第6話 「客室の方に泊まってみたらいかがですか。事件は現場で起きるものです」
商店街の一角にある、惣菜店の前で高次は自転車を止めた。
先日ヨシヒコとアイスを食べたときは気が付かなかったが、惣菜店は公園のすぐ隣にあった。
近くに学校があれば、ここでコロッケを買って、公園で齧る学生の姿も見られたのだろう。しかしそのような学生はひとりも居ない。
家を出てからここまで、十分ぐらいしか掛かっていないように感じたけれど、腕時計にふと目を落とせば、既に三十分は経っていた。時が経つのは早いものである。
高次はスタンドを立てて、野菜の入ったビニール袋を持ち上げ、店の奥へ呼びかけた。
「ばばあ。野菜要る?」
「あら高次じゃない。あんたの方から店にやってくるなんて、どういう風の吹き回しだい」
「別に」
暖簾をかき分け「明日は台風かねぇ」と笑いながら、おかみが住居スペースから出てくる。おそらく戦前から生きていたのだろう、顔中の皺には年季が入っており、髪は全て真白に染まっていた。背が丸まっているせいで更に小柄に見えるものの、足取りはしっかりしていて危なげがない。
「あなたが、三丁目のカツラギさんですか」
「そうよぉ。駅前商店街一の情報屋、桂木惣菜店のおかみと言えば、あたしのことなんだから」
どこかで聞いたような台詞である。「駅前商店街一」がふたり居るとはどういうことだろうか。
「これでも六十年前はこのあたりの小野小町って呼ばれていてね。え? 今じゃ見る影もないだって? やぁねぇあたしの魅力に気付かないなんて」
「はぁ」
次から次へと出てくる言葉に、巽は質問を挟む余裕が無い。これから六十年分の思い出話を語り始めるのではないか。終わる頃には何時になっているのだろう、今夜は帰れるのかと不安になったが、幸いにも歴史の授業は始まらなかった。
「高次、折角きたんだからちょっと手伝ってよ。田沼さんところにそっちの桃持って行って」
「届け先で半分に減ってても知らねぇからな」
「それは最初から承知の助さ」
高次が店の奥から、桃の入ったダンボールを運び出す。おそらく六個入りのものだろう、平たいダンボールをふたつ積み重ね、自転車の荷台にくくり付ける。その動作はとても手馴れていて、普段からそういった手伝いもしていることが窺えた。
「ちょっと行ってくる。その間、ばばあに噂のこと訊いておきな」
サドルにまたがり、ペダルを踏み出す高次の背中をぼんやりと見送る。
ぐんぐん遠くなるその背中を見て、子供の頃、デパートで迷子になったことを思い出した。
まだ小学生にもなっていなかった頃だ。
土日の昼過ぎだっただろうか、とにかくデパートの売り場は人でごった返していたのを覚えている。
子供服や子供雑貨を扱うそのフロアは、興奮した子供たちの声や、何か嫌なことがあったのか泣き叫ぶ赤ちゃんの声が響いていた。
そんな中「離れちゃいけませんよ」などという母の声はかき消されて聞こえず、巽は玩具売り場に目を惹かれ、ふらりと母親から離れてしまった。
売り場に広げてある積み木で遊んでいると「お母さんは?」と、女性の店員に声を掛けられて、そこでようやくに周りに父も母もいないことに気付いて、……。
気付いて、その後どうしたのか。
巽はその続きが思い出せないことに気がついた。
その店員に連れられたのでも、呼び出し放送を掛けられたのでもなかった気がする。
記憶にかかる靄をなんとか振り払えないか、思い出に集中しようとしたときだった。
「それでご注文は?」
「えっ」
「ここまで来たんだから、勿論買って行ってくれるんだよねぇ」
優しい猫撫で声で現実に戻される。
その声が、あの時母の居場所を訊いた女性店員のものを彷彿とさせて、巽は一層心細くなった。相手はか弱い……ようには見えないが、老婆ひとりだ。何も怖がることはない。
