第7話 「乾くんさ、今夜は、『パラディーゾ』に泊まらない?」


 商店街を抜けて五分も歩けば、道は舗装もされていない農道に変わる。見渡す限り田んぼが広がり、青々としたそれは柔らかな芝生のようにも見えた。

 前側だけに扉のついた小さなバスが、巽たちの横を通っていく。真直ぐな道を行き、ぐんぐん遠ざかるそれは、ひとつだけ赤色をしているせいかとてもよく目立ち、どこまでも小さくなっていった。

 ミニチュアみたいだな、と巽が思っていると、高次もそのバスを見つめながら言った。

「今日もうち泊まってく?」

 布団の心地よさと同時に、高次の腕のぬくもりを思い出して、巽の頬が熱くなる。

 それに気付かれないよう俯き、返事をする。

「気持ちは嬉しいけど、えぇと、着替えがないしさ」

「ホテルでだって、いつも同じ服着てるのに」

「……あれは制服だから」

 ワイシャツを三着しか持ってきておらず、ヘビーローテーションしているのに気付かれているようだ。「ふぅん」と言ったきり、何もつっこんでこないのが逆に辛い。

 バス停まで到着し、「それじゃまた明後日」と高次が自転車に足を掛けたところで、巽は彼を呼び止める。

「乾くんさ、今夜は、『パラディーゾ』に泊まらない?」

「お誘い?」

「違うから!」慌てて巽は否定する。「先刻、二階堂さんが言ってたじゃないか。『客室に泊まってみれば幽霊に会えるかも』って」

「ひとりでも泊まれるだろ」

 この町には先日の男女のように、道に迷ってやってくる人がいる。それなのに『パラディーゾ』以外は宿泊施設らしいものがない。日も落ちて真暗な山道を無意味に走るより、ラブホででも泊まったほうが良いだろうと考える人は少なからず居た。

 そういった経緯もあり、『パラディーゾ』はおひとりさまの宿泊も受け入れている。ちなみに同性同士の宿泊や、飲食物の持ち込みも禁止していないし、複数人でも問題ない。ただし最後のひとつは割増料金だが。

「本当に幽霊が出たらどうするのだ」とは言えず、口ごもる巽を高次がちらりと見る。

「まぁいいけど」

 高次が改めてピンクのママチャリにまたがり、「先行ってるからさ、ホテルの鍵貸してよ」と手を差し出す。

 『パラディーゾ』の裏にある従業員用入り口の鍵は、巽しか持っていない。今は休日でも巽がそこに寝泊りしているため、他のふたりに持たせる必要がないのだ。別の寝泊りする場所が見つかれば、ふたりにも持たせる必要が出てくるだろうが、果たしていつになることやら。

 それはさておき、高次が先に行くにしても、自転車とバスとでは速度が違うだろう。信号も少ない道では、多少後発したところで、バスの方が『パラディーゾ』に早く到着するのではなかろうか。

 その疑問を口に出すと、高次は首を横に振った。

「そのバス、一時間に一本だから」

 つい今しがた、バスに追い抜かれたことを思い出す。

 見たところ誰も乗っていなかったようだったし、巽がバス停に到着するまで待っててくれれば良かったものを。のんびりとした空気が流れるこの町だが、その辺りの時間には厳しいようだ。

 仕方なくポケットから鍵を取り出す。小指の爪ほどの小さな鈴がついた鈴が、チリンと軽やかに鳴り、高次の手に渡った。

「またあとでな」それを受け取り、高次がペダルを踏み込んで走り去る。背中がハッキリ見えるほど、その荷台が空いている。

 後ろに乗せてくれればいいものを薄情モノめ、とは思わなくもなかった。


 バスで十分の距離ならば、一時間待つより歩いたほうが早い。暫く真直ぐ歩いて、この先にある公民館の角を曲がれば、あとは再びずっと真直ぐだったように記憶している。ここ最近外で身体を動かすこともなかったし、丁度いい運動に違いない。巽はバス停を離れ、のんびりと歩き出した。

