

「……面倒だからもういいわ。どうでもいいけど謝りなさい」

「結局そーなんのかよ! 謝んねーよ!」


 この後も松木戸先輩と綾乃先輩の口論は続いた。俺はいつもの席に座って、この喧嘩の行く末を内心楽しく見守った。



 自称口喧嘩監察官の東雲練が自論を述べるなら、自分と他人が完全に理解し合うなんてほぼ不可能だ。裏付ける例を挙げるなら……少し偏見かもしれないけど、同性で一卵性の双子が思い当たる。同じ日に同じ性別で生まれ、同じ時代に同じ親に育てられ、同じ環境や学校に通っている間は、同じ考えを持ちやすい。だがそんな双子でさえ意見の食い違いを生んで、喧嘩も起きる。比べられる事も多いだろう。常に同じ行動ができる訳ないから違いが生まれるのは当たり前なんだ。


 喧嘩は決して悪い事ではない。もし気に入らない事があるのなら、この先輩2人のように不満を溜める前に早めにはっきり言い合った方が健全だ。我慢して不満を溜め込むような人は徐々に自分を蝕み、爆発すればより過剰に相手を傷つけてしまう。溜め込んで修復不可能になった他人の喧嘩を、俺は中学の時に見た事がある。意見のぶつけ合い方によっては早めに言い合っても状況が悪化するリスクがあるが、どちらかが相手の事を考えずに間違ったアプローチをしてしまう程度の関係なら、いっそ早めに壊してしまった方が今後の互いの為だろう。


 『喧嘩するほど仲が良い』。俺は人間関係の本質を突いた、素晴らしい言葉だと思う。1度や2度喧嘩した程度で別れる関係は仲が悪い。何度喧嘩しても互いが関係を切ろうとしない関係こそ、本質的な意味で仲が良いんだ。『喧嘩するほど仲が良い』という言葉の中で最も重要視すべきなのは、真ん中の『ほど』という副助詞。喧嘩が1度や2度ではない事を表すその言葉こそ、人間関係の本質を象徴していると俺は思う。

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