しかしじろりとこちらを見る桂木夫人と目が合えば、途端に巽の頭の中は真白になった。
このまま手ぶらで回れ右を出来そうな雰囲気ではとても無い。蛇に睨まれたカエルがごとく、巽は一歩も動けなかった。
視界まで真暗になり、ぎょろりとした双眸だけがこちらを見つめている。
心臓が早鐘を打つ。
嫌な汗が額から吹き出る。
恐る恐るメンチカツやハムカツの並ぶガラスケースへ視線をやるも、緊張のあまり目がすべり、情報が全く頭に入ってこない。
「ご注文は?」
「えっと、……」
桂木夫人がイライラしているようだ、早く選ばなくては。
そう思えば思うほど空回る。そういえば今いくら持っていただろう。ポケットから黒い二つ折りの財布をとりだし、小銭を確認しようとボタンを外したところで、パラパラと小銭が転がった。
「わっ」
慌ててしゃがみこみ、小銭を拾う。
「何やってるんだい」と桂木夫人はため息をついたものの、曲がった腰を折り、一緒に拾ってくれた。
そうして最後の一枚を回収しようとしたところで、先にその百円玉を拾い上げる手があった。
「ここのコロッケサンド、おいしいですよ」
「あ……」
聞き覚えのある声に上を見上げると、長身の男が立っていた。
二階堂だ。
昨日同様ジャケットを羽織り、やはりネクタイまでしっかりと締めている。それにも関わらず、汗ひとつかいていない爽やかさだ。イケメンというのは、発汗調節まで出来るのだろうか。
「あら、いらっしゃい。いつもありがとうね」
「桂木さん。コロッケサンドをひとつ」
意外にもこの店の常連なのか、慣れた様子で注文をする。個人が行う町中の惣菜店より、高級レストランの方が似合いそうなのに。
駅前商店街一の情報屋、桂木惣菜店のおかみである桂木夫人が、二階堂の正体を知らないはずがない。それでも都市開発反対派ではないのか、あるいは常連客は特別なのか、にこにこと対応していた。
このチャンスを逃さないように、巽も横から口を挟む。
「えっと、じゃあ、俺もコロッケサンド、ひとつください」
「あいよ。ちょっと待ってねぇ」
先ほどまでの人を刺し殺しそうな視線はどこへやら、くしゃくしゃな笑顔でコロッケサンドを手渡される。自分の心臓を手渡されたようだな、と巽は思った。
二階堂が公園のブランコに腰を下ろす。巽も同じように隣のブランコに座り、コロッケサンドの紙包みを解いた。
「はずれにある、ラブホテルの支配人さんでしたっけ」
「……」
「違いましたか」
「……そうですけど」
巽の噂は一体どこまで広がっているのだろう。町中の人が知っていても、もう驚かないだろうなと思う。
「そういえばあなたのお名前を伺っていませんでしたね」
「一之瀬、と言います」
それにしても、名前より先に勤務先の方が広まっているとは。
やけっぱちになりながら、コロッケサンドの端にかぶりつく。ちょうど出来たてなのか、ふんわりとした温かなパンにさくさくのコロッケ、瑞々しい千切りキャベツの食感が巽を楽しませた。ソースはケチャップ風味のもので、こちらもまた手作りなのか、トマトの味が非常に濃い。田舎の個人店のものとは思えない美味しさだ。
しかし巽の気分は浮かない。
「恥ずかしいですよね、ラブホに勤めてるだなんて」
どうせ勉強するなら、実家のホテルか、新木のホテルに行かせて欲しかった。
つい、そんな本音が漏れるのは、二階堂が町の人間でもない、遠い他人だからだろうか。
最初のうちは巽だって、ラブホとはいえひとつの城を任されたのだ、嬉しく思わないわけではなかった。
しかし蓋を開けてみれば、客は少ないどころかそろそろゼロになりそうなホテルでやりがいも感じず、やる気は売り上げに比例してぐんぐん下がっていき、無意味に時間を潰すだけの日々となっている。
