第三話 終わらない食事

目の前の猿を見ながら、ナガセは頭の中で、本日何回目かわからない状況整理を行っていた。


 一瞬の混乱こそあったものの、記憶自体は写真のように鮮明だ。

 突然背中を襲った痛み、地面に縫い付けられて動かなかった体、首筋から流れ出した熱を帯びた血潮。そして、ホワイトアウトしていった視界。


 ナガセは自分の背中と首筋を手で触り、傷の有無を確認する。

 

--痛くない。


 掌を見ても、そこには赤い血はついていなかった。しかし、背中のTシャツは確かに破けている。

 服が破けているのに傷自体はない、ということはつまり



「傷が‥‥‥‥治ってる?」



 その結論の裏付けとして、今までで嗅いだことのないようなキツい鉄の匂いがナガセの鼻に届いていた。匂いの源を鼻で辿ってみると、それはさっきまでナガセが倒れていた場所に辿り着く。

 月明かりでうっすらと見える程度だが、そこにはどうやらかなり大量の血が流れているようだった。

 

 意識を猿に戻す。


 数は見える限りでは五匹。ナガセを取り囲むように立っている。口元がはっきり見えるわけではないが、クチャクチャと何かを咀嚼しているようだった。


「気持ち悪‥‥‥‥」


 吐き捨てるようにナガセは言った。嘔吐こそしないが滑るような悪寒が背中を伝った。人間にとって一番のゲテモノの食材とは、ハチノコでもヘビでもなく自分の肉なんじゃないだろうか、と思う。


 猿はじりじりと四方から距離を詰めてくる。これ以上何かを考えている暇はない。

 

 ナガセは一匹の猿にアタリをつけ、真正面から襲い掛かるように走り出した。


 猿の大きさは精々人間で言う五歳児程度。多対一なら負けるものの、一対一なら小柄なナガセでも何とかでも勝てるはず。

 

「ギャ!グァグァ!」


 作戦通り、ナガセが突進してくるのを見て猿は横に飛んでそれを回避した。


 よし、と心の中でガッツポーズを取り、一目散にナガセは猿達を置き去りにして逃げた。

 多少月が照らしてくれているとはいえ、夜なので視界は抜群に悪い。木の根につまづかないように、そもそも木に激突しないようにナガセは森の中を駆け抜けていった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 走り始めて何分経ったかわからないが、とにかくナガセは全力で走っていた。

 こういう時本当は中距離走のような感覚で一定のペースで走るのが正解だろう。しかし後ろから迫る死の気配に、そんな冷静な状態でいられるはずもなかった。


「いつまで追いかけてくんだよっ!!!」


 ナガセは息切れしながら叫ぶ。


 ずっと全力で走っていたから体力は限界に近づいており、速度が落ちてきたのか後ろに迫る声がまるで背中の真後ろにいるかのように感じられる。


 突然、左足が何かにつまづいた。


 前方と足元はしっかりと注意を配っていた為、完全に意識の外からその「何か」は左足に直撃した。次に前に出すはずだった右足は宙を掻き、手をつく暇もなくナガセは顔から地面に転んだ。

 

 土の苦い味と血の匂いが口の中に広がる。鼻を打ったらしく、口に入った土と共に鼻血が気色の悪いハーモニーを奏でる。


 しかし、転んだ事がもたらす一番の痛手は痛みではなく、そのタイムロス。口の中の土と血を吐き出し、ナガセは再び走りだそうと立ち上がる。


「‥‥‥‥へ?」


 足が持ち上がらない。

 そう認識して初めて、ナガセは自分の足に「何か」がまとわりついている事に気付いた。



 猿だ。



「ウキャッ!」


「うわあああああああああああああ!!!!!!!」


 ナガセは猿を振り落とそうと必死で足を振った。だが爪が食い込んでいるのか、全く猿が離れることはない。

 このままでは離れない、と判断し、近くの木に左足を引きずっていく。


「----ぁああっ、オラッ!!!」


「グギャッ!」

 

 そのまま、左足を木の幹に叩きつけた。猿は悲鳴をあげたが、それでも足を離そうとしない。


「いい加減にっ!しろっ!!!」


 二回、三回、と叩きつけると、だんだん左足を締め付ける感触は弱まっていく。四回目に足を振りかぶった頃にはもう、猿は左足から離れていた。


 けれど次の瞬間、ナガセの抵抗は何の意味も成さなかったことが発覚する。



「「「「「「「「「「「ウキャッ」」」」」」」」」」」」」



「嘘だろ‥‥‥‥」


 ほんの数十秒のタイムロス。

 猿達にしては十分すぎる時間だった。


 暗闇の中に蠢く目の数はもはや数えきることができない。


 一時の沈黙すらなく、猿達は一斉にナガセに襲いかかってきた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 耳障りな獣の声が聞こえた瞬間、ナガセの意識は覚醒する。

 目を開けて映った空には綺麗な星が並んでいて、さっきより少し明るくなったように見えた。


 そんな日和った事に認識を割いたのも一瞬、ナガセは直前の記憶を思い出して戦慄する。


「どうなってる!?」


 すぐに身を起こして、周りを確認した。



「「「「「「「「「「「ウキャッ」」」」」」」」」」」」」



 期待を裏切らず、猿の群れは綺麗に周りを取り囲んでいる。

 


「‥‥‥‥増えてるよな?」



 その上闇に蠢く光る目の数は、ナガセが最後に見た数を遙かに超えていた。

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