第七話 解

元来、フユツキ・ナガセという少年はただの十五歳の少年である。

 あえて言うなら今まで生きてきた生活環境は特筆すべき点にはなるが、その程度だ。何も特別な訓練を受けていたわけでもないし、生まれつきの大人物というわけでもない。


 何度死んでも生き返るというこの地獄に、正常な状態で耐えうる精神力など持っているわけがないのだ。


 そんな少年が何故五日間もこの状況に耐え、なおかつその上でこの地獄から脱出する試みを続けられたか?

 それはひとえに、『曲がり鼻』を殺せば助かる、という希望に縋っていたからに他ならない。「ここで死んでも次こそは」という思いがナガセを支えたのである。

 全ては『曲がり鼻』にぶつける一石に集約されていたのだ。


 故に、ナガセはごく当然の可能性に気づけなかった。


「は‥‥‥?」


 目の前に広がる喧騒を、脳は理解しきれない。


 『曲がり鼻』は倒れた。いくら生命力の強い野生動物と言えど、頭に野球ボール大の石を、しかも至近距離からまともに受ければ大きなダメージにならないわけがない。

 だが、ボスである『曲がり鼻』が倒れた瞬間、猿の群れに走ったのは動揺ではなかった。

 

 それは人間という理性を持った生き物が失った、純粋な「本能」というものに由来する感情だろう。なので人間の言葉ではその激しさを正しく表現することはできない。

 それでもあえて、無理矢理表現するならばそれは--


--『欲望』である。


 『曲がり鼻』の体躯が地面に倒れた音と同時に、今まで群れの一員だった猿達は一斉に『曲がり鼻・・・・』に襲いかかったのだ。


 さっきまで群れの長であったはずの猿は、もはや一匹という単位で数えることはできない。

 その体は無数に喰い千切られ、肉片は飛び散り、夕闇の中でもわかるほど白い骨が露出していた。


「仲間‥‥割れ?」


 ナガセはようやく現状を認識した。

 同時にその状況がナガセにとって有利に働く状況、つまり隙だということも理解する。


 ナガセは周りを一瞬見回し、猿が最も少ない方へ駆け出した。

 五歩、六歩、七歩、と足を交互に、全力で動かす。後ろを振り向くことなく、ひたすらに猿達から逃れようと、草をかき分けながら両手を振った。何百匹もいた猿達は『曲がり鼻』の方へ向かっているらしく、今までとは打って変わってナガセを追いかける個体はいなかった。


 無我夢中に走るにつれて、焦りと裏腹にナガセはひしひしと達成感を感じ始める。


 やった!やってやった!


 腕を小さくたたんで一瞬ガッツポーズを取った。

 声に出しこそしないものの、今にも叫びたい思いで一杯だ。ようやく掴み取ったこの蜘蛛の糸は、ナガセにとって宝石のような輝きを放って見えた。



「キィィィイイイイイーーーーー!!!」



 後方でつん裂くような一声が上がった。


「「「「「ギャア!ギャア!ギャア!」」」」」


 続いて呼応するように地面が割れるような歓声が上がる。猿の言語はわからないが、それは間違いなく歓声だった。

 だがその歓声にナガセが振り返ることはなく、かえって走るスピードを上げる。猿達に何かが起こった、ということは直感的にわかったが、今はただ走ることに集中するべきなのは明白だ。

 一心不乱にナガセは走る。体が熱く、心臓の鼓動が耳元まで届く。体は疲労感を無視し、どれだけ苦しくとも足が止まることはなかった。


 走れ、走れ、走れ、走れ。


 木の幹にぶつからないように注意しながら、根を飛び越え、草をかき分け、森の中を駆けていく。夕闇のせいで足元が暗く、その上前方にも注意しなければならない。ほんの少しの集中の乱れさえ許されなかった。



「ギャッ!」



 突然、極限まで高められた集中の外側から、聞き慣れた声が飛び込んできた。


「‥‥‥‥?」


 その雑音の意味を、一瞬、ナガセは理解できない。

 

「「「「「ギャア!ギャア!ギャア!」」」」」


 しかし続いて強制的に耳に入ってきたより大きな雑音は、否が応でもナガセの集中を叩き壊した。

 同時に、走るという一点に集約された意識が解かれ、周りの景色が目に映る。



--囲まれている。



 いつからそうなっていたのかはわからない。

 けれど、ナガセが夢中になって走っている間に、猿達は悠々とナガセを囲っていた。何よりも現状がそれを示している。

 猿達はいつものように・・・・・・・円形にナガセを包囲して、ゆっくりとこちらの様子を伺っていた。


「嘘だろ‥‥何で!?」


 足が、止まった。


 

 野生動物の群れ、特に肉食獣の場合は群れを統率しているのは「強さ」に他ならない。

 他のどの個体よりも強い個体が、自身の「強さ」を持ってリーダーとして群れを従える。それが群れという集団の仕組みだ。

 さらに、リーダーを巡る群れの間の争いは熾烈。

 ある程度強い個体はリーダーの寝首をかく隙を伺っており、同時にまた自分も狙われているという状況は日常茶飯事なのだ。

 故に、たとえ一匹のリーダーが死亡しても


--すぐに次のリーダーが立つ。



「ギャッ!ギャギャッ」 



 聞き慣れた、しかし今まで聞いていた声よりは少し高い声が聞こえた。

 間違えるはずもない、今まで三百回は聞いた合図だ。この合図が聞こえれば、周りを囲んでいる獣たちは意気揚々とナガセに襲いかかる。


 

 猿達の宴が、再開された。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ナガセは『復活』した。


 いつものように・・・・・・・猿達を刺激しないよう、時間稼ぎをしつつ右手で石を探る。『曲がり鼻』を殺す為の石だ。幸いなことに、やや小さめだがちょうど投げやすそうな石が半分地面に埋まっていた。

 しかし、掘り起こそうと爪を地面に立てた時、ナガセの手は止まる。


「そっか‥‥‥『曲がり鼻あいつ』は、殺したんだっけ」


 三百回繰り返された動作を、ナガセは打ち止めた。


「‥‥‥‥」


 ようやく『曲がり鼻』を殺すことができた。三百回も死んで、何万回も肉を啄ばまれて、ようやくだ。

 だがその行いには何の意味もなかった。

 いくらでも群れのリーダーが立つ以上、群れ全体が死なない限りナガセがこの地獄を抜け出すことはできない。何を殺そうとも結局は意味がない。

 その意味のない行為の為、ナガセは三百回、死んだ。


 全てを賭けた希望は、簡単にも崩れさったのだ。



「‥‥‥‥」



 涙は、出ない。



「‥‥‥‥」



 声も、出せない。



「‥‥‥‥」



 完全な無気力と、脱力感が体を支配する。

 特に悲しいとか、苦しいとかという感情は湧いてこない。ただ、もう何もしたくなかった。


 ふと、この感覚に懐かしさを覚えている自分を、ナガセは見つけた。その源流を辿るべく、記憶を探っていく。

 するとぴったりと当てはまる記憶がヒットした。


 ここに来る前の日々だ。


 暴力をふるい続ける父、それでも逃げられない自分。

 挙句の果てにはクスリまで飲まされて、どうにもできない日常は、どうでもいい日常へ変わった。


--ああ、そうか。


 この感覚の正体をようやく理解した。

 それは、十五年間もの歳月をその感覚と共に生きてきたナガセにとって、あまりにも当たり前で、気付くことのできなかった感情だった。


 そっか、俺は









--絶望してたんだ。









 パリンッ









 乾いた音、例えるならガラスが割れたような、そんな音が聞こえた。

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