第14話 「一之瀬支配人、僕、……」

 火曜日の午後六時。

 開店したばかりの『居酒屋たぬま』の暖簾をくぐる。空調の効いた涼しい空気と、柔らかい出汁の香りが巽たちを迎えた。

 まだ店には客はひとりもおらず、カウンター席に新木と並んで座る。相変わらず明るい表情で田沼夫人が迎えてくれたが、その顔を見てもふたりの空気は重いままだった。

「今日は高次くんとは一緒じゃないんですね」

「えぇ、今日は別の従業員と」

 カウンターへお絞りとお通しの小鉢が置かれる。今日の小鉢の中身を確認する余裕もなく、とりあえずビールをふたつ頼んだところで、ぽそりと新木が呟いた。

「乾さんともこの店に来たことがあるんですね」

「あるよ」

「そうですか」

 結局宿題の答えは見つからず、巽の方からその話を切り出せずにいる。

 置かれたビールのジョッキを乾杯するでもなく、お互い話すことを探すような空気の中、先に口を開いたのは新木だった。 

「一之瀬支配人って、その、男の人が好きなんですね」

「いやそういうわけじゃないから!」

 思わず脊髄反射で否定をする。

 誰でもいいから男と付き合えるかというと、首をかしげるのは確かである。見知らぬ男にキスされるところを想像するだけで、悪寒が走るのは事実だ。

「じゃあ、乾さんのことは遊びだったんですか」

 そう言われるとまた語弊があるような。

 キスをしていた理由を説明するならば、写真のことや、さらには高次と寝たことまで話さなくてはならない。流石にそこまでカミングアウトできる勇気はなく、巽は曖昧に言葉を濁した。

「あれは事故というか、えぇと」

「事故でキスしてたんですか!」

「あまり大きな声でそういうこと言わないで」

 巽たちの他に客は居ないものの、田沼夫人は勿論居るし、もしかしたらヨシヒコも裏で聞き耳を立てているかもしれない。ヨシヒコに情報が渡ったらあっという間に広がりそうだ。

「あのホテル、閉めましょうよ。乾さんみたいな不埒な輩だっていますし、幽霊騒ぎだってありますし、お客さんだって来ないし、こんな場所でやっていても流行らないって、最近思うんです」

「そうかもしれないけど」

「そうですよぅ。こんなホテル閉めて、僕のところに来ればいいのに」

 こんなふうに冗長に喋る新木は珍しい。彼の方を見ると、その前には既に空になったジョッキが置いてあった。

 あぁ酔ってるな、と巽は察し、彼の背中を撫でる。酒の代わりに勧めた小鉢の中身は、あの日高次が作ってくれたきんぴらごぼうと同じものだった。

 その小鉢を見ていると、この数日のことが蘇る。

 田舎くさくて何もない町だと思っていた。

 でもそれは巽が表面しか見ていなかっただけだと、今なら解る。

「新木くんの気持ちは有難いけどさ、俺、この町も悪くないって思うんだ。いいひと沢山いるし。だからもう少し、がんばってみようって思ってる」

『それをつまらないと思うのは、お前がそれについて何も知らないからだ』

 それは町のことだけではない。

 仕事や人のことも、よくよく見て、聞いて、それから判断するのでも遅くないだろう。でないと今の自分みたいに、早とちりして後悔することになるかもしれない。まだここに来てから三ヶ月しか経ってないのに、全部無駄だと捨てるのには早すぎる。

 勿論、住人の年齢層が高めな事実は変わらなくて、ラブホテルの需要があるとは言い難い。

 それでも、何とかこの町と上手くやっていく方法はないか、改めて考えてみたいと今なら思えるのだ。

 新木がこの町から撤退しようと言うのは、まだ町のことを知らないからだろう。彼さえ良ければ、明日はこの町を案内するのも悪くない。

 高次がそうしてくれたように。

「そうだ新木くん、桂木惣菜店って知ってる? あそこのコロッケサンドが美味しいんだ、今度、……」

 ふと、コロッケサンドを勧めてくれた男のことを思い出した。

 手触りの良さそうなグレーのスーツに身をまとい、高級時計を身につけた、この町に似合わない冷徹な瞳の男。

 二階堂は巽のことを、巽さん、と呼んだ。

「名前……」

 名前など、巽は教えたことがなかったのに。

 よくよく考えれば二階堂を毛嫌いをしている町の人が、彼に何かを教えるとは考えにくい。巽がラブホテルの支配人だということだって、どこで聴いたのだろうか。

 あえていうなら桂木夫人だろうが、彼女にしたって巽の顔は知らなかったし、そもそも町の人にすら「一之瀬」だとしか教えていない。

 間違いなく、巽のことを調べられている。

 やはり駅前開発のために、『パラディーゾ』を潰そうとしているのだろうか。写真。脅迫状。あれらも彼の仕業かもしれない。しかしそれなら、カメラはどうやって?

 考え込む巽の肩に、何かの重みが乗っかった。

 はっとして横を見ると、新木の身体がしな垂れかかっている。

「一之瀬支配人」

 ぎょっとして新木を引き離そうとするも彼は起き上がらない。柔らかそうな茶色の髪と、その隙間から覗く酒気を帯びてほんのり紅潮した頬や、うっすらと開く唇が妙に色っぽい。

「一之瀬支配人、僕、」

「あ、新木くん、ちょっと、人前でそういうのは」

「吐きそうです」

「……。トイレに行こうか」

 口元を押さえる新木に肩を貸し、ゆっくりと立ち上がった。

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