第5話 「で、何の話だっけ」 「乾くん、笑うとかっこいいねって話」
思いのほか熟睡できたようだ。
目が覚めたら既に日は高く上っていた。
縁側から差し込む日差しに眩しさを覚えて、寝返りをうつ。そうして高次が隣に居ないことに気付き、ようやく布団から身を起こした。枕元においてある銀色の目覚まし時計を見ると、針は正午過ぎを指している。
高次はいつの間に起きたのだろうか。目覚ましのアラームは八時にセットしてあるようだが、まさか休みの日にその時間から起きていたわけではないだろう。それにアラームは夢の中でもなっていなかった、と思う。多分。一度眠ったら中々起きない巽なので、あまり自信は無いが、アラームにも気付かないほど人の家で熟睡していたというのは中々恥ずかしい。
台所から米が炊ける匂いと、味噌汁の匂いがする。
洗面所を借り顔を洗ってから、タンクトップと短パン姿のままそちらへ向かった。
今日も高次は青いストライプのTシャツにジーンズというラフな格好だ。仕事の日より手を抜いているのか髪もボサボサ気味で、振り返るその前髪が鬱陶しそうだった。
「おはよ。昼飯食う?」
両手鍋を持って居間へ行く高次についていくと、そこには既に食事の用意が整えられていた。長ネギの味噌汁とアジの開き、それから出汁巻き卵という、卓袱台によく似合う献立である。いずれも丁度出来立てのようで、温かな湯気と香りが立ち上っていた。高次が両手鍋の蓋を開け、その中で炊き上がる白米を茶碗によそうと、昼食、もとい、巽の朝食が完成した。
セットされたとおり、向かい合って座り、箸を手に取る。「いただきます」と小さく呟いて、茶碗を手に取った。
白米の表面はツヤツヤと輝いており、炊き上がりもふっくらとしている。炊飯器ではなく、あの鍋で炊いたというのだから驚きを隠せない。
「凄いね、鍋でお米って炊けるんだ」
「昔の人は皆そうしてたんじゃねぇの」
巽はといえば、炊飯器で米を炊くのにも時々不安になるぐらいだ。
そもそも今の炊飯器はよく判らないスイッチが多すぎる。
実家に住んでいたころ、米を炊くぐらいは出来るだろうと任されたものの、スタートを押したと思いきや予約ボタンを押してしまっていたようで、おかずだけが先に食卓に並んだことがあった。
鍋で炊いたご飯がやけに美味しく感じ、茶碗の中身だけ半分食べ終わったところで、思い出したように出汁巻き卵に手をつける。薄く焦げ目がついた卵焼きは、中の黄色との対比が美しい。箸で簡単に切れるほど柔らかく仕上がっていて、しかし崩れる様子もなくぷるぷると揺れている。
口に運べばふんわりと溶けてゆく卵と出汁の味に、巽は思わず呟いた。
「乾くんはお嫁に行っても困らなさそうだね」
「……」
部屋の隅で首を振る扇風機。
開けた窓際で揺れる風鈴の音。
短い夏を謳歌する蝉の鳴き声。
のんびりとした午後は、学生の頃に体験した夏休みと似ていたが、目の前に別の誰かが居て、一緒にご飯を食べるというのは、当時の思い出の中を探しても見つからない。
その相手が昨晩あのようなことをしてきた高次であり、そして彼が作った料理を食べているというのが、なんだかむず痒く感じる。
「何」
「えっ」
「箸止まってるけど」
気付かぬ間に顔をじっと見てしまっていたようだ。高次の皿は既に空になっていて、アジの骨だけが角皿の上を悠々と泳いでいた。
訝しげな様子でこちらを見る高次に、巽は慌てて首を振る。
「別に、なんでもないよ」
「あっそ」
それ以上の詮索はなかったものの、その後は卓袱台に頬杖をついてじっと巽の様子を見ていた。他にすることがないのだからそうするしかないのだろうけれど、観察しているとも言えるその視線に居心地の悪さを感じ、尚更箸を進めるスピードが落ちる。どうせならテレビをつけて、そちらを見ていて欲しいものだ。
だが、昨晩見つめられたときより、ずっと苦しくないことに巽は気付いた。
動悸が激しくなることもないし、息があがることもない。どちらかというと面映い感覚だ。
不思議に思う巽を見ながら、徐に高次が口を開いた。
「昨日も幽霊騒ぎ、調べてたんだろ」
「まぁ、うん」
調べていた、というほど収穫があったわけではないのに、巽は視線を畳へ落とす。昨日自分の力で出来たことといえば、ヨシヒコと話をしたぐらいだ。アレも正確にはヨシヒコの方から話しかけてくれたので、下手するとノーカウントかもしれない。
「そういえば乾くん、公園で会ったとき、『パラディーゾの幽霊の噂は、四ツ井不動産の仕業ではない』って言ってたよね。どうしてそう思うの」
「そりゃ、駅前開発ってのは、駅前を開発するための事業だろ」
読んで字のごとく。そんなことは巽にだって解っている。
それでもピンとこない巽に、高次が面倒くさそうな顔で言った。
