第15話 「泣くなよ」

 店のトイレを借りて何度か吐いたようだが、出てきた新木はまだ体調が悪そうだった。自分の足では帰れそうにもなかったし、かといってタクシーを呼ぼうにも、ここから彼の家まででは相当な料金になってしまう。

 そうなると、向かうべき場所はひとつである。

 ホテル『パラディーゾ』。

 とはいえ勿論新木の寝込みを襲うわけではなく、休ませるのが目的だ。

 彼のぐったりとした様子を見ると、仮眠用のソファへ横にさせるのは忍びなく客室のベッドを拝借することにした。

 一番近い客室は二○二号室だが、再びあそこへ入る勇気は巽には無く、その隣の二○三号室まで新木を引きずって行く。見た目に反して内側はしっかり筋肉がついているのか、新木は案外重かった。

「よいしょ、っと」

 隣の部屋とは打って変わって、こちらはベッドとテレビ、小さいテーブルセットのみといったシンプルなつくりだ。

 ベッドの上へ彼の身体を寝かせる。

 額に手を当てれば、巽の冷たい手が心地よいのか眉根に寄せていた皺が緩んだ。あまりに無防備なその様子は、巽の庇護欲を掻きたたせる。

 もし弟がいたら、こんな気持ちになるんだろうなぁとつい顔がほころんだ。

「……」

 もしかしたら、高次に対してもそういう気持ちなのかもしれない。

 恋とは違う、単純に親愛のようなもので、深い意味などないのかもしれないなと、巽は思う。

 キスをしたのも、ベッドを共にしたのも、兄弟がじゃれあうようなものではなかろうか。

 巽には弟はいなかったから、あぁいう気持ちが初めてのことでよく解らなかったけれど、そうだと思えば納得できなくはない。

「ん……」

 新木がベッドの上で呻いたのに、顔を覗き込む。穏やかとは言いがたいが、大の大人でも寝顔は可愛いものだ。

 ふと、第一ボタンまでしっかりと留めた襟元に気付いた。このままでは寝苦しいだろう。くつろがせようと、シャツのボタンへ手を伸ばす。

 それが罠とは知らずに。


 指先が第一ボタンに触れたとき、急にその腕をつかまれた。

「うわっ」

 そのまま腕を引かれてバランスを崩す。ベッドに頬が押し付けられ、うちのベッドってこんな硬かったのか、これは早急に別のものへ取り換えるべきでは、なんて場違いなことが頭をよぎった。

 何が起こったのか、確認すべく身を起こそうと背を浮かせると、彼の両手に阻まれ、再びベッドへ押し戻される。

「新木……くん?」

 先ほどまでとは位置が逆転し、今度は巽が新木を見上げる形になる。自ら第一ボタンを外すその目には、酔いなど欠片も無く、酷く興奮した色が浮かんでいた。

「まだ、酔ってるの」

 そんなわけがない、と判っているが、そう思わずには居られない。

「酔ってませんよ。あんなのに騙されるなんて、やっぱり巽さんは可愛い」

 耳元に近づく唇から、熱い吐息とともに言葉が吹きかけられ、巽は首を左右に振った。これから行われるだろうコトを頭が勝手に想像してゆく。

 冗談じゃない。

 なおも抵抗を試みる巽を、新木が正面から鋭い眼光で射すくめる。そうすれば巽が動けなくなると知っていて、わざとやっているようだ。

 目論見どおり身を強張らせる巽に、収集した美しい人形を愛でるかのように、新木はうっとりと笑みを浮かべた。そうしてゆっくりと唇を動かし、巽に言い含めるよう、新木は言った。

「乾さんと寝たのが遊びなら、僕とだってそういうことしてくれますよね」

「え」

 どうしてそれを、と尋ねるよりも早く、噛み付くように唇が塞がれる。

 咄嗟に引き剥がそうと新木の肩を掴むが、先ほどまでの弱弱しい姿はどこへやら、巽の力ではびくともしなかった。

「っ……ふ、」

 呼吸をしようにも端から空気は奪われて、代わりに悦楽を捻じ込まれる。咥内を犯す軟体に、感じたくなくてもぞくりとしたものが腰にくる。いっそのこと噛み切ってやろうかと歯を立てようとするも、唇が微かに動いただけだった。

 肩を掴む手が力なく解け、ベッドの上に落ちる頃、新木はようやく巽に呼吸を許す。靄の掛かる視界の隅で、彼が満足そうに口端を舐めるのが見える。その行為が妙に艶かしく映り、巽の心臓を一層跳ねさせた。

 こんなのは嫌だ。

 視線のみならず、男の欲望の下に己の身体が晒されるのを、怖いとさえ思う。

「ちょっと、待っ……待てってば」

 自分が漏らす荒い呼吸の音に混じり、かちゃかちゃと金具を外す音が下肢から聞こえる。制止するまもなく、スラックスとその下の薄布が一緒に引き摺り下ろされ、外気に晒された脚が夏だというのに寒さで震えた。

 膝裏を掬われ、脚を抱え上げられれば隠された蕾が明かりの下に晒される。絡みつくようなねっとりとした視線を感じれば、そこは巽の意思とは無関係にひくひく震え、新木の目を楽しませた。

