第9話 「それにこうすれば、幽霊の方から会いに来てくれるさ」


 結局残りも歩いて行き、『パラディーゾ』へ到着したのは午後六時を回っていた。

 辺りが薄暗くなる中、もしかして、高次は待ちくたびれて帰ってしまったかとも思ったが、そんなことはないようで、裏口の鍵はきちんと開いていた。

  事務室の方を覗くと、高次はいつもの席に座り、スマートフォンを弄っていた。無地の白い本体には、右側に虫食いのある銀色のリンゴが浮かびあがっている。巽はまだ、いわゆるガラパゴス携帯なので、ほんの少し羨ましくも思った。

 ゲームをしていたようで親指が画面の上をせわしなく動いていたが、高次はそれをポケットへ仕舞うと大きく伸びをひとつした。

「遅かったな」

「ちょっと、タヌキとキツネに化かされちゃって」

 冗談のつもりで言ったのだけれど、「トギツネさんたちか」と言われたものだから巽は反応に困る。

 まぁ、だとか、うん、だとか曖昧に肯定してから、カウンターの内側に回った。その引き出しから適当に鍵を取り出す。どこでもいいかと手に取ったキーホルダーには、二○二号室、の文字が刻まれていた。

「二○二号室。行こっか」

「おう」

 示し合わせたわけではないが、ふたりの足は自然と従業員用の階段へ向かっていた。お客様用のエレベーターを使わなかったのは、従業員精神の為せる技、というわけでもなく、単純にカウンターからはそちらの方が近く、また二○二号室がひとつ上の二階だからでもある。

 非常灯だけがともる暗い階段は、それこそ幽霊が出そうな雰囲気で、ひとりで登るには心細かっただろう。そこを登りきり、まっすぐ突き当たった角にある、その部屋の扉へ鍵を差し込んだ。

「あ……」

 扉を開けると同時に、巽は軽い眩暈に襲われた。

 それというのも、この部屋の内装のせいだ。

 室内はハート型の鏡がついたピンクのドレッサーやテディベアのぬいぐるみ、花柄のシーツといったような、可愛らしいインテリアで統一されている。「女の子の部屋」をモチーフにしてあるのだろう、男二人で入るのには違和感しかない。

 高次の方はというと、部屋の内装を気にするでもなく早速ベッドの縁に腰掛け、くつろぐように脚を組んでいる。この状況でくつろげるとは。彼の神経の太さが巽には羨ましく見えた。

「この部屋、こんな風になってたんだ」

「知らなかった?」

 高次がベッドヘッドに置かれたテディベアから、リモコンを奪い取る。ぬいぐるみはしっかりとリモコンを両手に抱えて守っていたものの、人間からの略奪には耐え切れなかったようで、あっさりとそれから手を話した。

「乾くん、いたいけな熊から宝物を奪うなんて」

「煩せ」

 芝居がかった巽の言葉にも取り合わず、そのままテレビのスイッチを入れる。すると、画面に一面の肌色が映し出された。

「……」

「……」

 洋モノらしい。

 画面の中の女性は「オゥ、イエス、イエース」などと言っているが、こちらは全くイエスではない。むしろノーだ。高次の隣に腰を下ろしたものの、一緒にテレビ画面を見られるわけもなく、巽はそっと視線を逸らした。

「チャンネル、変えようか」

「俺は別にいいけど」

 じっとテレビ画面を見つめるその横顔は、金髪巨乳の美女が、しかも全裸で映し出されているにも関わらず眠たげだった。

「恥ずかしがることねぇのに。兄弟や友達と集まって見なかった?」

「ひとりっ子だったからね。乾くんはそういうことしたことあるんだ」

「ないよ。友達居なかったから」

 自慢するようなことでもないだろうが、自慢げに言う彼が、なんだか巽には面白かった。

「お互い寂しい人生だな」全く寂しくなさそうに高次も笑う。

 確かに昔は寂しかったのだろう。

 でも、今はきっと違う。

 高次がリモコンのボタンを押してチャンネルを変えた。次に映し出されたのは民放のワイドショーだ。旬の素材を使った料理のコーナーのようで、エプロンをした中年女性と、その助手らしき若い女性が映し出された。二人がきちんと服を着ていることに、巽は安堵する。

 手元がアップになり、鶏肉と、トマト、オクラ、カボチャ、ナスといった色とりどりの夏野菜がひとくち大に切られてゆく。それらを両手持ちの大きい鍋で炒めるようだ。何が出来るのか巽には検討もつかないが、何が出来るのか巽には検討もつかないが、高次は既に完成品が見えているのか「作っても今はひとりだしなぁ」などと感想を漏らしていた。