 午後三時を回った田んぼでは、ぽつぽつと休憩している人影が見えた。持ってきた水筒や茶菓子を広げ、あぜ道に腰を下ろしている。

 のんびりとした田園風景だ。

 しかし皆、見慣れない巽のことが気になるのか、近くを通り過ぎるたび、不審げな目を向けてくる。

「あ……」

 来た時には気づかなかった人々の視線に、巽は怯む。

 普通の街中だったら、他人が通り過ぎたぐらいで振り返る人間は少ないだろう。その他人が絶世の美女であるとかなら別だけれど、巽は十人並みの顔をしている。振り返られる理由はないはずだし、今まで振り返られたことといえば、小学校の幼馴染に間違われたときぐらいだった。

 しかしここでは巽が通るたびに、十人が十人ともこちらを見つめてくる。

 声を掛けるでもなく、不審そうな目で、こちらを見てくるのだ。

 人影の脇を通り過ぎた後も、巽は背中に視線が刺さっている気がしてならなかった。

 自然と歩くスピードが早くなってゆく。

 やはりバス停で待っているべきだったか。

 今からでも引き返すべきか迷っていると、二階建ての真四角な建物が見えてきた。

 公民館だ。元々は真白だったのだろうが、今は煤けて灰色にも見える壁には、ところどころ罅が入っていて年季を感じさせる。

 公民館の前にもバス停があったはずだ。半分の距離まできてしまったけれど、そこでバスを待とう。

 ジリジリと焼けるような日差しに、汗がぽたりと落ちた。

 蝉の鳴き声が煩いぐらい頭に響く。

 その音に混じり、誰かの囁きが耳元で聴こえた。

「ほら見て、ラブホテルの支配人よ」「こんな場所でラブホなんて」「迷惑もいいところだ」「とっとと潰れてしまえばいいのに」「汚らわしい」……。

 視界がぐんぐん狭くなり、とうとう歩くのも難しくなる。

 頭が重い。

 視界がぐるぐる回っているようだ。

 あまりの眩暈に、思わずその場へしゃがみこんだとき、聴いたことのある声が天から降ってきた。

「支配人さん?」

 巽が顔を上げると、タヌキとキツネが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。




 巽がまだ小学生にもなっていなかった頃の話だ。

 土日の昼過ぎだっただろうか、とにかくデパートの売り場は人でごった返していたのを覚えている。子供服や子供雑貨を扱うそのフロアは、興奮した子供たちの声や、何か嫌なことがあったのか泣き叫ぶ赤ちゃんの声が響いていた。