「駅からバスで十分のところにある、チンケなラブホは関係ねぇじゃん」
「あ……」
チンケというのは余計かもしれないが、確かにその通りである。
ヨシヒコの話では、駅から歩いて一分の商店街すらまだ営業妨害にあっていないのに、そこを差し置いて『パラディーゾ』が被害にあうのはおかしな話だ。
「桂木のばばあが、町の噂話についてはよく知ってるよ」
「桂木さん」
「三丁目の桂木さんが言っていた」という、アケミの言葉を思い出した。余計な噂を流してくれちゃった、その三丁目の桂木某と同一人物だろうか。
「ばばあのとこまで、案内しようか」
高次に面倒を掛けるのは気がひけた。折角の休みをこんなことに使わせるのも悪い気がする。
しかし巽ひとりでは二進も三進も行かないことは昨日一日で良く解ったので、渋々案内を頼むことにした。
「そんじゃ、それ食ったら早速出かけようぜ」
そうして一宿一飯のお礼に、と食事の片づけを申し出る巽に高次は首を横に振り、「出かける準備をしてこい」と追いやった。
朝のうちに洗濯してくれたのだろう。庭で風に翻る巽のワイシャツは、夏の気温ですっかり乾いていた。
それを羽織ると洗剤と太陽の良い匂いがして、巽は思わず笑みを零した。
似合わないピンクのママチャリを引く高次の案内で、商店街へと向かう。
聴けばその自転車は、祖母の形見の品らしい。大事に使われていたのか、塗装の剥げこそ多いものの、錆びはひとつもなかった。ビーチサンダルでペタペタ歩く音と、カラカラ回る自転車の音が、夏の空気に良く似合う。
自転車を挟み、高次の二三歩後ろから、巽もあぜ道を歩いていく。
思えばこの三ヶ月、彼とは雑談らしい雑談はしたことがなかったな、と振り返る。職場では業務連絡しかやりとりしなかったし、その他は大体無言だった。
昨日一日でも、高次の色々な面に出会った。案外町の人には親切なこと、意外と料理上手なこと、高次でも笑うこと、そして両腕の中が暖かいこと。知ろうとしなかったから知らなかっただけだ、と巽は思う。
「乾くんて、なんで『パラディーゾ』で働こうと思ったの」
面接のときにも志望理由は訊いたが、そのときは「愛ある生活をサポートしたく云々」といった、テンプレートじみた回答だった。今なら本当の答えを教えてくれる気がして、巽はふと問いかける。
「遊ぶ金欲しさに」
「……」
まるでカツアゲをする中高生みたいな理由に、巽は思わず黙る。
しかしこの町に遊ぶところなんて無いではないか。
「それでも、わざわざラブホなんかで働かなくても、もっと色々あるんじゃない? コンビニとか、そういうの」
「最寄のコンビニは『車で二十分』だからなぁ」
「え、そうなんだ」
「この町にコンビニねぇよ。用事はまぁ、桂木惣菜店か、隣の酒屋……あぁ駄菓子屋のことな、そのふたつで済むっちゃ済むけど」
「おぉい高次!」
正面から白い軽トラがやってくる。
その運転席の窓から上半身を乗り出し、こっちに向かって手を振っている中年男性が居た。
高次が足を止めると、軽トラもその隣に停止する。
「おぉ。トマトのジジイじゃん」
「高次、相変わらず痩せてんな、ちゃんと食べているのか」
「食ってるよ」
運転手が一度車内に身を引っ込め、何やら赤いものが詰まったビニール袋を助手席から取り出した。
「これ、丁度ばあさんとこに持ってく分だったんだがな、ばあさん今日病院で居なかったんだ。高次にやるよ」
有無を言わさず高次にビニール袋を押し付ける。
いいのかと高次が訊くよりも早く、「そんじゃまたなぁ」と空になった手を振り、あっという間に遠ざかっていった。
高次がそのビニール袋を前カゴに積む。
中身はどうやらトマトのようだった。つるりとした赤い肌は太陽みたいに燃え盛っていて、そのままで齧っても美味しそうだ。
そうして高次が自転車を押して歩き出す。
巽も一歩遅れて付いてゆく。
「で、何の話だっけ」
「なんで、ラブホで働くことにしたのかって話」
「単純に、この辺で募集かけてたのが『パラディーゾ』だけだったから。他に意味なんてねぇよ」
「ふぅん」
「あと金髪でも採用されたし」
「そういえば何で黒色に染め直したの? やっぱり接客業じゃまずいって気付いたのかな」
「そんな感じ。まぁ『パラディーゾ』で働くのは……」
「高次くぅん!」
後ろから原動機付自転車、略して原付のやってくる音がする。
立ち止まり振り返ると、白いスクーターに乗った女性がぐんぐん近づいてきていた。同色のヘルメットを被っているせいで顔は見えないが、声の感じは四十代ぐらいだ。
そのスクーターと声で誰だか判ったのか、高次も軽く右手を上げる。
「ミドリ農家の」
「丁度いいところに居たわぁ。今用事を済ませてきたんだけど、そこでちょっと貰いすぎちゃったのよね。勿体無いから半分持ってってよ」