「可愛い」

 そうして視線のみならず、その表面に乾いた指が触れた。

 まるで秘密の部屋の扉をノックするかのごとく、指先だけを埋めては引き抜くその動きに、巽は冷や汗が止まらない。

 一刻も早く男を突き飛ばし、離れなくてはいけないと解っていても、身体が鉛のように重く、両腕は全く持ち上がらない。恐怖に歯の根が合わず、ガチガチと震えてるのが自分でも解った。

「僕、凄く怒ってるんです。男の人には興味なさそうだったから我慢してきたのに、あんな男と寝るなんて」 

「あっ」

 異物に抵抗し閉ざす内壁もお構いなしに、一気に奥までこじ開けられれば、思わず背が撓る。乾いて擦れる指に痛みすら感じ、巽が苦悶の表情を浮かべるも、新木は無遠慮に胎内をかき乱した。

「巽さんがここをぐちゃぐちゃにされて、恥ずかしそうな顔して腰振ってたの、僕、見てましたよ」

「ダメ……、新木、く、……っ」

「ダメっていいながら、乾さんとは随分気持ち良さそうにしてましたよね。ひょっとして男を咥えたのって、初めてじゃなかったんですか」

「それなら我慢しなければよかった」と、せせら笑うようなその言い方は、しかしどこか苛立ちを孕んでいる。

 長年大事にしてきた花に不躾な手が伸びてきて、あっという間に手折っていかれたような、そういった怒りや虚しさを感じているようだった。

 その当て付けとばかりに随分急いた動きで内側を抉られる。

 巽は、新木の指がその箇所を探り当てないことを祈るばかりだった。今は恐怖に怯えているものの、そこを突かれれば自分の身体がどうなってしまうか解らない。

「新木くん、お願いだから、ぁ」

「『もっと奥に』?」

「違っ、や、……んっ」

 その祈りも無情に、指先が快楽の源泉を掠めると、思わず甘い吐息が漏れた。その反応に気づいたのか、そこばかりを執拗に攻められる。

 こんなのは違うと頭では解ってても、一度味を占めた身体は、その快楽を忘れてはいなかった。

 身体の奥から絶えず湧き上がる悦に濡れ、甘く滴るような声で「やめて」と懇願しても、男を喜ばせる結果にしかならない。それでも拒絶を止めるわけにはいかなかった。

 息苦しさに喘ぎ上下する喉元へ、唇の柔い感触が乗る。

 次の瞬間、その急所へと硬いなにかを当てられれ、ぞわりと背筋に冷たいものが這った。

「僕だってずっと、巽さんとこうしたかった」

 冷え切った声に、そのまま喉を噛み千切られるのでは、とさえ思う。

 これが、いつも穏やかな笑みを浮かべていた新木なのだろうか。

 力ずくで巽を組み敷き、獰猛とも言える欲を目に湛えるその姿は、記憶の中の新木と一致しない。

 恐怖ばかりが頭の中を支配して、身体が上手く動けずにいる。巽はただ、堪えるように目をきつく閉じた。


 ノックの音もなく、オートロックのはずの扉が開かる。

 そして侵入者はベッドの上の出来事を一瞥すると、言った。

「お客様、本日の営業時間は終了しておりますが」

 その声に巽はそっと目を開く。

「高、次、くん……?」

 高次の表情はいつものそれと違っていて、あからさまに不機嫌そのものであった。この表情と見比べれば、普段のそれは単に眠いだけなのだろうとさえ思える。

 そしてそのままずかずかと部屋に入ってきたかと思えば、ふたりの間に割って入り、巽から新木を引き剥がした。新木が忌々しそうに舌打ちし、文句と皮肉のひとつを言おうとしたが、高次の顔を見て口をつぐむ。

 新木に向かってどんな顔をしていたのか巽には解らなかったが、振り返りこちらを見る彼と視線が合えば、安堵より先に先ほどまでとは質の違う恐怖がこみ上げた。

 高次に誤解されるのではないか。

 身体を許し、自ら脚を開いたのではないか、と。

「これは違うのだ」と言おうとしても歯の根が合わず、上手く言葉が出てこない。

 そんな様子を一瞥し、高次が巽の頬に手を伸ばす。

 叩かれるかもしれない、と身を竦めたのに、彼は困ったような笑みを浮かべた。

「泣くなよ」

 全部解ってるから、と。

 そっと目尻に浮かぶ涙を指先に拭われる。

「っ」

 巽は思わず高次に縋りついた。

『好きになりたくてなるわけじゃない』。

 ただ、好きになってしまっただけ。

 それは自分の意思とは全く関係なく、唐突にやってきては台風みたいな風力で心を浚っていく。

 恋に落ちる、とはよく言ったものだ。

 足を滑らせれば、あとは重力に惹かれるまま、浮き上がることも出来ずに真っ逆さまに落ちていく。

 あぁこういうことなのか、とようやく巽は悟った。

「俺、やっぱり高次くんのことが、好きみたい」

 誰に言うでもなく、巽はそうひとりごちた。

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