第8話 「通夜の日でしたかね、高次くんが黒髪に染めてきたのは」 「え?」
「目ェ覚めたか」
「あ……」
巽は背もたれのないベンチの上で、横になっていた。夏の日差しが木々の隙間から、巽の上に降り注いでいる。
ゆっくりと身を起こし辺りを軽く見渡す。辺りは公園ともいえない小さな広場になっていた。周りを囲う低い生垣の向こうには煤けた灰色の建物が見え、ここが公民館の隣にある休憩所だと知る。すぐ隣にベンチがもうひとつあるがそちらは空で、巽たちの他には誰も居らずに静かだった。
巽の顔を覗き込むのは、キツネ、ではなくワタヌキだった。おそらく本人としては目一杯開いているのだろう、しかしながら相変わらず細い目で笑う。
「大丈夫か? 蹲ったと思ったら急に倒れるモンだから驚いたぜ」
「すみません」
「謝んなくていいって。飯は食ってるのか」
「もう、大丈夫です」
かみ合わない会話にワタヌキが訝しげな目で巽を見た。
その視線に、口の中が苦くなり吐き気がこみ上げるのを堪えながら、巽はベンチから立ち上がろうとした。
そこへ丁度、缶ジュースを三つ手に持ったトギツネが生垣の切れ目からやってくる。
「一之瀬さん、リンゴジュースは飲めますか?」
「あの、ありがとうございます。でももう、大丈夫です」
「まだ顔色が悪いですじゃ。暫く休んでいきなされ」
「いいんです、本当に、大丈夫ですから」
ただ、眩暈がしただけなのだ。ここからはバスに乗っていけばあんなことになる心配もない。
半分ほど腰を浮かせた巽を、トギツネは有無言わせずベンチに押し戻し、手に持っていた缶を押し付けた。半分に切れたリンゴの写真がプリントされたそれは、自販機で買ってきたものなのだろうか、表面に露が浮かぶほどひんやりとしている。
ぽんと巽の肩を叩くと、トギツネは相変わらず穏やかな声で言った。
「見られるのが嫌なら、わしらはそっぽ向いてますから」
その言葉に、巽は思わず顔を上げる。
「どうして、それを」
「お前がさっきまで、見ないで見ないで、って寝言みたいに呻いてたからな」
「……」
「まぁ、知らない人にジロジロ見られたら、誰だって嫌な気分になりますもんじゃ」
ふたりが巽に背を向けて隣のベンチへ座り、パコ、と缶ジュースのプルタブを起こす。
巽も手の中にある缶ジュースを開封し、そっと端に口を付けた。甘く冷えたリンゴの味が喉をつたい、胃の中へと落ちていく。そうして息をひとつ吐き出すと、呼吸がだいぶ楽になった。
「最近あの、四ツ井の二階堂だか東海道だかよく解んねぇヤツが来てるせいでな、知らねぇ若い男が居ると、皆気になるんだよ。気にすんな」
「……はい」
「それに一之瀬さんも格好いいですじゃろ。つい熱視線を送ってしまうのでしょう。怒んないでやってくださいね」
「それは初めて言われました」
トギツネとしては冗談のつもりだったのだろうが、巽は真面目な顔でそう言ってから、ぽっかりあいた缶の口に視線を落とす。明るい日差しの中だろうと、そこだけはいつも真暗だ。
「それにしても、強がりなとこは高次みてぇだな。ラブホの従業員ってのは皆そうなのか?」
「高次くんが強がりになったのは、ワタヌキさんのせいでしょう」
「なんだと」
「出会いがしらに『いくらヨネ子さんの孫でも、お前とは仲良くできん』て言ったから」
その言葉にワタヌキが苦虫を噛み潰したような顔をする。なんでもズバズバ言うワタヌキが「あれはその、まぁなんだ」と弱弱しく口ごもる様子に、巽は思わず吹き出した。
ヨネ子というのが、高次の家に飾ってあった遺影の老婆なのだろう。やはりワタヌキは、彼女に想いを寄せていたのではなかろうか。
ふたりがちらりと巽を見るも、すぐに目を逸らして続ける。
「だってあいつよぅ、最初に来たときは十かそこらだったのに、ずぅっと黙ってるし、なんつぅか、不気味だったんだよ」
聞けば、高次が初めてこの町にやってきたのは、九歳の頃だったらしい。ヨネ子に手を引かれて町を見て回ったけれど、高次はずっと難しそうな顔をしていて、人々が何を話しかけても、挨拶どころか一言も話さなかったという。その様子にワタヌキをはじめとする町の人々は、高次のことを「愛想の無い不気味な子」だと陰口を言うようになったらしい。