スクーターへ取り付けた黒い前カゴに、ビニール袋がつまれている。
そんなに量はなさそうに見えたが、彼女が袋を開くと、中にはオクラが詰まっていた。全身に産毛がびっしりと生えて、青々としたその姿は採れたてなのか、新鮮そのものだ。
彼女はそのオクラを鷲掴むと、トマトの入った高次のビニール袋へ放り込む。
そうしてトマトの赤色が見えなくなったところでビニール袋の口をきゅっと結ぶ。高次が何かを言おうとするとそれを止め、「それじゃまたね」と颯爽と去っていった。
そうして高次が自転車を押して歩き出す。
巽も半歩後を追いかける。
「で、何の話だっけ」
「『パラディーゾ』で働くのは? って話」
「あぁ、悪くない職場だとは思ってるって言いたかったんだ」
「でも、暇だしつまらなくない?」
「まぁなぁ。でも時々面白い人来るし。あのオカマの人とか」
「アケミさん?」
「そう。一之瀬さんの苦手なアケミさん」
「何で知ってんの」
「何でバレないと思ってんの」
ふふん、と、高次が得意げに笑った。
その顔を見て、巽は思わず足を止める。
「何」と高次が訊ねる前に、田んぼを挟んだ向こうのあぜ道から大声が聞こえた。
「あ、乾さんとこのぉ!」
そちらを見ると、ピンクのエプロンに三角巾をした女性が手を振っている。
彼女も自転車を引いているようだ。高次も手を振り返すと、彼女が自転車にまたがり、十字路を経由してこちらのあぜ道にやってきた。
高次の前で甲高い音を立ててブレーキをかける。
「カボチャのおばさん」
「こないだは自転車のパンク直してくれて有難うねぇ」
「その後も問題なく?」
「バッチリよ。今日も隣の酒屋さんのとこまでひとっ走り行って来たわ」
そうして自分の自転車の前カゴに積んであるカボチャをひとつ手に取り、「よいしょ」と高次の前カゴへ移動させる。
「今日はカボチャも良く採れたしねぇ。よかったらひとつ持ってって」
「あ、そっちトマト入ってるんだ」
「そうなの? じゃあそっち持っててあげるからカボチャを一番下にして……」
荷物整理が行われるのをぼんやり見ていれば、女性がふと巽の方を見た。
「もしかしてそちらの方は噂の?」
じっと覗きこまれる視線に、巽はたじろぎ目を逸らす。
高次が宥めるように背中をぽんと叩き、巽の代わりに答えた。
「そう。噂の一之瀬さん」
「あらそうなの。一之瀬さんもまたね、うふふ」と意味深に笑いながら、ハンドルを握りなおし、ペダルを漕いで去っていった。
そうして高次が自転車を押して歩き出す。
巽もその隣に並んで行く。
「で、何の話だっけ」
「……。乾くん、笑うとかっこいいねって話」
「そんな話してねぇだろ」
「ははは」
「一之瀬さんは笑うとかわいいね」
「え」
「一之瀬さんは俺のこと『笑わない』とか言うけどさ、あんただって俺には笑ったことなかっただろ」
新木とはニコニコ話してるのにさぁ、とからかうような口調で高次が言う。
そんなに顔に出ていたのだろうか、自分が顔に出やすいタイプだと知って、巽は思わず頬を染めた。
「別に、乾くんのことだって、嫌いじゃないけど」
「あっそ。……あ」
ふと高次が足を止めた。
前方、百メートルほど離れたところだろうか、道の真ん中で手を振っている男の影が見える。どうやら高次を呼んでいるようだ。
「ちょっと行ってくる、一之瀬さんはゆっくり歩いてきて」とサドルに跨ると、その男の元まで自転車を漕いでいった。
ふたりは何事かを話していたかと思えば、男が高次に何かを押し付けている。そうして再び手を振って去っていくのに、「まただ」と巽は思わず笑みを零した。
追いついた自転車のカゴには、案の定もうひとつビニール袋が増えていた。どうやら中身はナスのようだ。つるりとした立派な紫色が、袋から顔を覗かせている。
とうとう一杯になった前カゴを見つめながら、ふたりで歩き出す。
「で?」
「乾くんはモテモテだねって話」
先ほどの話を続きをするのはなんだか恥ずかしく、巽は別の話題に差し替えた。
今度は高次も掘り返すことはせず、「ジジババには、な」とつまらなさそうに言った。
出てくるときは空っぽだった前カゴは、今や夏野菜の詰め合わせが出来ている。なんだか童話に出てきそうな光景だったな、と巽は思った。
この辺りの若者は高次だけだろうし、皆高次のことを孫のように思っているに違いない。見かけるたびにお節介をしたくなるのだろう。
愛されているな、と巽は思わず目を細める。
高次はビニール袋の端を軽く引き、中を覗きながら言った。
「一之瀬さん、この野菜半分持って帰る?」
「事務室には冷蔵庫ないからいい」
「客室のに詰めときゃいいじゃん」
「本気で言ってるの」
「冗談だっつの」
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