「それに比べて二階堂さんは、真面目な仕事について、いい服も着てて、うらやましいです」
パン屑がその上に落ちるのを彼は気にしていないが、服はオーダーメイドだろう。手触りの良さそうなグレーのスーツは余りがなく、ジャケットの袖口から覗く腕時計は、スイスの有名ブランドのそれだ。ソースが垂れたら大変ではないかと、巽の方が気が気でない。
それよりなにより本当に感心するのは、服飾品の価格ではなく、それらを身につけてもなお劣らない、二階堂彰という人間の存在感である。
巽の方はというと、量販店で購入した千九百八十円の半袖ワイシャツに、アイロンも掛けていないスラックスという出で立ちだ。
髪もロクに整えずにいたことを思い出し、隣に並び同じ食べ物を食べているのが恥ずかしくなる。
そんな巽の様子に気付いたのか、二階堂は嫌味なく笑った。
「でも、私の仕事も、人には嫌われてばかりの仕事ですよ」
「ラブホだって好かれるような仕事じゃない」
「感謝している人は、いると思います」
「……ありがとうございます」
社交辞令なのは解っているものの、慰めの言葉が温かく感じ、巽は礼を言った。しかし、そんな人間は果たしているのだろうか。
心当たりがさっぱりない巽に、二階堂は更に微笑む。
「それに、『パラディーゾ』でしたっけ、素敵な名前じゃありませんか。宿泊者の楽園になるように、って意味でつけられたんでしょう?」
「……」
名付けたのは巽でなく、父親の方なので詳しくは知らない。いずれにせよある意味楽園には行けるかもしれないが、それはあまり品があるようには感じられなかった。
そうして言葉が途切れた後は、お互い特に話すこともなく、黙々とコロッケサンドを頬張っていた。
相変わらず午後の日差しは強く蝉の鳴き声はうるさいものの、風がよく通るせいか、そこまで暑さは感じない。元々この辺りは、都会特有のじんめりとしただるい暑さではなく、カラリとした暑さの夏で、過ごしやすいのだ。
「二階堂さんは、あのラブホに幽霊が出るっていう噂、知ってますか」
気付けば、そんな風に訊いていた。
二階堂も思うほど悪い人間ではなさそうだったし、何か知っていないかと訊ける気がした。どちらかというと、情報を手にいれることより、ただの世間話が目的だ。
「知っていますよ。桂木さんが教えてくれました」
アケミも桂木夫人から聴いたと言っていた。やはり桂木夫人は「駅前商店街一」の名に恥じぬ情報力を持っているようだ。
しかし一体、桂木夫人は誰からその噂を聴いたのだろう。
実際のところ、『パラディーゾ』に幽霊なんて出るわけがないのだし、嘘の情報を流した人間がいるに違いない。夫人に訊いてみるべきかもしれない。
最後のひとくちを放り込みながら、巽は笑う。
「でも、幽霊騒ぎなんて子供だましですよね」
「そうですね。ホテルにはよくある他愛も無い噂です」
二階堂も微笑んだ。
その直後、急に真面目な顔をして巽を見る。
冷徹ともいえるその視線に、巽はぞくりと背を震わせた。
「しかし小さい町で悪評をそのままにしていたら、ますます客足は遠のきますかと。早く対策をした方が良いのでは?」
言外に「こんなところで、コロッケサンドを食べている場合ですか」と言われているようで、思わず巽は言葉を失った。
自分でも解っていたはずだが、他人から言われるとぐさりと来る。それが自分よりもずっと優秀な人間から言われると、尚更だ。
俯くと自分の影が見えた。その影に裂けた唇が出来、嘲笑うように問いかけてくる。
今までお前は何か行動をしようとしたか?
無意味な時間に流されるまま、文句ばかりを言っていなかったか?