 ふと、包丁を握り、台所に立つ高次の背中を思い出す。そういえばまだその礼も言っていないことに気付き、ぽつりと呟いた。

「昨日も今日も、色々迷惑掛けてごめんね」

「別にいいんじゃねぇの」

 巽の謝罪より、テレビの画面に興味があるようだ。巽の方を見ようともせず、ワンポイントアドバイスをする女性に、感心したような声を上げている。ちなみに、先ほどの大鍋に水を入れ「沸騰してから五分煮込んだものがこちらです」と別の鍋が出てきたあたりで、何を作っているのか巽にもピンときた。夏野菜のカレーだ。

「肩肘張らないで、もっと人に甘えりゃいいのに」

 つまらなさそうに零す高次に、巽は首を横に振った。

「そういうわけには行かないよ。ひとりでも頑張らないと」

「どうして」

「助けてくれる人なんて、居ないから」

 周りの他人は誰も助けてはくれない。

 幼い頃、デパートで体験したように。

 今だってそうだ。慣れない町にやってきて、知り合いなんて一人も居ない。しかも人に顔向け出来るような仕事もしてないのに、そんな巽を助けてくれる人など居るのだろうか。

「助けてくれる人なんて、居なかった?」

 改めて問いかけてくる高次に、「そりゃあ」と言いかけて、ふと言葉が止まる。高次がテレビではなくこちらを見ているのに気が付いたからだ。

 そうして巽は、思い出す。

 家のない巽を泊めてくれたり、洗濯物をしてくれたり、食事を作ってくれたりした、彼のことを。そして先ほど、倒れこむ巽に手を貸してくれた、ふたりのことを。

 ゆっくり頷くと、高次は言った。

「この町のやつらは、案外お人よしだぜ」

「乾くんも含めて?」

「そう。俺も案外お人よしだから、あんたはもっと俺に甘えていいし、抱きついていいし、なんだったら腕の中で泣いてもいい」

 どこか面倒くさそうな、むすっとした顔で両腕を広げる高次に、巽は思わず吹き出した。

「あぁそうだったのか」と、ようやく気付く。

 この表情は不機嫌なのではない、これがいつもの顔なのだと。

 怖がる必要なんて、何もなかったのだ。

 噴出す巽に「冗談じゃねぇからな」と高次が念を押す。

 勿論、高次の言葉は真剣そのものだと解っている。とはいえ、いきなり甘えろ、と言われても実行するのは難しい。

 そこで巽は、ぽっと浮かんだその言葉を口に出した。

「それじゃ乾くん、明日カレー作ってよ」

「カレー?」

「テレビでやってたヤツ。今日貰った野菜と同じだったから」

「別にいいけど。それって甘えてんの?」

「甘えてんの。」と笑う巽に、高次は不思議そうな顔をしていた。そしてまた不機嫌そうに、いや、別段不機嫌ではないだろう、半分ほど瞼を下ろした表情で、高次はテレビに視線を戻した。

 普段からそんな顔で、おまけにあまり笑わないものだから、これまでも勘違いされてきたに違いない。隣の席の男子が怖いと無意味に泣かれたりだとか、何を考えているのかわからない子だと敬遠されたりだとか、いつか暴力を振るうかもしれないからさっさと家を出て行って欲しい、だとか。そんなこともあったのだろう。

 そうやって誰にも甘えられずに生きてきたのは、高次の方ではないのか。

「乾くんこそ、もっと甘えていいんだよ」

「あ?」

「ついこの間、ヨネ子さんの四十九日が終わったんだってね」

「……」

 だからきっと、甘えるのが下手に違いない。誤解が解けた後も、どう甘えていいのか解らずにいたのだろう。

 大事にしていた祖母が亡くなったところで、誰かの前では泣けないほどに。

「言ってくれれば良かったのに。俺は乾くんの上司で、俺の方が年上なんだから。もっと甘えていいんだよ」

 驚いたように、高次の目が大きく見開かれた。初めてはっきりと見えた瞳は酷く澄んでいて、見ているこちらが吸い込まれそうになる。

 綺麗だ、と巽は思う。

 ありきたりすぎるけれど、それ以外の感想が見つからなかった。

 それが見えたのも一瞬のことで、ふいと顔を逸らされてしまう。照れているようだ。

 思わずにんまりして顔を覗き込もうとする巽を、高次は鬱陶しそうに手で振り、ぽつりと漏らした。

「公園じゃ置いてけぼりにされた子猫みたいな顔してたくせに」

「なっ……そんな顔してないって!」

「それじゃあお言葉に甘えて」

 言葉が終わるのと、巽の背中がベッドにつくのと、どちらが早かっただろうか。気付けば巽は天井を見上げており、その視界をさえぎるように高次が覗き込む。

「何、すんの」

「そりゃここはラブホなんだから、ナニに決まってる」

「乾くん?」

「甘えさせてくれるんだろ」

 高次がちらりと、ベッドヘッドに鎮座するテディベアを見た。

「それにこうすれば、幽霊の方から会いに来てくれるさ」

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