第11話 「彼のこと、好きになりたくてなったんじゃないから」
「巽ちゃんってば!」
「あっ、はい」
目の前に、こちらを覗き込むアケミの顔があった。
キス出来そうなぐらい間近で見てもキメ細かく整った肌は綺麗で、化粧の施された顔は何度見ても男性には見えない。それにしても、こんなに近づかれても気付かなかったとは、いよいよ危ないかもしれないな、と巽は思う。
午後四時半。
まだ巽の勤務時間ではないものの、じっとしていれば一昨日の出来事を考えてしまいそうで、「フロントの番をするよ」と新木に申し出た。しかし客は一向に来ず、結局一昨日の出来事を考えてしまっていたわけであるが。
あの後はもう、幽霊だとか売り上げだとかどうでも良くなって、意識を投げ出すようにベッドの中で惰眠を貪った。
そうして一晩明け、昼頃目を覚ますと隣に高次は居らず、身なりはきちんと整えられ、衣類一式はベッドの端に綺麗に畳まれていた。
もしかして昨晩の出来事は夢なのでは、と思ったりしたが、鈍い腰の痛みと脚の付け根にまで浮かぶ鬱血の痕に、思わず赤面することとなった。
高次のことをどう思っているのか、巽自身にも解らずにいる。
今まで、というより、今も、男を恋愛対象とは見ていないはずである。散々意地の悪いことをされながらも、高次とのあれこれをすんなり受け入れられている事実に、巽が一番驚いているぐらいだ。
だから、高次が好きなのかといわれれば、そうだといえる自信が無い。
あれは単純に流されるままに流されたことであって、拒否する理由もなかったからそうしただけであって、元を正せば自分が甘えて良いと言ったのだから甘えられただけで、つまり、遊びのようなものではないだろうか。
「またボーっとしてる」
「あ、すみません。二○二号室でしたっけ」
思えばアケミのところも男ふたりであの部屋に泊まっているのだ。いつも気の毒に思っていた彼氏に、今日は一層同情したくなった。
引き出しから鍵を取り出し、カウンターの上に置く。
しかしアケミはそれを受け取らず首をかしげた。
「悩みがあるならオネーサンに話して御覧なさいよ」
「いえ、別にたいしたことじゃありませんし」
「解決しなくても、聴いてもらうだけでスッキリすることも多いんだから」
アケミの優しさは嬉しいが、ここで話しはじめると、彼氏はまたお預け状態になるのではなかろうか。
アケミの後ろで待機する彼をちらり見る。視線が合うと、彼はため息をひとつ吐いて、煙草の箱を片手に店の外へとひとりで向かった。
そんな背中を申し訳ない気持ちで見送り、改めてアケミの方を見る。許可は得たものの、何を話そうか。「高次くんと同じベッドで寝たんです」とは言えないし、「俺は高次くんのことが好きなんですか」なんて訊いたところで、アケミからすれば「そんなの知らねーよ」としか答えようがないだろう。
そこでふと、頭によぎった言葉を口に出してみた。
「アケミさんは、はじめから男の人のことが好きだったんですか」
予想外の質問だったのか、アケミは大きく目を見開いた。そのまま、音が鳴りそうなぐらい長い睫を瞬かせると、楽しげにコロコロと笑った。
「んーん。学生の頃は、女の子の方が好きだったわ。今でも女の子の方が好きかもしれない」
「でも」
「彼のこと? 彼のことは、男だから好きになったとかそういうんじゃないから。彼という人間が好きになっただけ」
カウンターに両肘をついて、組んだ手の上に顎を乗せる。ルージュの口紅を引いた唇は女性のそれそのものだが、過去を思い出すようにすっと細まった双眸は男性らしくきりりとしている。
「女装だって、そのほうが彼が喜ぶと思って始めたのよ。彼は見た目なんか気にするような人じゃないって解ってたのに、バカみたいでしょ」
「バカみたいだ、とは思いませんけど……でも、そこまでするほど、好きになれるもんなんですか。相手は自分のこと、好きかどうかも解らないのに」
その恋はかなわないかもしれない。
もちろん迫れば、いやいや付き合ってくれるかもしれない。
でも本当に好きな人は別にいて、自分のことは遊びになるかもしれない。
そうでなくても世界は自分よりも魅力ある人間で溢れている。今は愛してくれても、いずれは自分の元から離れていくかもしれない。
いつか捨てられて辛い思いをするならば、最初から好きにならなければいい。
始まらなければ終わりもないから。
自分がどんな顔をしていたのか巽には判らないけれど、きっと酷い顔だったのだろう。アケミが慰めるようにそっと、巽の頭へ手を伸ばす。
「アタシだって、彼のこと、好きになりたくてなったんじゃないから」
「それならどうして、」
言いかける巽の言葉を遮るように、アケミは軽く身を乗り出して、巽の額へ口付ける。
ちゅ、と小さな音が間近で聞こえた。
「……」
「またね」と手を振るアケミの背中を、巽はただ見送ることしか出来なかった。
「一之瀬支配人」
「うわっ」
声をかけられて背後を振り返ると、いつの間にかそこには新木が立っていた。
いつからいたのだろう、もしかして今のキスを見られたのだろうか、心臓の上をそっと押さえつつ新木の様子を伺う。
「どうしたの」
「ちょっと、体調が悪くって」
そう言われて改めて新木の顔を見ると、心なしか普段より顔色が悪く、血の気のない顔をしていた。どうしてもっと早くに気付いてやれなかったのだろう。巽の胸を後悔の念が襲う。
「昨日、風邪引いた友人の面倒を見てたんですけど、貰って来ちゃったみたいで」
そういえば今日の新木のカバンはいつもの黒く四角いビジネスバッグと違い、深い緑のタータンチェックに、ライトブラウンの取っ手がついたボストンバックだった。
子供ひとりぐらいなら入りそうな大きさのそれは、底の角やジッパーの周りにも取っ手と同じライトブラウンの皮が貼られてあり、とてもおしゃれだなと巽は思っていた。
おそらく昨晩はその友人の家に泊まったのだろう。
「じゃあちょっと早いけど、今日は上がる?」
「すみません」
「いいよ。お大事にね」
いずれにしても、あと三十分もしないうちに高次の出勤時間だ。人手には困らない。
そう言ってから巽は気付いた。
新木が帰るということは、高次とふたりっきりになるのか、と。
「それじゃ、すみません。お先に失礼します」
「あ、うん……」
ボストンバッグを持ち上げて裏口から出て行く新木を見送りながら、巽は、自分も今から体調が悪くならないかなと思う。
残念なことに巽の身体は、くしゃみひとつ出そうになかった。
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