「その後も商店街の公園や近場の畑で高次くんを見かけるようなりましたが、最初の年は帰る日まで誰とも喋りませんでしたねぇ。聾唖なのかと思ってました」
「公園の砂場なんかで、ひとりでぽつんと遊んでやがったが、それでも寂しそうでもなかったんだよなァ」
最初の年は夏休みの一週間だけだったが、学年があがるにつれ夏休みの半分以上をこの町で過ごすようになった。そのうちに少しずつ町の人々とも馴染みはじめ、次の年は春休みも、そしていつしか冬休みも来るようになって、高校を卒業と同時にとうとうこちらへ引っ越してきた。
「それからもう五年ぐらい経ちますじゃろ。家族同然になった今でも、高次くん、わしらに頼みごとをしたり、我侭を言ったり、そういうことはひとつもないんですわ。きっとわしらが最初に高次くんを嫌ってたこと、今でも覚えてるんでしょうねぇ」
大人たちの嫌そうな顔を見て、「自分が居ることでヨネ子や周りの人々に迷惑が掛かっている」と幼心にも思ったのだろうか。その負い目は大人になっても変わることなく、これ以上迷惑をかけてはいけない、と思っているようだと、トギツネは話した。
「それでこないだ、ようやく頼ってきたと思ったら、『葬式の仕方を教えてくれ』だからな。そりゃあ皆驚いたのなんのって」
悲壮さは全く漂っていない、いつもどおりの表情だったという。たとえば「きゅうりの育て方を教えてくれ」というような、他愛も無い言い方をするものだから、思わず「まず葬儀会社を決めるんだ」とあまりに事務的なこと言ってしまった、とワタヌキが苦笑する。
「それでわしらも初めて、ヨネ子さんが亡くなったことを知ったんですわ。確かに最近見かけてませんでしたけど、そこまで体調が悪くなってるとは知りませんでして。慌てて長老に世話役を頼んだり、お寺さんに行ったりしてね。喪主は高次くんがやるって言って聴きませんでしたけど、あのボンクラ息子が生きてますし、そういうわけにも行きませんじゃろ」
「なのにあのボンクラ、ヨネ子さんが亡くなったことを伝えたら『葬儀はそちらでお任せします』ときたもんだ。俺ぁ思わず電話を叩ッ切ったね」
ボンクラ息子、というのがヨネ子の息子、つまり高次の父親のことだろう。結局喪主は高次が務め、両親は葬式にも出なかったというから、何かしらの確執があったのは間違いない。温厚そうなトギツネがボンクラと呼ぶぐらいだ、ヨネ子とだけでなく、町全体との問題なのかもしれない。
「通夜の日でしたかね、高次くんが黒髪に染めてきたのは」
「え?」
「『喪服に似合わないから染めてきた』とか言って。そんなこと気にしてる場合じゃなかったでしょうに」
巽の頭に、ひとつの疑問が浮かんだ。
それというのも、巽は高次の金髪姿を知っているからだ。
初めて会った、面接をした日も、入社してから暫くの間も、高次の髪は透けるような金色だった。
「あの、ヨネ子さんが亡くなられたのって、いつなんですか」
「この間四十九日が終わったから……ふた月前かねぇ」
知らなかった。
「そういえば何で黒色に染め直したの? やっぱり接客業じゃまずいって気付いたのかな」「そんな感じ」。
来る道で交わしたあの言葉は嘘だったのだろうか。
それならば、何故本当のことを言ってくれなかったのだろう。思わず巽の眉間に皺が寄る。
そのときの思い出にふけるトギツネは、巽のその様子に気付かず続けた。
「この二ヶ月、高次くんは一度も泣きはしなかった。強い子に育ってくれたのは嬉しいけど、ちょっと寂しいモンですじゃ」
線香の香りが脳裏に蘇る。
明かりのない真暗な窓。
ひとりで使うには広すぎる部屋。
捲られていないカレンダー。
あの家は、ヨネ子が亡くなったときから、時間が止まっている。
遠くから蝉の鳴き声を潜り抜け、エンジンの音と、ジャリジャリと土の上を走るタイヤの音がやってくる。
「あ」
巽が立ち上がる頃には時既に遅し。
赤いバスの天辺が、生垣の向こうを通り過ぎていった。
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