「離れちゃいけませんよ」

 母が巽の小さな手を取ろうとしたが、何故か巽はそれを嫌がり、母のスカートの端を握り締めた。

 辺りには色とりどりのおもちゃや絵本が所狭しと並んでいて、まるで夢の世界に飛び込んだようだ。この中でずっと遊んでいられたら、どんなに楽しいだろう。

 ふと、巽は玩具売り場の前に置かれた、背の高いオブジェに目を奪われた。

 腰ぐらいの高さにある土台の上で、青や黄色、オレンジといったカラフルな積み木が積み重なり、高低様々な五本の柱を作っている。一番高い柱は、巽の背を少し越していた。

 よくよく見ると立方体をした積み木には所々穴が開いていて、その穴からまた別の柱の穴まで渡すように螺旋状のレールが取り付けられている。

 どうやら上からビー玉を入れると、そのレールを転がっていく仕組みのようだ。

 オブジェがそっと手招きをしている。その誘惑に耐え切れず、巽は母のスカートから手を離した。

 そうして土台に転がっているビー玉を拾い上げ、一番高いところにある積み木の穴へ手を伸ばし、入れてみた。

 すると案の定、ビー玉がレールの上を転がりだす。

 敷かれたレールを踏み外しもせず、綺麗な螺旋を描き滑り落ちていく様に、巽は思わず見惚た。最後まで滑りきったビー玉を取り上げ、再び同じところに入れる。

 カラカラと小さな音を立てて転がるビー玉にはしゃぎ、もう一回、もう一回と繰り返したときだった。

「ぼく、お母さんは?」

 ふと、後ろから声をかけられた。

 グレーのベストスーツを着た女性が、巽を視線を合わせるように屈み込んでいる。

 どうやらこの店の店員のようだった。まだ二十代ぐらいの若い女性だったが、子供の巽からすると「こわいおとな」には変わりない。

「お母さん」、彼女の言葉を鸚鵡返しにしたつもりはなかったが、思わずそう呟いて辺りを見渡す。視界に映るのは、見知らぬ人間ばかりだった。

「っ」

 知らない人には声をかけられてもついて行ってはいけない。母の教えを忠実に守り、巽はビー玉を放り投げると、一目散に逃げ出した。

「……」

 ようやく母とはぐれたことに気付く。

 どこへ行ったのだろう。

 煌びやかに見えていたおもちゃの世界が、一瞬にして、薄暗く不気味な森に変わってしまったようだ。

 取り囲む棚には、無機質な目でこちらを見つめるぬいぐるみが並び、まるでこの森の門番のように、不法侵入した巽を責める。

 とにかく、逃げなくては。

 そうやって人ごみを掻き分けて必死に走るうちに、階段を駆け下りていたのだろう。巽はいつの間にか、別のフロアに来ていた。同じ建物のはずなのに、先ほどまで居た場所とのあまりの雰囲気の違いに、巽は目を見開く。

 そのフロアは、宝飾品を取り扱うフロアだった。

 天井の照明は暗めに絞られ、ガラスケースの中だけがライトアップされていた。その台座にはより一層輝く宝飾品が並べられ、まばらに行き交う人々も皆それらに似たもので腕や指、耳といった場所を飾っている。

 上のフロアとは違い、けたたましく笑う声も聴こえない。

 静かに談笑している客も店員も、各々が腹に何かを隠し、化かしあっているようにさえ見える。

「あらあの子、迷子じゃない?」

 近くに居たふたり組の女が、巽の方を見て言った。

 元の顔が解らなくなるほどに施した化粧が、いかにも作り物じみていて、巽は怖気づく。

 しかし彼女たちは近づいて声を掛けるでもなく、ジロジロと巽の方を見ているだけだった。

 徐に片方の女が、もうひとりの女へ顔を近づけた。

「あなた、声掛けなさいよ」「いやよ。だって私、子供って苦手なの」「あらどうして」「煩いばかりで何の理性もなくって猿みたい」「抱き上げて、ダイヤのネックレスにベタベタ指紋を付けられたら溜まんないものねぇ」

 そうやってクスクスと笑う声が巽の耳にも聞こえてくる。女たちが話す内容こそ理解できなかったものの、この場所では巽は邪魔者なのだということは理解できた。

 それなら放っておいてくれれば良いものを、女たちはチラチラ視線をよこしては嫌なふうに口元を曲げて巽を哂う。

 ぱっとしない顔、身に付けている服は安物だ、場違いなところに居てかわいそう。

 まるで、そうすることでいかに自分たちが美しく、この場所にふさわしいかが確認出来る、とでも言うように内緒話を続けた。

 長い睫に彩られた瞳とルージュの引かれた艶かしい唇が動くたび、巽の小さな心臓が張り裂けそうなぐらい早鐘を打ち、次第に呼吸まで荒くなる。

 誰かに助けを求めようと視線をめぐらせるも、厄介ごとに巻き込まれるのは面倒なのか、巽をちらりと見るだけで、誰ひとりとして声を掛けようとしない。

 沢山の視線が巽の身体の上で重なる。

 女たちの笑い声が聞こえる。

 誰も助けてはくれない。

 息の吸い方すら忘れたとき、巽はその場に倒れこんだ。

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