じっとりと重い空気が、背中に圧し掛かる。そのまま押しつぶされて、足元の影に取り込まれて行くのではないか。
その圧に耐え切れなくなりそうになったとき、公園の入り口から声を掛けられた。
「何やってんの」
配達が終わったのだろう、自転車を引いた高次が、そこに立っていた。目元は前髪に隠れよく見えないが、唇は真横に結ばれ、明らかに虫の居所が悪そうな表情である。
「ばばあとの話は?」
「えっ、いや、まだ……」
「コロッケサンド食ってる場合じゃねぇだろ」
「それはもう解ったから」
まるで浮気現場を見られたような焦りを感じ、何と言い訳すべきか、とにかく言葉を出そうとしても、口はもごもごするだけだった。
そんな巽の隣で、食べ終わった茶色の紙包みをクシャリと丸め、二階堂が助け舟を出す。その表情は、元のような穏やかなものに戻っていた。
「巽さんは人見知りのようですね、桂木さんとも上手くお話できなかったみたいです」
「あんたとは仲良さそうに話してたけど」
「おや、妬いてるんですか」
冗談がつまらなかったのか、高次は「ばかじゃねーの」と鼻で笑い、自転車のスタンドを立てる。そうして惣菜店を覗き込み、桂木夫人を呼んだ。
「桂木のばばあ。ばばあが、ラブホに幽霊が出るって噂してたんだって?」
巽もブランコから立ち上がり、そちらへ駆け寄った。
「その噂のこと、俺も、聴きたいんです」
「あれ、もしかしてアンタが『らぶほてる』の支配人さん? あらやだあたしったら気付かなくって」
店のカウンターまで出てきた夫人が、右手を口元にあて、空を叩くように左手を振った。
「この辺の見知らぬ若い男だなんて、支配人さんぐらいだったのにねぇ」
そうして漸く噂の発生源について聞けるかと思いきや、「そういえばあたしが若い頃……」などと脱線し、一向に噂のことを話す様子がない。
高次がため息を吐きながら先を促す。
「誰から聞いたんだ、その噂」
「さぁてねぇ、誰だったかしら。確かお店の常連の子だったと思うんだけど……いやだねぇ年っていうのは。あぁそれより、その噂について聞きたくないかい?」
この噂もまた町中の人が既に知っているのだろうが、ここだけの話だ、とでも言うように桂木夫人は顔を近づける。二階堂にも手招きし、彼がやってきたところで、ひそひそと話し始めた。
「なんでも、他に誰も居ないはずなのに、じっと視線を感じるんだそうだよ。悲恋の末、ホテルの一室で自殺した女の霊がいてね、仲のいい恋人に恨めしそうな視線を送ってるのだとか」
毎日寝泊りしているホテルで自殺事件が起きていたとは。
巽は思わず「知らなかったなぁ」と声を上げる。
そもそも店自体が開店から三ヶ月しか経っていないのだ。そんな中で人が死ぬような事件が起きていたら、それこそ町中の噂になっているだろうに。
とどのつまり、いかにもありふれた噂話である。根も葉もない噂だと一蹴しようとしたところで、巽の頭に疑問が浮かんだ。
その疑問を見透かしたように、二階堂が言う。
「巽さんは、客室の方には泊まったことがありませんよね」
「それは、……えぇ」
泊まったこともないのに、幽霊が居ないと断言出来るのだろうか。
勿論超常現象の類を信じているわけではないが、それでも実際自分の目で見もしないうちに笑い飛ばすのは、どうにもおかしな話に感じた。
幽霊はいないとしても、幽霊に見えるシミが天井についているかもしれないし、知らないうちに壁に隙間が出来ていて、ひゅうひゅうなる風を幽霊だと勘違いされている可能性だってある。
まずは客室を、確認してみるべきではなかろうか。
「お二人で客室の方に、泊まってみたらいかがですか。もしかしたら幽霊に会えるかもしれませんよ。事件は現場で起きるものです」
首をかしげる高次に、巽は年齢差を感じずには居られなかった。
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